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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第183話:「侵略の開始」

 報告書の束が、執務室の机に置かれた。


 紙の角が揃っていなかった。一番上の一枚だけが、束の縁から半指ぶん突き出している。リゼットがそれを揃え直さずに持ってきた。揃える間も惜しい報せだと、紙の置き方そのものが告げていた。


 ゼノリスは椅子に座り、机からその束に目を落とした。窓から入る昼の光が、紙の表面を白く照らしている。束の影が机の上で濃く落ちていた。


「リゼットさん」


 ゼノリスは口を開いた。


「報告をお願いします」


「はい」


 リゼットは机の手前の位置から、半歩進んだ。瞳孔が縦に細く絞られている。執務室の光の中で、その細さがいつもより際立っていた。


「本日未明、教会連合圏の軍が、北西の国境境界帯に向けて進発しました。先発の斥候が、すでに大森林の外縁に達しています」


 ゼノリスは束の一番上の紙に指を伸ばした。突き出していた一枚を、束の中へ押し戻す。指の腹に、紙の乾いた感触が残った。


「規模は」


「諜報員の数えた範囲で、本隊はおよそ八千」


 数が、執務室の空気に置かれた。


「内訳は三つです。聖騎士団が前衛。グランフェル王国から合流した王都近衛隊が中軍。そして――異端審問官の一団が、後方に」


 リゼットはそこで一度、息を継いだ。


「異端審問官は、戦力としての数は多くありません。ですが、彼らの役目は戦闘ではないと、諜報員は見ています。占領後に、住民を『異端』として選別する。それが、彼らの仕事です」


 ゼノリスは指を紙から離した。


 八千、という数を頭の中でもう一度なぞった。北西の国境境界帯に並んだ赤い印は三つだった。あの時ヴェルナーは、次の侵攻を十日以内、早ければ七日と読んだ。今日が、その七日目だった。


「到達は」


「斥候が、明日の夕刻。本隊は、明後日の朝には国境境界帯に届きます」


「明後日……」


 ゼノリスはその時刻を、口の中で繰り返した。


 窓の外で、城下の屋根が昼の光を受けて並んでいた。あの屋根の一つ一つに、民の暮らしがある。北西の境界帯にも生活を営んでいる民たちがいる。そこに八千の軍が届く。


「リゼットさん。この報せ、戦術戦略部のヴェルナーさんには?」


「すでに伝えました。今は、防衛線の組み直しに入っています」


「わかりました」


 ゼノリスは答えた。


「ありがとうございます。引き続き、斥候の位置を追ってください」


「承知しました」


 リゼットは頭を下げ、扉の方へ向かい、出て行った。足音はほとんど立たなかった。


 執務室に、ゼノリスひとりが残った。


 机の上の報告書の束が、昼の光の中で、ただ白かった。


 ゼノリスは椅子から立ち上がった。


◇◇◇


 治療室の扉の前で、ゼノリスは一度、足を止めた。


 この扉の向こうに、五人がいる。遠征拠点で倒れ、昨日ようやく言葉を交わせるようになった。


 伝えるべきか。


 ゼノリスは扉の前で、それを考えた。


 八千の軍が来る。その事実を、寝台から動けない五人に告げて、何になる。動けない者に脅威を知らせれば、心だけが先に戦場へ走る。身体が追いつかないまま、焦りだけが募る。伏せておく方が、五人の療養のためではないか。


 ゼノリスは扉の取っ手に手をかけて、止めた。


 いや……、思い直した。


 昨日、この部屋でノアは言った。『今のままでは、勝てません』と。負けを負けのまま、ゼノリスの前に差し出した。ゼノリスはそれを遮らなかった。敗北を敗北のまま口にできる場所を、自分は誠実さと呼んできた。


 その同じ口で、侵略という事実だけを伏せるのか。


 伏せれば、五人は『事実を知らされない者』になる。かつて世界が、彼らを無能と決めつけ、何も知らせず切り捨てた。あの扱いと、同じところへ戻すことになる。


 それに――。


 カイロは影だ。


 城の空気の張りつめ方を、寝台の上からでも読む。


 ノアは盤面を読む。伝令の足音の数が変わったことに、すでに気づいているかもしれない。中途半端に隠せば、五人は不確かなまま、自分の判断で動こうとする。昨日セラは『すぐにでも戦えます』と、息も足りないのに口にした。


