↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
181/209

第181話:「勇者の捏造」

「勇者が、再び動き出した、と」


 リゼットの言葉が、執務室に落ちた。


 ゼノリスは見取り図から視線を上げた。バルカの指は東面の盾列の上で止まり、ミレイナの指は後送線の中ほどで止まっていた。机の対面でヴェルナーが姿勢を崩さず、リゼットの方を向いていた。窓枠の影が、見取り図の縁をほんの少し越えていた。


「リゼットさん」


 ゼノリスは口を開いた。


「『動き出した』というのは、どのような動きですか」


「進軍ではありません」


 リゼットは答えた。


「言葉です」


 ゼノリスは見取り図の上に置いていた指を、戦況図の方に滑らせた。三枚重ねの紙の、真ん中にあった戦況図の縁を指の先で押さえた。


「続けてください」


「はい」


 リゼットは机の手前で頭を下げた位置から、半歩進んだ。


「本日昼過ぎ、聖都ルメナの大聖堂前広場で、勇者アリアスが世界へ向けた演説を行いました」


 部屋の中の空気が、一段、重くなった。


 その重さを最初に受けたのは、ヴェルナーだった。両手は前で組まれたまま、解かれなかった。表情も変わらなかった。だが、視線が、リゼットの口の動きを追っていた。


 バルカの手が見取り図の上から離れた。


 離した手の指は、すぐには下がらなかった。机の縁の手前で一度止まった。


「演説の文言を、諜報員が逐語で取っています。要点を読み上げます」


「お願いします」


 ゼノリスは答えた。


 リゼットは懐から折りたたまれた紙を取り出した。広げる音が紙の縁を擦る、乾いた音だった。視線を紙に落とし、リゼットは読み始めた。


「『魔王軍は、悪である。私は、女神様に選ばれた者として、世界の光を取り戻すために戦っている』」


 最初の一節だった。


 ゼノリスは戦況図の縁から指を離さなかった。


「『民を犠牲にしても、魔王を止めることは正義である。光のための犠牲は、女神様が祝福される』」


 二節目だった。


 ヴェルナーの組まれた手の指が、ほんの少し動いた。組み直したわけではない。組まれた形のまま、薬指の関節が、内側に折れ込んだ。


 バルカが息を吸う音がした。


 吸って、止めた。そのまま、吐き出すことすら忘れたように硬直していた。


「『魔王の城に集う者たちは、私たちの兄弟姉妹の血肉を貪っている。彼らの宴を、私たちの手で終わらせよう』」


 三節目で、リゼットは一度、息を継いだ。


「逐語の続きは、まだあります。要旨は、いま読み上げた三節と同じ筋です。聖教会の鑑定によって正しく救われた民こそが世界の正統である、と。それ以外は、女神様が許さない、と」


 ゼノリスは戦況図の縁から、ゆっくりと指を離した。


「教会連合圏の民の反応は」


「割れています」


 リゼットは即答した。


「西のグランフェルの市場では、演説の終わりに歓声が上がったと、現場の諜報員から伝わっています。北のヴァルガンの巡礼路では、聖堂の鐘に合わせて唱和の声が出たそうです」


 リゼットは紙を一度畳んだ。


「一方で、聖都ルメナの中央広場では、演説の途中で立ち去った者が相当数いた、と」


 ヴェルナーが初めて声を出した。


「相当数とは」


「広場に集まったうちの三割、と諜報員は見積もっています」


「三割……」


 ヴェルナーはその数を繰り返した。


「魔王国の噂を、すでに耳に入れている者たちです。商隊経由、難民経由、巡礼経由。経路は様々ですが、彼らは、演説の最初の数節で、勇者の言葉と自分が聞いていた話との齟齬に気づいた、と」


 ヴェルナーは目を伏せた。


「七割は、信じた、ということになります」


 ゼノリスは答えなかった。


 代わりに、ヴェルナーを見た。


「ヴェルナーさん。リゼットさんの上げる段取りを、戦術戦略部で受け止めていただけますか」


「承知しました。リゼットから上がる情報は、私が一度受けます。ノアさんの決裁を待たずに動く必要があれば、私の名で動かします。事後、ノアさんへ通します」


「お願いします」


 ゼノリスは答えた。


 それから、視線をバルカとミレイナに移した。


 バルカはまだ机の手前で指を止めたままだった。ミレイナは後送線の上から、まだ指を離していなかった。


「バルカさん、ミレイナさん」


「はい」


 二人の声が一拍ずれて、重なった。


「先ほどの防衛配置の件、ここから先は持ち場で詰めてください。バルカさんは外側の盾列の組み直しを、ミレイナさんは後送線と施療班の接続点の最終確認を。今夜中に動ける範囲で構いません」


