第182話:「再起の誓い」
五人が今朝、ひとつの治療室に移された。
その報せを聞いて、ゼノリスは治療室の扉を押した。
朝の窓光が、治療室の床に長く伸びている。陽はまだ低い。光は寝台の脚を越え、寝具の白い縁を斜めに削り、五人の手の甲の手前で止まっていた。
「ゼノリス様」
扉のすぐ内側で、セフィリアが帳面を胸に下ろした。入り口でゼノリスを待っていた。
「五人とも、今朝、容態が落ち着きましたので、別々の部屋で診ていたみなさんを、同室にしました」
ゼノリスは扉を後ろ手に閉じた。閉まる音は、布が床を擦るほどに弱く落ちた。
「身体はまだ、ほとんど動きません。声も、長くは続きません。ですが、五人とも、目は開いています。短い言葉なら、交わせます」
セフィリアはそう続けて、帳面の縁を指で押さえた。
「ありがとうございます」
ゼノリスは答えた。
ゼノリスは扉際を離れ、寝台の列へ歩み出た。
寝台は五つ並んでいた。窓側に三つ、廊下側に二つ。
窓側の最も近い寝台の上で、カイロが目を開けていた。
細い体躯は、寝具の下でほとんど厚みを持たなかった。頬の肉が落ち、顎の輪郭が鋭くなっていた。だが、目だけは、ゼノリスの足音をきちんと辿った。視線はゼノリスの顔の高さで止まった。
隣の寝台ではセラが、枕の上に淡い青色の髪を散らせていた。瞼を開けた目はまだ焦点を結ばず、天井のどこか一点に向いていた。ゼノリスが入ってきた音で、首が一度、わずかにこちらへ傾いだ。
窓側の最奥、シルヴァの寝台。銀に近い髪が、いつもより乱れて枕に広がっていた。両の瞼は開いているが、視線だけが、まだ焦点の合う先を探していた。
廊下側の手前にはガルムが寝ていた。巨漢が寝具を押し上げ、寝台の輪郭からはみ出していた。包帯が肩から胸まで巻かれている。スキンヘッドの頭が枕に深く沈んだまま、喉から、息が長く出て、また長く入った。それだけで、寝具が一度、上下した。
その奥、廊下側の最後の寝台にノアがいた。羊皮紙のような色合いの短髪が、汗で額に張りついていた。両手は腹の前で軽く組まれていた。目は開いていた。ゼノリスが入ってきた時から、その目はずっとこちらに向いていた。
ゼノリスは寝台と寝台の間に置かれた椅子に、腰を下ろした。座面の木が、掌の下で馴染んだ。
「セフィリアさん」
ゼノリスは顔を上げずに名を呼んだ。
「はい」
「少し話をしたいので、席を外してもらえますか」
「承知しました。私は隣室におります。何かあれば」
セフィリアは頭を下げ、扉の方へ歩き出した。足袋が床を擦る音が、部屋の隅へ遠ざかった。扉が開いて、閉まった。
部屋の中に、ゼノリスと五人だけが残った。
いや――扉が、もう一度開いた。
静かな足音が、入り口から入ってきた。セレナだった。同じ報せを受けて来たのだろう。後ろ手に扉を閉め、窓側の壁の前、寝台から三歩ほど離れた位置で足を止める。
藍色の瞳が、朝の光の縁を受けていた。両手は前で組まれていた。組んだ指の上に、薄手のショールが掛かっていた。
セレナはゼノリスを見て、そっと目を伏せた。
伏せた瞼の縁で、瞳が一度だけ揺れた。
ゼノリスは椅子の上で姿勢を整えた。
五つの寝台のどこに視線を置くか、迷った。迷った末に、視線をどこにも固定せず、五つの寝台の真ん中の空気に向けた。五人全員に届く高さに、声を置いた。
「すまない」
ゼノリスは口を開いた。
声は自分の予想より低く出た。
「私のために、これほどの重荷を背負わせた」
寝台の縁で、誰かの指が動いた。
「……だが、君たちの本質はこんなものではないはずだ」
ゼノリスは続けた。
「私には見える。その先にある、真なる輝きが」
言葉を置き終えた瞬間、室内の空気がわずかに低くなった。
最初に応えたのは、カイロだった。
乾いた唇がまず開いた。何かを言いかけて、声にならなかった。喉の奥で息と声が噛み合わない。カイロは目を閉じ、もう一度息を整えてから、再び唇を開いた。