 正確に伝えて、その上で『動くな』と言う。それが……五人を守る道だ。


 ゼノリスは扉を開けた。


 寝台が五つ、昨日と同じ位置に並んでいた。薬草を煮た匂いが、部屋の奥に薄く溜まっている。五人とも、目を開けていた。ゼノリスの足音を、十の目がそれぞれの速さで辿った。


「……みなさんに、伝えることがあります」


 ゼノリスは寝台の列の中ほどで足を止めた。声を、五つの寝台すべてに届く高さに置いた。


「教会連合圏の軍が、北西の国境境界帯に向けて進軍しています。本隊はおよそ八千。明後日の朝、境界帯に届きます」


 部屋の空気が一段、沈んだ。


 カイロの目が、まっすぐゼノリスに向いた。乾いた唇が薄く開き、また閉じた。声を出すより先に、状況を測る目だった。


 セラは枕の上で、奥歯を噛んだ。頬の輪郭が、噛みしめた力で硬くなった。


 シルヴァの視線が、天井から、ゆっくりとゼノリスへ降りてきた。


「私は、この報せを伏せることも考えました」


 ゼノリスは続けた。


「ですが。あなたたちに、事実を知らないまま寝ていてほしくはない。それは、あなたたちを切り捨てた世界のやり方だからです」


 ガルムの厚い胸が一度、大きく上下した。


「その上で、お願いがあります」


 ゼノリスは五人を見渡した。


「防衛は、城に残った部隊と、私が担います。騎士団も魔術兵団も守護隊も、遠征に出なかった兵と動ける兵がいます。ヴェルナーさんが、いま防衛線を組み直しています。あなたたちは……ここで、身体を治すことに専念してください」


 言い終えて、ゼノリスは五人の返事を待った。


 部屋が静かだった。


 その静けさを、最初に破ったのは、寝具の擦れる音だった。


 カイロが、肘を寝台に突いていた。上体を、わずかに起こそうとしている。腕が震え、その重さを支えきれずに、肘から下が寝具に沈んだ。それでもカイロは、起こしかけた首だけを、ゼノリスへ向けた。


