第188話:「第二波侵攻」
乾いた蹄の音が、南の街道を埋めていく。地平の端から、それは止まらなかった。
ノアは布陣の後背に置いた荷車の上で膝を立て、街道の先へ目を据えていた。穂の伸びた畑が、街道の両側に広がっている。その金色の穂波の向こう、地平の縁に、土埃の帯が立ちのぼっていた。
ノアは膝の上に地図を広げ直した。
街道。河。湿地の縁。補給の通る一本道。指でその線をなぞりながら、押し寄せる隊列の幅を、穂波の揺れる向きと土埃の厚みから測っていく。帯の端が、見えない。畑の縁から畑の縁まで、土埃が横へ伸びきって、終わりがどこにあるのか掴めなかった。
ノアの指が地図の上で止まった。
北西は八千の規模だった。これは、それを超える。
一個一個の兵を数えて足し合わせるより、街道が呑み込める通行量から逆算した方が早い。この道幅で、この奥行きで、隊列がこれだけ詰まっているなら――喉の奥が乾いた。計算が追いつく前に物量で塗り潰されていく感覚があった。
膝の下で、息が浅くなる。
ノアは荷車の縁を掴んで、座り直した。少し身を起こしただけで、肺がひゅっと鳴る。最弱の天才と陰で呼ばれる体は、こういうときに真っ先に音を上げた。盤面は頭の中で回せても、その頭を載せた体は、戦場に出るだけで悲鳴を上げる。喘ぎを噛み殺し、ノアはまた地平へ視線を戻した。
街道の手前では、守護隊が杭の列を伸ばしていた。
盾を抱えた兵が、ガルムの差配で前へ前へと並んでいく。その後方、刈り入れ前の畝のあいだを、避難民の列が後ろへ流れていた。荷を背負った年寄り。子の手を引く女。守護隊の兵が、その流れを乱さないように脇へ立ち、後方の村へと誘導している。
「ガルムさん」
ノアは荷車を降りて、近くの防柵まで足を運んだ。数歩で、もう息が上がる。
「規模、北西を超えます」
「そうか」
ガルムは前を向いたまま、低く返した。巨大な盾を地に立て、その縁に手を置いている。
「数では、こちらが押される。だが、ここは通さんように、布陣を敷いておる」
ガルムが顎で、街道の左右を示した。河と湿地。逃げ場のない一本道に敵を絞り込む形に、防御の線が組まれている。ノアが昨夜引いた線の通りだった。
その防御線の端に、若い兵が数人、固まっていた。
ノアの目がそこで止まる。盾を構えてはいる。だが、構えた腕が小刻みに揺れていた。一人がしきりに地平の砂塵へ目をやっては、また手元へ視線を落とす。隣の兵に何か囁き、その兵が首を横に振る。構えた盾の裏で小さく波打っていた。
ガルムも、その数人へ目を向けていた。けれど、何も言わなかった。盾の縁を、掌で一度確かめただけだった。
穂波が風で大きく傾いだ。
その傾いだ穂の向こうで、土埃の壁がひときわ濃くなった。
◇◇◇
帯の先頭に、隊列の輪郭が現れた。
ノアは荷車へ戻り、鞄の中から遠見の魔導具を取り出し、南の地平へ向ける。揺れる視界の中で、その先頭の頭が、少しずつ像を結んでいった。
白い旗。重い隊列。その先頭に、三つの人影が抜きん出ていた。
ノアの指が筒の上で固くなった。
知っている。三人とも、知っている顔だった。カレドの夜の大通りで、ゼノ様の前に立ちはだかった三人だ。あの三人の実力は、もう知っている。戦って勝てない相手ではない。それは、ノアの計算でも分かっていた。
問題は、三人が何を背負って、ここに来たのかだ。あの夜は、勇者と三人だけだった。だが、いまは違う。北西を超える軍勢の先頭に、あの三人がいる。
筒を握る手に、力がこもった。
隊列は、三人を芯にして組まれていた。中央の馬上で赤い外套が揺れ、その周りの兵の歩みが緩い。杖を肩に預けたまま、こちらを警戒もしていない。魔王軍など構える価値もないと、隊列の間延びした足並みが、そう言っていた。侮りが、そのまま兵の運び方に出ている。つけ入る隙だと頭の隅で算盤を弾きながら、その同じ緩みが自分たちへの値踏みでもあることを、ノアは読んだ。
「ガルムさん。あの聖女、見えますか」
ノアは筒を覗いたまま、横へ声を投げた。隊列の脇で、聖布の一団が負傷兵の列を流していく。銀髪の聖女が、ある兵には手をかざして淡い光を落とし、次の兵には足を止めず背を向ける。救う者と、見捨てる者。怪我の重さで選ってはいない。価値で振り分ける手つきだと、ノアの目は遠くからでも読み取れた。