「……承知しました」


 バルカは答えた。机の手前で停まっていた指が、ようやく下りた。


「承知しました」


 ミレイナも答えた。指が、見取り図の後送線から離れた。離れた指の腹に、新しいインクの痕が、また一筋増えていた。


 二人は同時に頭を下げた。


 バルカが先に、扉の方へ向きを変えた。ミレイナは、見取り図を一度だけ見直してから、後を追った。


 扉が開き、閉まった。


 バルカの靴底の音が、廊下を、奥へと去っていった。


 部屋にはゼノリスとヴェルナーと、リゼットの三人が残った。


「リゼットさん」


「はい」


「演説の文言、写しを一部、私の手元に残してください。それから、もう一部は、セレナさんに届けてください」


「承知しました」


 リゼットは懐から、もう一枚の紙を取り出した。畳んだ一部を机の上に置いた。


「セレナ様へは、私が直接届けます」


「お願いします」


 ヴェルナーが机の上の紙を一度見て、リゼットに声をかけた。


「行きましょう」


 二人は同時に、扉の方へ歩き出した。ヴェルナーの靴底が床を踏む音が、リゼットの足音より、一拍重かった。扉が閉じる音は、静かだった。


 廊下の薄い光が、扉の隙間から一筋だけ差し込んで、すぐに消えた。


◇◇◇


 ゼノリスは机の上に残った写しに目を落とした。


『魔王軍は、悪である』


 最初の一節がいちばん上に書かれていた。


 ゼノリスはその一文をただ見ていた。読み返さなくても、リゼットの声が頭の中で同じ文字をなぞっていた。


 指が紙の縁を、ゆっくりと辿った。


 爪の先が紙の繊維を、薄く引っ掻いていた。意図ではなかった。気づいた時には指の先に、紙の毛羽が絡んでいた。


 ゼノリスは指を紙から離した。


 紙の上に爪の跡が、薄く一本残っていた。


 窓の外で陽が、城門の屋根の向こうにまた一段沈んだ。机の右端に落ちていた赤い光が輪郭を失い、ただの薄い橙に変わった。窓枠の影は、見取り図の縁を一段越えていた。


『民を犠牲にしても、魔王を止めることは正義である』


 二節目をゼノリスは、頭の中で反復した。


 ゼノリスの頭の中で、その一節が勝手に繰り返された。


 ゼノリスは長く息を吐いた。


 息は燭台の火を揺らさなかった。机から燭台までの距離が、それを越えるだけの息ではなかった。だがゼノリスの胸の内側では、別の何かが揺れていた。


 治療室の五人。


 ノアの卓は空のままだった。カイロもセラもシルヴァもガルムも、いまは治療室の寝台の上にいる。


 遠征で散った、騎士団・魔術兵団・守護隊の数百名の仲間たち。


『民を犠牲にしても』


 いま一度、頭の中でその一節が滑った。


 ゼノリスの指が紙の上の一節の文字の輪郭を、再び辿った。今度は爪の先を立てなかった。指の腹だけで文字の上をなぞった。


「……卑劣ですね」


 声が口から漏れた。


 誰に聞かせる声でもなかった。ヴェルナーは退室していた。リゼットは廊下を去っていた。執務室の中にはゼノリス一人と、燭台の火と机の上の紙だけが残っていた。


 声は燭台の火の手前で、薄く消えた。


 ゼノリスは椅子の背に手を置いた。


 椅子の木は冷たかった。掌がその冷たさを受け取った。指の温度と木の温度が、少しずつ同じ温度に近づいていく。その間、ゼノリスは机の上の紙から視線を離さなかった。


『光のための犠牲は、女神様が祝福される』


 その一節は紙の三行目にあった。


 ゼノリスの視線がそこで止まった。


◇◇◇


 扉が外から叩かれた。


 二打だった。ひと打ち目より二打目の方が、明らかに弱かった。強く叩くのを自分で抑えた打ち方だった。


「セレナです」


 扉の向こうから声がした。


 声はいつも聞くものと同じ抑揚を保っていた。だが、語尾の一音だけが宙に置き去りにされていた。


「どうぞ」


 ゼノリスは応じた。


 扉が内側へ開いた。


 セレナが入ってきた。


 歩幅はいつも通りに見えた。絹のドレスの裾が床を擦る音も、いつも通りだった。両手の前で、もう一枚の写しが胸の高さに持ち上げられている。リゼットが届けた、同じ文言の写しだった。


