第181話:「勇者の捏造」
「勇者が、再び動き出した、と」
リゼットの言葉が、執務室に落ちた。
ゼノリスは見取り図から視線を上げた。バルカの指は東面の盾列の上で止まり、ミレイナの指は後送線の中ほどで止まっていた。机の対面でヴェルナーが姿勢を崩さず、リゼットの方を向いていた。窓枠の影が、見取り図の縁をほんの少し越えていた。
「リゼットさん」
ゼノリスは口を開いた。
「『動き出した』というのは、どのような動きですか」
「進軍ではありません」
リゼットは答えた。
「言葉です」
ゼノリスは見取り図の上に置いていた指を、戦況図の方に滑らせた。三枚重ねの紙の、真ん中にあった戦況図の縁を指の先で押さえた。
「続けてください」
「はい」
リゼットは机の手前で頭を下げた位置から、半歩進んだ。
「本日昼過ぎ、聖都ルメナの大聖堂前広場で、勇者アリアスが世界へ向けた演説を行いました」
部屋の中の空気が、一段、重くなった。
その重さを最初に受けたのは、ヴェルナーだった。両手は前で組まれたまま、解かれなかった。表情も変わらなかった。だが、視線が、リゼットの口の動きを追っていた。
バルカの手が見取り図の上から離れた。
離した手の指は、すぐには下がらなかった。机の縁の手前で一度止まった。
「演説の文言を、諜報員が逐語で取っています。要点を読み上げます」
「お願いします」
ゼノリスは答えた。
リゼットは懐から折りたたまれた紙を取り出した。広げる音が紙の縁を擦る、乾いた音だった。視線を紙に落とし、リゼットは読み始めた。
「『魔王軍は、悪である。私は、女神様に選ばれた者として、世界の光を取り戻すために戦っている』」
最初の一節だった。
ゼノリスは戦況図の縁から指を離さなかった。
「『民を犠牲にしても、魔王を止めることは正義である。光のための犠牲は、女神様が祝福される』」
二節目だった。
ヴェルナーの組まれた手の指が、ほんの少し動いた。組み直したわけではない。組まれた形のまま、薬指の関節が、内側に折れ込んだ。
バルカが息を吸う音がした。
吸って、止めた。そのまま、吐き出すことすら忘れたように硬直していた。
「『魔王の城に集う者たちは、私たちの兄弟姉妹の血肉を貪っている。彼らの宴を、私たちの手で終わらせよう』」
三節目で、リゼットは一度、息を継いだ。
「逐語の続きは、まだあります。要旨は、いま読み上げた三節と同じ筋です。聖教会の鑑定によって正しく救われた民こそが世界の正統である、と。それ以外は、女神様が許さない、と」
ゼノリスは戦況図の縁から、ゆっくりと指を離した。
「教会連合圏の民の反応は」
「割れています」
リゼットは即答した。
「西のグランフェルの市場では、演説の終わりに歓声が上がったと、現場の諜報員から伝わっています。北のヴァルガンの巡礼路では、聖堂の鐘に合わせて唱和の声が出たそうです」
リゼットは紙を一度畳んだ。
「一方で、聖都ルメナの中央広場では、演説の途中で立ち去った者が相当数いた、と」
ヴェルナーが初めて声を出した。
「相当数とは」
「広場に集まったうちの三割、と諜報員は見積もっています」
「三割……」
ヴェルナーはその数を繰り返した。
「魔王国の噂を、すでに耳に入れている者たちです。商隊経由、難民経由、巡礼経由。経路は様々ですが、彼らは、演説の最初の数節で、勇者の言葉と自分が聞いていた話との齟齬に気づいた、と」
ヴェルナーは目を伏せた。
「七割は、信じた、ということになります」
ゼノリスは答えなかった。
代わりに、ヴェルナーを見た。
「ヴェルナーさん。リゼットさんの上げる段取りを、戦術戦略部で受け止めていただけますか」
「承知しました。リゼットから上がる情報は、私が一度受けます。ノアさんの決裁を待たずに動く必要があれば、私の名で動かします。事後、ノアさんへ通します」
「お願いします」
ゼノリスは答えた。
それから、視線をバルカとミレイナに移した。
バルカはまだ机の手前で指を止めたままだった。ミレイナは後送線の上から、まだ指を離していなかった。
