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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第184話:「カイロの覚醒」

 地平の砂塵は、もう肉眼で厚みがわかるところまで来ていた。


 その砂塵に背を向けて、台に広げた一枚の戦況図の上で、ヴェルナーの指が止まった。


 国境境界帯の防壁の内側、杭の列の後ろに、戦況図を載せた台が組まれていた。木箱を二つ重ねただけの粗末な台だった。その天板に、魔王国の北西部を描いた一枚が広げられ、四隅を小石で押さえてある。台を囲んで、ヴェルナーとノアが立っていた。ヴェルナーは背筋を崩さぬまま、戦況図の北西の一点を、指先で押さえている。


「カイロさん」


 ヴェルナーが顔を上げずに名を呼んだ。


「来てもらえますか。判断を、仰ぎたいことがあります」


 カイロは杭の陰から、台の方へ歩み出た。足が、思うようには進まなかった。一歩ごとに膝が体重を確かめている。それでも、ヴェルナーの声には、急ぎを促す響きがあった。カイロは台の横に立ち、戦況図に目を落とした。


 戦況図の北西、いま陣を敷くこの境界帯に、ヴェルナーの指が置かれている。その指の先で、赤い印が三つ、横に並んでいた。


「北西は、ここで受け止められます」


 ヴェルナーは指を北西の三つの印に滑らせた。


「私が組んだ防衛線は、いま形になりつつあります。結界一線、杭の列、騎士団の動ける兵。八千をこの境界帯で食い止める盤面は、辛うじて組めています」


 カイロは黙って戦況図を見ていた。ヴェルナーの指が、北西から離れた。その上を、南へ滑っていく。


「ですが、ここです」


 指が止まったのは、南の街道沿いだった。そこに、別の印が二つ、置かれていた。北西の赤い三つとは離れて、街道の線をなぞるように打たれている。


「南の街道です。先の戦況図にも、僕はこの二つの印を見ていました」


 口を継いだのは、ノアだった。


「北西の侵攻と、別です。北西に八千を向けながら、南の街道にも軍が動いている。その気配が、そこに出ています」


「南の備えは、薄い」


 カイロは戦況図の南を見たまま、言った。南の街道沿いには、防壁の線も、結界の起点も、何も描かれていない。白いままだった。


「薄い、ではありません。何もありません」


 ノアは小石の一つを、南の印の隣に置いた。


「北西に戦力を集めた。当然の判断です。八千が来るのですから。ですが、その判断の裏で、南が空きました。南の街道から軍が入れば、境界帯を回り込んで、生活圏の農地と集落に届きます。北西を守りきっても、南から崩れる」


 カイロはノアの置いた小石を見た。戦況図の南に、ぽつんと一つ。それが、空いた穴の形をしていた。


「南に、備えが要ります」


 ノアは身を起こした。浅い息が一度、肩を上下させた。


「誰かが、南へ回って、街道沿いに防衛の線を引く。侵攻される前に、です。間に合わせるなら、いましかありません」


 ヴェルナーが、戦況図から顔を上げた。


「提案があります。南へは、ノアさんとガルム隊長を配置してはどうでしょうか。ここは、私が回します」


 ヴェルナーは南の二つの印を指した。


「その線を引けるのは、ノアさんです。引いた線を、ガルム隊長が盾で支える。この二人なら、戦端の前に南を固められます」


「僕も、同じ考えです」


 ノアが続けた。


「僕が線を引き、ガルムさんの盾が守る。それで、南は持ちます」


 ヴェルナーとノアの見立ては、揃っていた。あとは、その案を採るかどうか。二人は言葉を止め、カイロを見た。


 カイロは戦況図から目を上げた。ノアの顔を見た。目の下の隈が、昨日より濃い。寝台を出てからずっと、この男は盤面を組み直し続けている。


「わかった。その案でいく」


 カイロは言った。


「ノア、ガルムと南へ行ってくれ」


「わかりました」


 ノアは戦況図を巻き取り、地図筒に収めた。蓋を閉めて、一度、カイロを見た。


「ここ……北西を、お願いします」


「ああ」


 カイロは答えた。短かった。それ以上の言葉は、いまのカイロの喉には重かった。


 ノアが台を離れ、ガルムのいる方へ歩いていく。その背を、カイロは見送った。ガルムの巨体が一度こちらへ会釈し、ノアと並んで南へ歩き出した。


 台には、ヴェルナーが残った。新たな一枚を広げ、北西の防衛線へ目を戻している。この男は、ここを回す。カイロは戦端の方へ身体を向けた。


◇◇◇


 北西の地平で、最初の音が鳴った。


 結界が、敵の術式を受け止めた音だった。空気が一度、低く震えた。魔術兵団の張った一線に、八千の軍の先頭がぶつかった。


――戦端が開いた。


 カイロは防壁の陰に身を低くした。


 影に入る。それだけのことに、いまは時間が掛かる。本来、カイロの身体は影と地続きだった。日向から日陰へ、壁の裏から梁の上へ、誰の目にも留まらず移れた。それが、いまは――影の縁に身を滑り込ませるたび、骨が軋み、息が乱れる。


