第189話:「ガルムの覚醒」
最初の槍が、盾の表面で弾けた。
ガルムは両足を地に沈め、前へ押し出した巨盾で、その一撃を受け止めた。続く二本目、三本目。敵の先鋒が、一本道の入り口へ束になって突っ込んでくる。鉄と鉄がぶつかる重い音が、腕を通して肩の奥まで響いた。掌に伝わる衝撃を、ガルムは盾の角度で受け流す。長年の盾術が、考えるより先に体を動かしていた。
「前を、固めよ」
ガルムは短く吼えた。左右に並ぶ守護隊の盾列が、その声に合わせて半歩詰める。河と湿地に挟まれた狭い口で、敵の数の利を殺す。それが、ノアと引いた線だった。前衛のさらに後方には、騎士団と魔術兵団が控えている。守護隊が敵の勢いを受け止め、好機を作るまで、両隊は動かさない。そこまで含めての布陣だった。
だが、線の通りに動いてくれるのは、こちらの兵だけだ。
敵は線など知らぬまま、ただ後ろから押されて前へ出てくる。一人を退けても、その背後から二人が雪崩れ込む。退けても、退けても、土埃の向こうから新しい影が湧いて出る。ガルムは盾の縁を相手の喉元へ突き上げ、一人を地に沈め、すぐ次の槍へ向き直った。
腕の古傷が、鈍く軋んだ。
あの日、遠征拠点で受けた攻撃から、まだ幾日も経っていない。あのとき体に刻まれた痛手は、いまだ戻りきっていなかった。深手を抱えた右腕に、いつもの力が乗らない。本来なら、この口を塞ぐ概念の壁を一枚刻めば、敵の槍はガルムの前で止まるはずだった。【不動の盾】――そこを通さぬという理。けれど、いま立てられる壁は薄く、すぐにほつれた。刻んでも、刻んでも、端から崩れていく。
息が上がる。奥歯を噛み、ガルムはまた一人、敵の重騎兵を盾で押し返した。鎧の重みを乗せた敵の体当たりが、地に沈めた足を半足ぶん後ろへずらす。さがった。たった半足。だが、その半足が、後ろの兵たちの命の余白を削る。
「隊長っ」
右の盾列で、声が裂けた。
ガルムが目を向けると、列の端が割られていた。敵の騎兵が三騎、押し合いの隙間をこじ開けて、内側へ食い込んでいる。そこは、昨夜まで震えていた若い兵たちの持ち場だった。
一人が、盾を構えたまま馬蹄に巻き込まれた。
はね飛ばされ、畝のあいだへ叩きつけられる。立ち上がろうとした背へ、敵兵の剣が振り下ろされた。声を上げる間もなかった。盾を握っていた手が、地面の上でゆっくりと開いていく。
ガルムは駆け寄ろうとした。
だが、体が間に合わない。損耗の残った足は、思った速さで動かなかった。ガルムが二歩踏み出すあいだに、別の若い兵が背後から斬られ、また一人が、横から突き込まれた槍に膝を折る。守ろうとした手は、どれにも届かなかった。
「退くな、後ろへ流すな……!」
声を張り上げ、ガルムは割れた列へ巨体をねじ込んだ。食い込んだ騎兵の正面に立ち、巨盾を真横へ薙ぐ。三騎まとめて弾き飛ばし、こじ開けられた穴を、自分の体で塞いだ。
だが、塞いだのは穴だけだ。
足元には、もう動かぬ兵が転がっていた。一人。二人。さっきまで、怖いと震えながらも列を離れなかった者たちだ。その震える手で、それでも盾を握れと命じたのはガルムだった。怖いなら震えていてよい、前はわしが引き受ける――そう約束して、この若者たちを列に留めた。
引き受けると言った前線を、ガルムは守りきれなかった。
胸の底が、冷たく落ちた。
◇◇◇
敵の波が、一度引いた。
先鋒を弾き返した防御線の前に、束の間の空白が生まれる。だが、それは敵が退いたからではない。次の、もっと厚い列を押し出すための、ただの呼吸だった。土埃の壁の奥で、隊列が組み直されていく気配がする。
ガルムは荒い息を吐きながら、巨盾を地に立てて、その縁に体重を預けた。
腕が、震えている。盾を握る手の感覚が、遠い。背の古傷から這い上がってくる疼きが、首の後ろまで届いていた。視界の端が、白くにじむ。
足元に倒れた兵へ、ガルムは目を落とした。
若かった。まだ、十代の半ばだろう。守護隊に志願してきた日、この兵はガルムの前で背筋を伸ばし、『民を守れる兵になりたい』と言った。その背筋を、ガルムは覚えている。覚えているのに、守れなかった。
わしは――盾だ。
誰かの前に立つために、ここにいる。それだけのために、勇者に誇りを折られても、生き恥を晒しても、立ち続けてきた。なのに、いま、その盾の後ろで、守るべき若者が倒れている。