 藍色の瞳が燭台の光の縁を受けて、ゼノリスを見た。解呪のあとに戻った瞳はいつも、見たいものを真っ直ぐに見た。今夜も迷わずゼノリスを見ていた。


 だが、写しを支えている指が紙の上で、細かく震えていた。


 指の関節だけが手首の固まりの中で、小刻みに動いていた。本人の意思では止まらなかった。


「ゼノ様」


 セレナは机の三歩手前で足を止めた。


「これを、リゼットさんから……」


 続けるための息が喉の途中で、見つからなくなった様子だった。セレナは軽く瞼を伏せた。伏せて、また上げた。


「読みました」


 次に口を開いた時、声は半分の高さに落ちていた。


 ゼノリスは椅子の背から手を離した。机を回り込み、セレナの三歩手前で足が止まった。


「セレナさん」


 ゼノリスは近づいた位置から、もう一歩は進めなかった。


 セレナの手の中で、紙がまた震えた。折りたたまれた紙の縁が擦れ合い、小さくささやいた。


「……ごめんなさい」


 セレナは目を伏せた。


「止めようとしたのですが」

 

 ゼノリスは右手を持ち上げ、胸の前で止めた。


「震えていて、構いません」


 ゼノリスは言った。


「あなたが震えるのは、その文言の重さを正しく受け取ったからです」


 セレナの瞼がまた上がった。


 藍色の瞳が燭台の光の中で、揺れた。涙の手前の水の膜だった。零れる手前で瞳の縁に、薄く溜まっていた。


「父の名前を、思い出しました」


 セレナは言った。声は低く、歌う時の抑揚は、もうそこにはなかった。


「父が、本当はどう死んだのか。勇者が、私にどんな歌を歌わせたのか。私の頭の中には、全部、残っています」


 セレナの指が紙の上でいま一度固まった。


「あの方は、自分の事を、私に何度も歌わせました。繰り返すたびに、その歌は、私の中に深く刻まれていきました」


 セレナは続けた。


「いまも、その全部が、頭の中にあります。一字一句。あの方がどこで誰の前で何を歌わせたか、私は全部書き起こせます」


 ゼノリスは頷かなかった。


「私……」


 セレナは一度、口を閉じた。


 閉じた口の中で、舌が、歯の裏と唇の内側を行き来した。何度か、言いかけては引き返した。


 息を長く吸った。


 吸い切ってから再び息を吐いた。吐く息の途中で、肩が一度上下した。


「私が、勇者の嘘を暴きます」


 セレナの目から水の膜が、ようやく一筋頬を伝った。


「私の記憶で、世界を変えます」


 声に力が戻った。


 ゼノリスは胸の前で止めていた右手をようやく動かし、そのまま前へ伸ばした。その先に置かれたセレナの指はまだ小さく震えていた。


「ともに、戦いましょう」


 ゼノリスは言った。


 一人の魔王が一人の魔王妃に向けて、自分の重さを差し出した声だった。


「セレナさん。あなたの中の歌はこれからの戦いで、私の剣よりも、セラの拳よりも、シルヴァの術式よりも深く勇者を貫きます」


 セレナの指がゼノリスの指の下で、ふたたび震えた。


 震えは止まらなかった。止まらないまま、セレナはゼノリスの指の温度を自分の指の背で受け止めた。受け止めた指の上で、震えは続いていた。


 燭台の火が机の向こうで一度、長く揺れた。


 火は揺れたまま、すぐには元に戻らなかった。机の上の写しの『光のための犠牲は、女神様が祝福される』の一節の上に、火の動きに合わせて影がふらりと動いた。


 セレナの指の震えは続いていた。


 ゼノリスはその震えに自分の指を重ねたまま、しばらく何も言わなかった。


「ゼノ様」


 セレナが再度、口を開いた。


「はい」


「五人のところへ、行きましょう」


 セレナの声は震えていなかった。指だけが震えていた。


「あの方たちが目を覚ました時に、私たちが決めたことを伝えなければ」


 ゼノリスは頷いた。


 頷いた拍子に、添えていた指をセレナの指の上から、一瞬だけ離した。離した指をまた戻した。


 戻した指の下で、セレナの震えがゼノリスの指の骨にまで伝わってきた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。