「相変わらず、救う相手を選んでおる」
ガルムも遠見の魔導具を覗きながら答えた。その声には、苦いものが混じっていた。
「わしがまだ勇者側にいた時も、ああやって味方を量っておった。あの女の慈悲は、値札のついた慈悲じゃ」
ノアは頷いた。聞こえない距離でも、所作だけで手口がわかる。今も昔も何も変わっていないのだろう。
筒を先頭へ戻したとき、黒い影が視界を塞いだ。徒歩で進む巨斧の重戦士。分厚い白鉄の鎧が、それだけで前列の幅を一つぶん埋めている。ブラム。ノアは反射的に斧の刃わたりと歩幅を測り――そこで、隣のガルムが口を閉ざしたのに気づいた。
ガルムの細い目が、その黒い巨体の一点に据わっていた。
さっきまでの声は、もう出てこない。盾にかけた手はそのままに、ガルムは黙ってブラムを見ている。ノアの位置からは、その表情までは読めない。だが、厚い背がほんのわずか沈んだのが、横目にわかった。
ノアは何も言わずに筒へ視線を戻した。いまそこに踏み込む言葉を、ノアは持たなかった。
筒の中で、三つの人影が、街道を詰めてくる。
三人の力は、計算に入っている。底を見た相手だ。だが、その三人がいるだけで、後ろの軍勢の意味が変わる。プラチナ徽章の英雄が先頭を進む。それだけで、後ろの兵は『自分たちは勝つ側にいる』と信じる。崩れかけても、踏みとどまる。あの大軍を一つにまとめている芯が、三人だった。
その芯を、ノアは旗印と読んだ。倒すべきは三人だけではない。三人が束ねた数の流れもだ。だが、こちらにそれを捌く力があるか。北西には、限界を超えた三人がいた。ここにいるのは、ノアとガルムだけだ。
ノアは遠見の魔導具から、目を離した。
筒を下ろすと、地平の軍勢はまた、土埃の帯に戻った。けれど、もう『数の帯』には見えなかった。その帯の先頭で何が起きるかを、ノアの目は知ってしまっていた。
◇◇◇
退き鉦の音が、北西の戦場を遠く流れていた。
ゼノリスは境界帯の後背に立ち、その音の方へ目を向けていた。さっきまで戦線を圧していた敵の影は、いま、後方へ後方へと引いていく。味方が、空いた地へ押し出していった。勝った。確かに勝った。その勝ちの裏に、二度と起き上がらぬ者たちが横たわっていることも、ゼノリスは目に焼きつけたばかりだった。
風が焦げた土の匂いを運んでくる。
「ゼノ様」
隣で、セレナが空を見上げていた。煙の流れる先――南の方角へ、藍色の瞳が向いている。
「ガルムさんとノアさんも、きっと……」
言いかけて、セレナは続きを呑んだ。祈りとも問いともつかない、迷いのにじむ声だった。重ねた両手の指先に、わずかに力がこもっている。
「そうですね」
ゼノリスは静かに応えた。
「彼らは必ず、その本質を解放する」
迷いはなかった。慰めでも、願望でもない。ゼノリスの両眼には、二人の真の姿が、初めて会った日からずっと見えている。
守ることに身を削り、誰にも弱音を吐けずにいた老騎士。その盾は、まだ硬くなれる。盤面のすべてを背負い、勝つために眠らずにいる軍師。その頭脳は、まだ深くまで届く。世界が二人に押しつけた天井は、二人の本当の高さではない。ゼノリスがその輝きを見抜いた日から、それは一度も揺らいでいなかった。北西の三人が己の限界を打ち砕いたように、南の二人もまた、自分の手でそこへ至る。星の色が、ゼノリスの胸の内で、静かに金を帯びていた。
「……城へ戻ります」
「城ですか」
セレナがゼノリスを見上げた。
「私がこの北西にいることを、国境の防衛線にいる者は、誰も知りません」
ゼノリスは自分の立つ後背の丘を、一度見渡した。
「ここに留まっても、前線へ何かを届けられるわけではありません。むしろ、各地からの報せが集まるのは魔王城です。次の手を打つなら、私はあの城の机の前にいなければならない」
南へ駆けつけたい、という衝動がなかったわけではない。だが、それは王の役目ではないと、ゼノリスは知っていた。前線で剣を振るうのは二人だ。盤面の全体を見て次を決めるのが、自分の務めだ。立つべき場所を違えた者が前へ出れば、守れるものも守れなくなる。
「わかりました」
セレナは頷いた。それから、ゼノリスの半歩前へ出て、南の地平をもう一度見やった。
「あの方たちは、大丈夫ですよね」
今度は、語尾が揺れなかった。自らに言い聞かせる響きだった。ゼノリスはその背に、視線を添えた。