「わしは……ここまでなのか」
声が喉から漏れた。
誰にも聞かせるつもりのない、底の言葉だった。震える手で柄を握り直しても、その震えが止まらない。次の波が来れば、また誰かが、この手のすぐ先で倒れる。それを見ていることしか、できぬのか。
膝が、わずかに落ちかけた。
地に突いた巨盾だけが、ガルムの巨体を支えていた。長年、数えきれぬ刃をその身に止めてきた盾だ。その縁に額を寄せかけたとき――胸の奥で、一つの声が蘇った。
『君の本質は、こんなものではないはずだ』
ゼノリス様の声だった。
倒れた仲間たちの手を、一人ずつ取りながら、あの方は言った。私のために、これほどの重荷を背負わせた、と。誠実に、頭を下げながら。それでいて、瞳の奥はまっすぐにガルムを射ていた。私には見える、その先にある真なる輝きが――と。
あの言葉に、嘘はなかった。
ガルムには、それが分かる。長い生で、人の値踏みを嫌というほど浴びてきた。勇者は、ガルムを『使えない』と断じた。世界も、ガルムに無能の烙印しか与えなかった。だがゼノリス様だけは、誰も見なかったものを、見えていると言った。慰めでも、世辞でもなく。
ならば、ここで膝を折ることは。
あの方の瞳を、嘘にすることだ。
ガルムは、額を盾から離した。落ちかけた膝を、もう一度地へ踏ん張る。震える腕に、残った力をかき集めて、巨盾を持ち上げた。視界の白みは消えない。息も整わない。それでも、立った。
――立てるあいだは、まだ盾だ。
顔を上げたガルムの正面で、土埃の壁が、ひときわ濃く膨れ上がった。組み直された敵の列――白い旗を掲げた勇者軍が、再び一本道へ向かって動き出す。その先頭に、ほかより頭一つ大きい黒い影があった。
地を踏み鳴らしながら歩き、近づいてくる。分厚い白鉄の鎧。肩に担いだ巨斧。胸元にプラチナの徽章が陽を弾いていた。
ガルムは、その顔を見た。
知っている。忘れたくとも、忘れられぬ顔だった。
黒い巨体が、防御線の数歩手前で足を止めた。
勇者一行の一人、巨斧の重戦士ブラムが肩の刃をゆっくりと下ろす。細い目で、ガルムの全身を上から下へ舐めるように検めた。やがて、その口の端が吊り上がる。
「使えない、おいぼれじゃねーか!」
ブラムが、白い歯を見せて笑った。
「ここでも使えないのかよ。やっぱり、腰抜けの下でも使えない奴は使えねぇーな」
その声に、ガルムの記憶が裏返った。かつて同じ戦場に立った男だ。味方として並んでいたころから、ブラムは弱った兵を『戦場の邪魔』と踏みつけ、平然と前へ出ていく男だった。あのころと、何一つ変わっていない。
ガルムは巨盾を立てたまま、低く問うた。
「おぬし、腰抜けとは誰の事を申しておる?」
声は、抑えていた。抑えていられたのは、まだ、自分への侮辱だと思っていたからだ。
「ガハハ!」
ブラムが喉を反らして笑った。
「お前たちの王だよ! 俺たちに負けて、這って逃げた腰抜け魔王だ」
ガルムの中で、何かが軋んだ。
「なんだと!」
「ガハハ! 怒んのかよ。だがな、本当のことだろうが。使えない盾が、使えない王に拾われた。お似合いじゃねーか」
ガルムの視界が、すっと狭まった。
そう罵られることには、慣れていた。勇者にそう断じられた日から、その言葉はガルムの背に刺さったまま、抜けずにいた。だが、それは耐えられる。自分一人の屈辱なら、いくらでも呑み込める。これまでも、そうしてきた。
呑み込めぬものが、一つだけある。
ゼノリス様だ。
暗闇の中から、ガルムを拾い上げた人。誰も見なかった輝きを、見えると言いきった人。あの方を『腰抜け』と呼ぶことだけは、ガルムの誇りの、ただ一本の根を断ち切る侮辱だった。
地に立てた巨盾を、ガルムは握り直した。
震えていた手から、震えが消えていた。
いつのまにか、息の乱れも止まっている。体の芯に巣食っていた疼きが、不思議と遠い。そのかわり、腹の底から、見覚えのない熱が静かに昇ってくる。古傷の奥で凍えていた何かが、内側から灼かれて、溶けていく。
「もう一度言ってみろ」
ガルムは、巨盾を地から引き剥がした。
「あの方を『腰抜け』と。――その言葉、叩き返してくれる!」
咆哮が、戦場を裂いた。