「行きます」


 声は擦れていた。だが、迷いはなかった。


「ゼノリス様。俺は、行きます」


「カイロ……」


 ゼノリスはその名を呼んだ。


「あなたの身体は、まだ――」


「動かない。わかっています」


 カイロは遮った。遮ってから、息を継いだ。


「それでも、ここでは影の仕事ができません」


 隣の寝台で、セラが声を上げた。


「私もです、ゼノ様」


 息が足りずに、語尾が掠れた。それでもセラは、続けた。


「この部屋にいて、城が攻められるのを、天井を見て待つ……そんなのできない。私は騎士団長です」


「セラ……」


「ゼノ様の国が攻められるのに、私が寝ているなんて、絶対に嫌です」


 窓側の奥で、シルヴァが口を開いた。


「ゼノ様。ひとつ、確認させてください」


 シルヴァの声は端的だった。語り口の角度は、昨日と同じく崩れていなかった。


「魔術兵団の残存戦力で、結界は何線、張れますか」


 ゼノリスは答えた。


「エルネスさんの組み方で、北西の境界帯に一線です」


「一線……」


 シルヴァはその数を、静かに受け取った。


「八千の軍に対して、結界一線。私の『真理の眼』があれば、敵の術式を解き、その一線をもっと長く保たせられます。寝ていれば、その一線が、早く……落ちてしまいます」


 ゼノリスは、三人の言葉を受け止めた。受け止めて、なお、首を縦に振らなかった。


「あなたたちの言うことは、わかります。ですが、私は――」


「ゼノ様」


 声を挟んだのは、ノアだった。


 廊下側の奥の寝台で、ノアは腹の上に手を組んだまま、天井へ顔を向けていた。その姿勢のまま、続けた。


「数字の話を、させてください」


 ゼノリスは口を閉じ、ノアへ視線を移した。


「先に、教えてください。動ける騎士団は、いま何名ですか」


 ノアは天井の一点を見つめたまま、ゼノリスに問うた。


「騎士団の動ける兵は、二百と少しです」


 ゼノリスは答えた。


「魔術兵団の結界は、エルネスさんの組み方で一線。守護隊は、城の防衛から動かせません」


 ノアは、その三つの数を、しばらく天井の一点に並べていた。


「……その数では、足りません」


 ノアの声に、力みはなかった。ただ、盤の上の駒を読み上げるように、平らだった。


「今の部隊だけで八千を国境境界帯に止める。その盤面は、どう並べ替えても、僕には組めません。ゼノ様の力を一手に数えても、です。五人ぶんの穴が、埋まらない」


 ノアは一度、言葉を切った。


「今の部隊だけの防衛線は、長くて二日で抜かれます。そうなれば、境界帯の農地と集落は、八千の軍の前に無防備に晒される。それが、伏せようのない見立てです」


 部屋の空気が、その見立ての重さで、底まで沈んだ。


「ノア」


 重い声が、廊下側の手前から起きた。ガルムだった。


「数字は、わしにはわからん。じゃが、ひとつだけ言える」


 ガルムは天井を見上げたまま、掛布の下で巨大な掌を握り込んだ。布が、その握力で深く皺を寄せた。


「盾は、立てるあいだは、立つ。わしが倒れぬかぎり、敵の兵は、後ろへは通さん。それは数字ではない。わしの、五十年の話じゃ」


「ガルムさんの盾が硬いことは、僕の計算にも入っています」


 ノアは即座に返した。


「ですが、盾一枚で八千は止まりません。ガルムさんが倒れぬという話と、防衛線が保つという話は、別の話です」


「別ではない」


 ガルムの声が、低く重なった。


「わしが倒れぬなら、その一点だけは、絶対に保つ。保つ点が一つあれば、嬢ちゃんたちは、そこを軸に動ける。数字には乗らん。じゃが、戦場では、それが線になる」


 ノアは、答えなかった。


 反論しなかったのではない。ガルムの言葉を、自分の盤面に置けなかった。意志は駒にならない。だが、戦場でそれが線になることも、ノアは知っていた。だから、ノアは黙った。黙ったまま、天井を見ていた。


 ゼノリスは、二人のあいだに立っていた。


 ノアの数字は、正しい。今の部隊だけでは、境界帯は守れない。ガルムの意志も、嘘ではない。倒れぬ盾は、戦場で一つの軸になる。どちらかが間違っているのではなかった。どちらも正しく、そして――どちらを採っても、五人を死地へ向かわせることに変わりはなかった。


 ゼノリスは、その対立を裁定する言葉を、探さなかった。


 探しても、見つからないと知っていた。


 長い沈黙のあと、口を開いたのは、カイロだった。


「ゼノリス様」


 寝台の上で、カイロは天井へ向けていた顔を、ゼノリスの方へ戻していた。


「ノアの数字も、ガルムの盾も、俺にはどちらが正しいか、わかりません。ですが、わかることがひとつだけあります」


 カイロの声は、まだ擦れていた。それでも、言葉の輪郭は鈍っていなかった。


「ゼノリス様は、俺たちを止めようとしている。死地に行かせまいとして、空いた穴は自分が担うと言った。……あなたは、そういう人です」


 ゼノリスは答えなかった。


「だから、俺たちは行きます。あなたが止めようとする側だから、俺たちが行く側に立つ。それで、釣り合う」


 セラが枕の上で小さく頷いた。シルヴァは何も言わずにゼノリスを見ていた。ガルムの喉が、低く一度鳴った。


 ゼノリスは五つの寝台を、端から端まで見渡した。


 止められなかった。止める言葉を、自分はもう持っていない。五人は、自分の意志でここから出ていく。ゼノリスにできるのは、それを認めることだけだった。


「……わかりました」


 ゼノリスは言った。


「行ってもらいます。ですが、これは命令ではありません。私は、あなたたちに命じていない。それだけは、この部屋に置いていきます」


 ゼノリスは寝台の列に背を向けた。


 扉まで歩き、取っ手に手をかけたところで、一度だけ振り返った。五人の目が、まだこちらを見ていた。ゼノリスは何も言わず、扉を開けて、廊下へ出た。


◇◇◇


 執務室に戻ると、机の上の報告書の束は、まだ同じ位置にあった。


 ただ、窓の光の角度が変わっていた。床に落ちる窓枠の影が、机の脚のあたりまで伸びている。


 ゼノリスは机の前に立った。


 治療室で見た五人の顔が、まだ目の奥に残っていた。カイロの、起こしきれなかった上体。セラの噛んだ奥歯。シルヴァの落ちた指。ガルムの皺を寄せた掛布。ノアの、天井に並べた三つの数。