「ゼノリス様」
声は擦れていた。
「……命令を、ください」
短かった。それ以上は続かなかった。だが、続ける必要もなかった。掛布の上に置かれたカイロの手の指先が、わずかに丸まった。拳の形になりきれずに、また開いた。
ゼノリスは頷かなかった。ただ、カイロの目をまっすぐ見返した。
カイロは、目を逸らさなかった。感情を出さないはずの目に、いまは、ひとつの色がはっきりと灯っていた。
ゼノリスは視線をセラに移した。
セラの目が天井からゆっくりと動いた。視線が自分に注がれたことを、肌で感じ取ったらしかった。口の端が震えた。
息が二度、胸に入って出た。三度目の息で、ようやく声が乗った。
「ゼノ様……」
セラの声は、勢いを半分も乗せられずに細く擦れた。それでも、最後まで届けようとする力だけが、口の奥に残っていた。
「まだ……私は戦えます。……すぐにでも」
言い切るのに、息が足りなかった。最後の一音が、口の中で揺れた。それが悔しいのか、セラは枕の上で一度、奥歯を噛んだ。動かない自分の腕を、睨むように見た。
窓側の三つ目で、シルヴァがゼノリスへ顔を向けた。
「術式は」
シルヴァは口を開いた。声は端的だった。語り口の角度は崩れていなかった。
「まだ、編めます」
言い終える前に、シルヴァの右手の指先が宙に小さな円を描いた。円は途中で歪み、続きを描けないまま、その手は寝具の上に静かに落ちた。
シルヴァは落ちた指を見ても、表情を変えなかった。
「組める形は……あとで、ご報告します」
シルヴァは付け加えた。語尾だけが、いつもの柔らかさを保っていた。
ゼノリスはガルムへ目を向けた。
その寝台で、厚い胸が一つ、大きく持ち上がった。
「ゼノリス様」
ガルムの声は、岩を一つずつ動かして上がってきたような重さがあった。
「盾は……まだ、立ちます。わしが倒れぬかぎり」
言い終えた瞬間、掛布を盛り上げて、巨大な掌が動いた。布をきつく握り込み、指を一本ずつ伸ばした。盾を構える手の形だった。
ガルムは天井を見上げた。目尻に、にじむものがあった。それを拭く手は、まだ上がらなかった。
ゼノリスはガルムの掌が落ち着くまで、その手に視線を置いた。
最後は廊下側の奥、ノアへと目を移した。
四人が言葉を返したいま、ノアだけが、まだ口を開いていなかった。
ゼノリスは椅子を引き、ノアの枕元へ寄せた。木の脚が床を擦り、短い音を立てた。
ノアの目がその動きを追った。瞬きが少ない。十日のあいだ意識を失っていても、傷ついた身体は休めなかったらしい。目の下に、薄い隈が残っていた。それでも、視線の芯は鈍っていなかった。
「ノア」
ゼノリスは名を呼んだ。
ノアの唇が開いた。
「ゼノ様」
声は低かった。だが、四人の誰よりも、言葉の輪郭がはっきりしていた。
「今のままでは、勝てません」
その一言が部屋の物音をすべて止めた。
窓際でセレナの肩がわずかに張った。カイロの目が、ノアの寝台へ動いた。だが、誰も口を挟まなかった。ノアの言葉を遮る者は、この部屋にいなかった。
ゼノリスは膝の上で手を組み、続きを待った。
「あの力が……何だったのか、僕にはわかりません。ただ、あれは、僕の盤面の外にありました」
ノアは天井の一点へ目を移し、それから、ゼノリスへ戻した。
「あれは、僕の知るどんな術理にも当てはまりませんでした。盤の上の駒では、最初から数えられない一手だった。読めなかったのではなく、入れる枠が、僕になかったんです」
腹の上で組まれていた指が、薄くほどけた。
「だから、……負けました。僕の盤面が、勇者の盤面に届かなかった。次に同じ盤が並べば、同じ場所で、また詰みます」
ゼノリスは何も言わなかった。
慰めの言葉を探さなかった。ノアが求めているのは慰めではない。事実を事実として受け取る相手だ。それを、ゼノリスは知っていた。