腹の底の熱が、怒りの形を捨てた。ゼノリス様を嗤われた怒りは、いま、誰一人この先へ通さぬという一念に変わっている。守る、ただそれだけのために、この身は盾になったのだ。
その声と同時に、長年ガルムを押さえつけてきた見えない天井が、内側から砕けたように『力』が溢れた。
これまで、刻もうとしても端からほつれていた防御の理が、いまは輪郭をもって体の内に見える。どこを通さぬか。どこに線を引くか。考えるまでもなく、地と空のあいだに、揺るがぬ境が走るのが分かった。これはもう、世界が許すと決めた力ではない。その先へ、ガルムは自分の足で踏み出していた。盾を持つ必要すら、もうないのかもしれない。だが、この盾はガルムの誇りだ。だから、握る。
「死ねや、おいぼれ!」
ブラムが巨斧を振りかぶり、全身の重みを乗せて打ち下ろした。白鉄の刃が、唸りを上げてガルムの脳天へ落ちてくる。
ガルムは、動かなかった。
巨盾を、ただ頭上へ掲げた。
斧が、止まった。
刃は盾に当たってさえいなかった。ガルムが掲げた巨盾の、その一掌ぶん手前で、ブラムの一撃は見えない壁にめり込んだまま、ぴたりと静止していた。鉄の唸りが、ふつりと途切れた。腕の力ではない。ここを通さぬ、というガルムの意思が、空間そのものを岩に変えていた。
「な……っ」
ブラムの顔から、笑いが落ちた。
全身の体重を乗せた斧が、びくとも進まない。ブラムは慌てて引き戻そうとしたが、刃は虚空に縫い止められたまま動かなかった。その分厚い腕が、初めて細かく震えた。強者の前でしか威張れぬ男の、見慣れた怯えだった。
「退け」
ガルムは、巨盾を真上へ突き上げた。
固定が解けた瞬間、行き場を失っていた斧の重みが、そのままブラムへ撥ね返る。巨体が真後ろへ吹き飛び、背後に詰めていた勇者軍の前列を巻き込んで、土煙の中へ転がっていった。一人がブラムの体に潰され、数人が将棋倒しに足をすくわれる。突撃の勢いが、根元から断たれた。
ガルムは、一歩、前へ出た。
たった一歩だ。だが、その一歩の前に、もう敵の入り込める隙間はなかった。地に引かれた見えぬ境の向こうへ、誰も踏み込めない。それを肌で察したのだろう、起き上がった敵兵たちが、じりじりと後ずさり始めた。
いまだ、とガルムは見た。
「騎士団、両翼! 魔術兵団、撃ち込め!」
地を震わす号令が、防御線の後方へ届いた。ガルムの盾が敵の足を縫い止めたその一瞬、後ろで機を待っていた騎士団が、河と湿地の際を縫って両翼から斬り込む。逃げ場のない一本道に押し込められた勇者軍は、左右へ開く隙間を持たない。その密集の只中へ、魔術兵団の術式がいっせいに撃ち下ろされた。
爆ぜた炎と土塊が、ひしめく前列を吹き散らす。芯を失い、抑えを破れず、退路を断たれた軍は、もう数の塊ではいられなかった。先頭が折れ、その乱れが後ろへ波を打ち、白い旗の隊列が内側から崩れていく。
「下がれ。ここから先は、進ません!」
低い声が、一本道の口に満ちた。
揺らいでいた守護隊の盾列が、その背を見て、もう一度前へ詰め直す。やがて退き鉦が鳴り、潰えた隊列は土埃の彼方へと引いていった。少なくとも、この口は、今日は破られなかった。
◇◇◇
戦場に、静けさが戻った。
ガルムは巨盾を下ろし、自分の両掌を見た。体の奥に灯った熱は、まだそこにある。これまで届かなかった場所へ、いまなら手が届く。長い生の果てに、ようやく辿り着いた力だった。
「これが……わしの真なる力か」
呟きは、しかし、高揚にはならなかった。
ガルムの足元には、まだ、あの兵が倒れている。十代の半ばの、背筋を伸ばして志願してきた若者だ。この力が、もう半刻早く目覚めていたら。あの手は、地面の上で開かずに済んだかもしれない。
ガルムは、その傍らに膝をついた。
大きな掌で、若い兵のまぶたを、そっと閉じてやる。覚めたばかりの力は、すでに失われた命までは、何一つ取り戻せなかった。
南の空は、よく晴れていた。
血の匂いの立つ地の上に、その青はただ無関係に広がっている。ガルムの胸が晴れたわけでも、戦が終わったわけでもない。まだ別の戦が続いている。
膝をついたまま、ガルムは静かに息を吐いた。
守る力を、ようやく手にした。手にしてなお、こぼれ落ちたものがある。その重さごと背負って立つのが、盾の務めなのだと、ガルムは噛みしめた。