 あの五人を、私は止められなかった。


 ゼノリスは机の縁に手を置いた。


 止めるべきだった、とは思わなかった。止める権利が自分にあったとも思わなかった。五人は、自分の足で立つことを選んだ。その選択を踏みにじることは、誠実さではない。それは、頭ではわかっていた。


 だが、わかっていることと、割り切れることは、別だった。


 明後日の朝、八千の軍が境界帯に届く。その時、あの五人は、まだ動ききらない身体で、戦場に立っている。私は、それを認めた。それは送り出したと、同じことだ。


 送り出した手は、私の手だ。


 ゼノリスは机に置いた自分の手を見た。


 この手で、私は何人を送り出してきた。遠征へ。前線へ。そして倒れた。あの拠点で散った数百の仲間たち。寝台の上の五人。私が『信じている』と言うたびに、誰かが死地へ歩いていく。


 ゼノリスは深く息を吐いた。


 その時、扉が外から軽く叩かれた。


「セレナです」


 扉の向こうから、声がした。


「……どうぞ」


 ゼノリスは応じた。


 扉が内側へ開いた。


 セレナが入ってきた。藍色の瞳が、執務室の光の中で、まっすぐにゼノリスを捉えた。両手は、前で軽く重ねられている。今日は、何も持っていなかった。写しの紙も、ショールもなかった。手ぶらのまま、ゼノリスの正面まで歩いてきた。


「五人のところへ、行かれていたのですね」


 セレナは言った。問いではなかった。ゼノリスの顔を見て、そう悟った声だった。


「はい」


 ゼノリスは答えた。


「侵略軍のことを、伝えました。そして……五人は、防衛戦に立つと……。私は、止めようとして、止められませんでした」


 手を伸ばせば届く距離に、セレナは立った。


「ゼノ様は、ご自分を責めておられますね」


 ゼノリスはすぐには答えられなかった。


「あの五人を、私が送り出すのです」


 声が、自分の思うより低く出た。


「私が『信じている』と言えば、あの人たちは立って、歩いていきます。動かない身体のままで。それを止められないなら……私の信頼は、ただ人を戦場へ運ぶ言葉でしかない」


 セレナはゼノリスの言葉を、最後まで聞いた。聞き終えて、それから、片方の手を持ち上げた。


 セレナの手が、ゼノリスの手の甲に重ねられた。指先が冷えていた。長く廊下を歩いてきた手の冷たさだった。


 握るのではなかった。包むのでもなかった。ただ、掌をそっと、ゼノリスの手の甲に置いた。重さだけが、皮膚を通して伝わってきた。温かく、軽い重さだった。


「ゼノ様」


 セレナは言った。一語ずつを、低く、確かに置いていく声だった。


「あの方たちは、ゼノ様の言葉で立つのではありません」


 ゼノリスはセレナの顔を見た。


「ゼノ様は、止めようとした。それは、五人にも届いています。その上で、あの方たちは立つことを選んだ。自分の足で。ゼノ様が運んだのではありません。あの方たちが、歩いたのです」


 セレナの掌が、ゼノリスの手の甲の上で、わずかに動いた。位置を確かめるような、小さな動きだった。


「私は、あの方たちを信じます。立ち上がる力を、あの方たちは持っている。ゼノ様、彼らを信じましょう」


 ゼノリスはセレナの掌の重さを、手の甲で受け止めていた。


 セレナの言葉は、胸の重さを消しはしなかった。送り出した、という事実は、まだそこにあった。だが、その重さの隣に、セレナの言葉が並んだ。消えない重さと、並んで立つ言葉。ゼノリスは、その二つを、同じ胸の中に置いた。