「ですが」
ノアの声がここで芯を強めた。
「組み直します!」
腹の上の指がふたたび閉じた。今度は、はっきりと力がこもっていた。
「今の盤では届かない。なら、それを根こそぎ組み替えます。何が足りないのか、どこを変えれば勇者の一手を読みに入れられるのか――それを、考え抜きます。寝台の上でも、頭は動きます」
ノアはそこで一度、言葉を切った。
「時間を、ください。ゼノ様。次は、必ず詰ませます」
ゼノリスはノアの目を見た。
負けを認める言葉と、立ち上がる言葉が、同じ呼吸の中にあった。ノアは敗北を飾らず、再起を誇らなかった。どちらも事実として、ありのまま差し出していた。
軍師が『勝てません』と言える。その一言が遮られずに部屋の真ん中に置かれる。ゼノリスは、その重さを受け止めた。敗北を敗北のまま口にできる場所は、誠実な者の手でしか作れない。
「ありがとうございます」
ゼノリスはノアの枕元で頭を下げた。
「待ちます。あなたが盤を組み替えるのを」
ノアの目がほんの少し細くなった。それきり、ノアは天井へ視線を戻した。
◇◇◇
絹の擦れる音が、寝台の列の向こうから近づいた。
セレナが壁際を離れて歩み出ていた。組んでいた両手をほどき、ショールを片腕に掛け直している。五つの寝台の足元を通り、ゼノリスの椅子の斜め後ろで、足を止めた。
「皆さん」
セレナは五人へ向けて声を置いた。一語ずつを指で確かめるみたいに、低く、真っ直ぐに発した。
「勇者は、世界に向けて演説をしました。魔王国は悪だと。民を犠牲にしてでも止めるのが正義だと」
セラの瞼がぴくりと動いた。
「その声は、教会連合圏の隅々まで届いています。信じてしまう人もいます。けれど――」
セレナが片腕のショールを強く握った。布がくしゃりと音を立てた。
「私は、勇者が私に歌わせた嘘を、ひとつ残らず憶えています。歌わされた日も、場所も、文言も。私の頭の中には、勇者が組み上げた嘘が、丸ごと残っているんです」
セレナの声がここで一度、低く沈んだ。沈んだまま、途切れずに続いた。
「だから、私が暴きます。皆さんが立ち上がる力を取り戻すあいだ、私は私の戦い方で、勇者の嘘を崩します」
セレナはゼノリスの隣まで進んだ。
「共に、立ち上がりましょう。世界の真実を、取り戻すために」
部屋に、すぐの返事はなかった。
代わりに、五つの寝台で、五人がそれぞれの動きを見せた。カイロの視線がセレナへ向いた。セラの口の端が引き締まった。シルヴァの指が一度、小さく跳ねた。ガルムの喉が低く鳴った。ノアは、セレナを見つめたまま、まばたきをしなかった。
ゼノリスは立ち上がった。
椅子が背後で短く軋んだ。五人の顔を、端から端まで見渡す。動かない身体。開いた目。絞り出された声。遠征拠点で倒れた五人が、いま、ここで息をしている。
「私は、あなたたちに重荷を背負わせ続けます」
ゼノリスは五人を見たまま続けた。
「謝りはしません。謝って済むことではないからです。代わりに、誓います。あなたたちが組み直し、暴き、立ち上がるその先で、私は必ず勝てる場所まで連れていきます」
セレナの手がゼノリスの袖をそっと握った。
ゼノリスはその手に自分の手を重ねなかった。重ねる代わりに、五人の方へ半歩進み出た。
「次は、勝ちます」
短い言葉だった。
誰も、すぐには応えなかった。応えられるだけの声を、まだ誰も持っていなかった。
窓の外で、陽がまた少し高くなった。床に伸びた光が、寝台の脚を越え、五人の手の甲に届いた。朝の光は、誰の心とも関わりなく、ただ部屋を満たしていった。
ノアの口だけが、もう一度小さく動いた。
声にはならなかった。けれど、ゼノリスにはわかった。ノアはもう、自分が『今のままでは』と言ったその『今』を、頭の中で組み替え始めている。
その盤がいつ完成するのか――それを知る者は、まだ、この部屋にいなかった。