「バルカさん、ミレイナさん」
「はい」
二人の声が一拍ずれて、重なった。
「先ほどの防衛配置の件、ここから先は持ち場で詰めてください。バルカさんは外側の盾列の組み直しを、ミレイナさんは後送線と施療班の接続点の最終確認を。今夜中に動ける範囲で構いません」
「……承知しました」
バルカは答えた。机の手前で停まっていた指が、ようやく下りた。
「承知しました」
ミレイナも答えた。指が、見取り図の後送線から離れた。離れた指の腹に、新しいインクの痕が、また一筋増えていた。
二人は同時に頭を下げた。
バルカが先に、扉の方へ向きを変えた。ミレイナは、見取り図を一度だけ見直してから、後を追った。
扉が開き、閉まった。
バルカの靴底の音が、廊下を、奥へと去っていった。
部屋にはゼノリスとヴェルナーと、リゼットの三人が残った。
「リゼットさん」
「はい」
「演説の文言、写しを一部、私の手元に残してください。それから、もう一部は、セレナさんに届けてください」
「承知しました」
リゼットは懐から、もう一枚の紙を取り出した。畳んだ一部を机の上に置いた。
「セレナ様へは、私が直接届けます」
「お願いします」
ヴェルナーが机の上の紙を一度見て、リゼットに声をかけた。
「行きましょう」
二人は同時に、扉の方へ歩き出した。ヴェルナーの靴底が床を踏む音が、リゼットの足音より、一拍重かった。扉が閉じる音は、静かだった。
廊下の薄い光が、扉の隙間から一筋だけ差し込んで、すぐに消えた。
◇◇◇
ゼノリスは机の上に残った写しに目を落とした。
『魔王軍は、悪である』
最初の一節がいちばん上に書かれていた。
ゼノリスはその一文をただ見ていた。読み返さなくても、リゼットの声が頭の中で同じ文字をなぞっていた。
指が紙の縁を、ゆっくりと辿った。
爪の先が紙の繊維を、薄く引っ掻いていた。意図ではなかった。気づいた時には指の先に、紙の毛羽が絡んでいた。
ゼノリスは指を紙から離した。
紙の上に爪の跡が、薄く一本残っていた。
窓の外で陽が、城門の屋根の向こうにまた一段沈んだ。机の右端に落ちていた赤い光が輪郭を失い、ただの薄い橙に変わった。窓枠の影は、見取り図の縁を一段越えていた。
『民を犠牲にしても、魔王を止めることは正義である』
二節目をゼノリスは、頭の中で反復した。
ゼノリスの頭の中で、その一節が勝手に繰り返された。
ゼノリスは長く息を吐いた。
息は燭台の火を揺らさなかった。机から燭台までの距離が、それを越えるだけの息ではなかった。だがゼノリスの胸の内側では、別の何かが揺れていた。
治療室の五人。
ノアの卓は空のままだった。カイロもセラもシルヴァもガルムも、いまは治療室の寝台の上にいる。
遠征で散った、騎士団・魔術兵団・守護隊の数百名の仲間たち。
『民を犠牲にしても』
いま一度、頭の中でその一節が滑った。
ゼノリスの指が紙の上の一節の文字の輪郭を、再び辿った。今度は爪の先を立てなかった。指の腹だけで文字の上をなぞった。
「……卑劣ですね」
声が口から漏れた。
誰に聞かせる声でもなかった。ヴェルナーは退室していた。リゼットは廊下を去っていた。執務室の中にはゼノリス一人と、燭台の火と机の上の紙だけが残っていた。
声は燭台の火の手前で、薄く消えた。
ゼノリスは椅子の背に手を置いた。
椅子の木は冷たかった。掌がその冷たさを受け取った。指の温度と木の温度が、少しずつ同じ温度に近づいていく。その間、ゼノリスは机の上の紙から視線を離さなかった。
『光のための犠牲は、女神様が祝福される』
その一節は紙の三行目にあった。
ゼノリスの視線がそこで止まった。
◇◇◇
扉が外から叩かれた。
二打だった。ひと打ち目より二打目の方が、明らかに弱かった。強く叩くのを自分で抑えた打ち方だった。
「セレナです」
扉の向こうから声がした。
声はいつも聞くものと同じ抑揚を保っていた。だが、語尾の一音だけが宙に置き去りにされていた。
「どうぞ」
ゼノリスは応じた。
扉が内側へ開いた。
セレナが入ってきた。