南の空は、煙の北西とは違って、よく晴れている。だがその晴れた地平の下で、いま新たな戦が始まろうとしている。空の青さは、戦況とは関わりなくそこにある。穏やかであることが、安全であることを意味しない。
――ガルム、ノア……頼む。
声には出さなかった。出せば、二人を信じきれていない証になる気がした。ただ胸の奥で、その一言を、南へ向けて置いた。
ゼノリスは踵を返し、魔王城への道へ足を向けた。セレナがその隣に並ぶ。二人の背後で、北西の戦場が、遠ざかりはじめていた。
◇◇◇
地が鳴りはじめていた。
ガルムは防御線の先頭に立ち、迫る軍勢へ正面を据えていた。蹄と足音が、一つの重い唸りになって地を伝ってくる。掛けた盾の裏側で、腕の古傷が鈍く疼いた。雨の前と、戦の前。この傷は、いつも同じ疼き方をする。
背後を、ガルムは一度だけ振り返った。
守護隊の列の端で、若い兵たちが盾を構えている。さっきよりも、震えが大きい。一人は唇を引き結び、一人は浅い息を繰り返し、一人は柄を握る手の甲を白くしている。
ガルムは列の後ろへ回り、その兵たちのそばへ歩み寄った。
「怖いか」
低く、短く問うた。兵の一人が、びくりと肩を上げる。答えられずにいる若い兵へ、ガルムは前を向いたまま続けた。
「怖くて、いい。震える手で盾を持てるなら、それで充分だ」
兵の手は、まだ小刻みに動いている。それでいい、とガルムは思った。恐怖を消せとは言わない。消えない恐怖を抱えたまま、それでも一歩も退かぬ者を、ガルムは何人も見てきた。かつての戦場で、誰よりも先に逃げたのは、恐怖を知らぬと嘯いた者たちだった。
「お前たちの後ろに、村がある。逃げる者たちがまだおる。お前たちが半歩でも退けば、その半歩のぶん、あの者たちに刃が届く」
ガルムは前方の軍勢へ、また向き直った。
「だから、ここにおれ。前は、わしが引き受ける」
兵たちの目に、まだ怯えは残っている。だが、列を離れる足は、一人もなかった。強張った手で、柄を握り直す。それが、いまの彼らにできる精一杯だった。ガルムはそれ以上を求めなかった。求めるべきは、兵ではなく、自分のほうだと知っていた。
地の唸りが、また一段大きくなる。
「ガルムさん」
いつのまにか、ノアが隣に立っていた。地図筒を脇に抱え、押し寄せる敵列を見据えている。線の細い肩が、上下に小さく揺れていた。ここまで来るだけで、息が上がっている。
「数の差は、覆りません。まともにぶつかれば、削り負けます」
「わかっておる」
「でも、ぶつかり方なら、僕が選べます。地形と、時間と、敵の慢心を使えば……一回分の突撃は必ず凌げる」
ノアの声は、いつもの静けさを保っていた。だがその底に、何かを抑えた響きが滲んで聞こえた。
「凌いだその先は?」
ガルムが問うと、ノアは一拍、黙った。
「……まだ、ありません。その先は、僕にも見えていない」
盤面を読む男が、見えない先を見えないと言う。その正直さを、ガルムは責めなかった。
「ならば、その先を作るのは、わしらの役目じゃな」
ガルムは前方へ目を戻した。プラチナの徽章が、隊列の先頭で陽を弾いている。あの黒い巨体が、まっすぐにこちらへ向かってくる。かつて、わしを『使えない』と捨てた側の顔だ。あの頃のわしは、それを呑むしかなかった。だが、いまは違う。
「ノア。わしらも、強くならねばならん」
ガルムの声は低く、揺るがなかった。
「もっと強くならなければ、みんなを守れん。北西のあの三人のようには、まだなれておらん。だが、なってみせる」
「ええ」
ノアは短く応じた。地図筒を握る手に、力が入る。
「僕も、ここで終わるつもりはありません。ガルムさんの隣で、最後まで頭を回し続けます」
ここへ来る道中、息も絶え絶えだったノアの口ぶりとは、もう違っていた。この若者も、腹を括ったのだ。ガルムにはそう思えた。
軍勢の先頭が、こちらの射程へ入ってくる。
巨斧の重戦士が、徒歩のまま歩幅を広げた。その背後で、八千を超える数が、一本道へ向かって流れ込もうとしている。聖布の一団も、赤い外套も、その奔流の中にいる。ガルムは巨盾を前に出し、両足を地に沈めた。震える兵たちの前で、動かぬ壁になる。
まだ、誰も覚醒していない。まだ、勝ち筋は見えていない。
地の唸りが防御線の足元まで届いた。