「……ありがとうございます」


 ゼノリスは言った。


 窓の外で、刻が少し進んだ。窓枠の影が、机の上を、もう一段、横切っていた。


◇◇◇


 城門の前に、幌馬車が一台止まっていた。


 回復しきらない身体で国境境界帯まで歩く体力は、五人の誰にもなかった。境界帯の手前までは、この幌馬車で運ばれる。


 カイロはその荷台の端に腰を下ろしていた。外の風が幌の隙間から入って、頬に当たっている。治療室の薬草の匂いが、もう鼻からほとんど消えていた。代わりに、城門の外の、土と石の匂いがした。


 五人とも、軽い装備だけを身につけていた。重い鎧を着る体力は、まだ誰にもなかった。セラは剣を腰に佩いていたが、その柄に手を添えているだけで、抜く構えは取っていない。シルヴァは杖を膝の上に横たえていた。ガルムは巨大な盾を背負わず、荷台の床に立てて、その縁に手を置いていた。ノアは、地図筒を一本だけ提げていた。


 誰も、言葉を発しなかった。


 出陣の声も、士気を上げる掛け声も、なかった。馬車が動き出しても、五人はただ、幌の隙間から外を見ていた。北西の方角を。八千の軍が現れる、その方角を。


 車輪が石を敷いた街道を踏んでいく。荷台が、轍の段差に合わせて低く揺れた。街道の両側に、農地が広がっている。土はまだ黒く、若い緑が、畝の上に低く揃っていた。その緑の向こうに、住民の集落の屋根が、いくつか見えた。


 守るべきものが、街道の両側にあった。あの屋根の下に、人がいる。八千の軍は、あの屋根に向かって進んでくる。


 カイロは揺れる荷台の上で、その屋根を視界の端に置き続けた。


 頭上の陽が、少しずつ傾いていった。城門を出たときに背中にあった光が、いつのまにか幌の右側を照らしている。それだけの刻を、馬車は北西へ走り続けていた。


 馬車が緩やかな上りにさしかかった。車輪の音が一段重くなり、馬の足取りが鈍って、速度が落ちた。上りきった先が、国境境界帯だった。魔王国の領土の最も外側、他国との境界となる最前線の地帯。


「着きました」


 御者の声が幌の外から届いた。馬車が、完全に止まった。


 幌の隙間から、味方の陣が見えた。


 まだ組み上がりきってはいない。木の杭が地面に打ち込まれ、その間に防壁の板が、半分ほど渡されている。騎士団の兵が、杭の列の後ろで隊を組んでいた。魔術兵団の術師が、地面に術式の起点を描いている。先に城を出た防衛隊がヴェルナーの組んだ防衛線を、いまこの場所で形にしつつあった。


 カイロは荷台の端から、地面へ足を下ろした。


 最初に降りたのは、カイロだった。声はかけなかった。ただ、影が最初に動くように、無言で地面に立った。


 足が、いつもの半分も力を持っていないことが、わかった。膝が体重を受けて、小さく軋んだ。それでも――立っている。立てている。寝台の天井を見ていた昨日より、ましだった。


 一拍遅れて、背後で、四人が荷台を降りた。セラの、まだ揃いきらない着地。シルヴァの杖が地面を突く音。ガルムの重い一歩。ノアの息の浅い足取り。馬車を降りた五人が、自分の足で、味方の陣へ歩き出した。


 その陣の、さらに向こう。北西の地平に、薄い影があった。


 最初は、ただの霞かと思った。だが、霞は動いていなかった。地平の一線に、低く、長く、横たわっていた。横たわったまま、こちらへ向かって、わずかに厚みを増していた。


 砂塵だった。


 大軍が地を踏むときに立つ、砂の帯。その帯の足元に、黒い粒の連なりが見えはじめていた。聖騎士団の前衛が、地平の端に姿を見せていた。


 カイロの目が、その砂塵の帯から動かなくなった。


 隣で、セラが剣の柄を握り直した。シルヴァの杖が、地面の上で一度、位置を変えた。ガルムが、立てていた盾を、ゆっくりと持ち上げた。ノアは、地図筒を提げた手に、力を入れていた。


「来たか……」


 カイロは呟いた。


 声は、風に半分とられた。だが、それでよかった。誰かに聞かせる言葉ではなかった。


 砂塵は、止まらない。地平の影が、五人の立つ陣へ向かって、刻一刻と丈を伸ばしていた。



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