歩幅はいつも通りに見えた。絹のドレスの裾が床を擦る音も、いつも通りだった。両手の前で、もう一枚の写しが胸の高さに持ち上げられている。リゼットが届けた、同じ文言の写しだった。
藍色の瞳が燭台の光の縁を受けて、ゼノリスを見た。解呪のあとに戻った瞳はいつも、見たいものを真っ直ぐに見た。今夜も迷わずゼノリスを見ていた。
だが、写しを支えている指が紙の上で、細かく震えていた。
指の関節だけが手首の固まりの中で、小刻みに動いていた。本人の意思では止まらなかった。
「ゼノ様」
セレナは机の三歩手前で足を止めた。
「これを、リゼットさんから……」
続けるための息が喉の途中で、見つからなくなった様子だった。セレナは軽く瞼を伏せた。伏せて、また上げた。
「読みました」
次に口を開いた時、声は半分の高さに落ちていた。
ゼノリスは椅子の背から手を離した。机を回り込み、セレナの三歩手前で足が止まった。
「セレナさん」
ゼノリスは近づいた位置から、もう一歩は進めなかった。
セレナの手の中で、紙がまた震えた。折りたたまれた紙の縁が擦れ合い、小さくささやいた。
「……ごめんなさい」
セレナは目を伏せた。
「止めようとしたのですが」
ゼノリスは右手を持ち上げ、胸の前で止めた。
「震えていて、構いません」
ゼノリスは言った。
「あなたが震えるのは、その文言の重さを正しく受け取ったからです」
セレナの瞼がまた上がった。
藍色の瞳が燭台の光の中で、揺れた。涙の手前の水の膜だった。零れる手前で瞳の縁に、薄く溜まっていた。
「父の名前を、思い出しました」
セレナは言った。声は低く、歌う時の抑揚は、もうそこにはなかった。
「父が、本当はどう死んだのか。勇者が、私にどんな歌を歌わせたのか。私の頭の中には、全部、残っています」
セレナの指が紙の上でいま一度固まった。
「あの方は、自分の事を、私に何度も歌わせました。繰り返すたびに、その歌は、私の中に深く刻まれていきました」
セレナは続けた。
「いまも、その全部が、頭の中にあります。一字一句。あの方がどこで誰の前で何を歌わせたか、私は全部書き起こせます」
ゼノリスは頷かなかった。
「私……」
セレナは一度、口を閉じた。
閉じた口の中で、舌が、歯の裏と唇の内側を行き来した。何度か、言いかけては引き返した。
息を長く吸った。
吸い切ってから再び息を吐いた。吐く息の途中で、肩が一度上下した。
「私が、勇者の嘘を暴きます」
セレナの目から水の膜が、ようやく一筋頬を伝った。
「私の記憶で、世界を変えます」
声に力が戻った。
ゼノリスは胸の前で止めていた右手をようやく動かし、そのまま前へ伸ばした。その先に置かれたセレナの指はまだ小さく震えていた。
「ともに、戦いましょう」
ゼノリスは言った。
一人の魔王が一人の魔王妃に向けて、自分の重さを差し出した声だった。
「セレナさん。あなたの中の歌はこれからの戦いで、私の剣よりも、セラの拳よりも、シルヴァの術式よりも深く勇者を貫きます」
セレナの指がゼノリスの指の下で、ふたたび震えた。
震えは止まらなかった。止まらないまま、セレナはゼノリスの指の温度を自分の指の背で受け止めた。受け止めた指の上で、震えは続いていた。
燭台の火が机の向こうで一度、長く揺れた。
火は揺れたまま、すぐには元に戻らなかった。机の上の写しの『光のための犠牲は、女神様が祝福される』の一節の上に、火の動きに合わせて影がふらりと動いた。
セレナの指の震えは続いていた。
ゼノリスはその震えに自分の指を重ねたまま、しばらく何も言わなかった。
「ゼノ様」
セレナが再度、口を開いた。
「はい」
「五人のところへ、行きましょう」
セレナの声は震えていなかった。指だけが震えていた。
「あの方たちが目を覚ました時に、私たちが決めたことを伝えなければ」
ゼノリスは頷いた。
頷いた拍子に、添えていた指をセレナの指の上から、一瞬だけ離した。離した指をまた戻した。
戻した指の下で、セレナの震えがゼノリスの指の骨にまで伝わってきた。