 それでも、カイロは動いた。


 騎士団の兵が、杭の列の前で敵を受けている。敵の聖騎士が、結界の綻びを衝いて、内側へ食い込もうとしていた。敵の指揮官の癖を読み、伝令の足を断ち、味方が一太刀で決められる盤面を整える。綻びを敵より先に見つけて塞ぐ。それが、影の仕事だった。


 カイロは敵の聖騎士の一人へ、影伝いに近づいた。


 近づいて――間に合わなかった。


 いつもなら、相手が振り向く前に背後を取れた。短剣の柄を喉に当て、声を出させずに沈める。だが、カイロの足は、最後の一歩で遅れ、聖騎士に気づかれた。カイロの短剣は、相手の肩当てを浅く削っただけだった。


 騎士団の兵が一人、横から斬りかかって、その聖騎士を辛うじて押し戻した。カイロの仕損じを、味方が拾った。


 カイロは杭の影に退いた。


 息が上がっていた。敵の一人を、沈めきれなかった。


 俺は……影だ。


 杭の木肌に背を当てて、カイロはそれを思った。


 影は、主の望む結果を誰にも気づかれずに現実にする。それが、ゼノリス様がカイロに見出した価値だった。泥にまみれ、囮として捨てられたカイロに、あの方は膝をついて謝罪から始めた。あなたは世界の至宝だと、言ってくれた。


 その王の望みを、いまのカイロは守れていない。


 遠征拠点で倒れた。あの場で、カイロは何もできなかった。あの力の前で、影は影の役にすら立たなかった。主が傷つくのを、ただ寝台の上から見ているしかなかった。そして、いまもこうだ。聖騎士のたった一人に、影の刃が届かない。


――俺は……影でいい。


 カイロは木肌から背を起こした。


 名はいらない。日向はいらない。誰に讃えられなくてもいい。影は、影のままでいい。


 だが――主の望みを守れない影など……ただの役立たずだ。


 かつて世界がカイロをそう呼んだ。便利なだけのゴミだと。器用に働けても、それは価値ではないと。あの言葉の場所へ、自分はいま、自分の足で戻ろうとしている。


 カイロは短剣の柄を握り直した。握ったはずの指が、柄の重さに負けて、ひとりでに緩んでいく。その緩みを、カイロは止められなかった。


 戦端の音が地平で続いている。結界が震え、剣が鳴り、味方の声が上がる。その音の一つ一つが、間に合わなかった一歩を、カイロに思い出させた。


 味方の結界の一線が、敵の右翼で押し下げられた。


 カイロはその綻びへ走った。走った、と呼べる速さではなかった。足が地を蹴るたび、身体の芯に重い痛みが走る。それでも、綻びの一点にだけ目を据えて、影を伝っていった。


 綻びの内側に一人だけ、抜けて立っている者がいた。


 白い外套を肩から羽織った男だった。胸の聖印が、戦塵の中でも汚れていない。佩いた剣は長く、装飾が多い。男は乱戦の輪から半歩外れた位置に立ち、騎士団の兵を一人、剣の腹で薙ぎ倒したところだった。


 カイロは影の中で足を止めた。


 あの男を抜く。あの指揮官を倒せば、敵の右翼の押しは鈍る。


 足音を殺し、男の死角へ回った。


 回りきる前に、男の首が動いた。こちらを見た。


「鼠か」


 男は剣を提げたまま、カイロへ向き直った。


「この聖騎士団、副団長の背後を取ろうとは、いい度胸だ。影に隠れて、指揮官の首だけを掻く。ずいぶんと卑しい戦い方だな。お前たちの王と同じだ」


 男の目が、カイロの全身を上から下へ舐めた。落ちた頬の肉。力の入りきらない指先。その一つ一つを、男は値踏みするように見た。


「腰抜けの魔王の、手駒か」


 カイロは答えずに、短剣の柄を握った。


「いいか。よく聞け」


 副団長は剣の先を、ゆっくりと持ち上げた。説教でもするような、緩んだ声だった。


「お前たちの王は、世界の敵だ。命乞いをして生き延びた腰抜けが、誠実だの国造りだのと薄汚い嘘を並べ、無能者を寄せ集めている。あれは王ではない。ゴミ拾いだ。掃き溜めの長だ」


 男の声には、嘲りが滲んでいた。怒りですらない。路傍の汚物を見下ろすときの、あの軽い声だった。


「誠実な統治――聞いて呆れる。魔王に誠実などという言葉が、どうして使える。あれは偽善だ。お前のような出来損ないを飼い慣らすための、口当たりのいい餌だ。お前は、その餌に食らいついた」


 カイロはその言葉を聞いた。


 一語ずつ、聞いた。


 偽善。餌。掃き溜めの長。男の口から出た言葉が、戦場の音の中でやけにはっきりと耳に届いた。


 あの方が、泥の中に膝をついた。


 カイロの内側で何かが、ひとつ動いた。


 誰も、ゴミに膝などつかない。あの方は、ついた。泥にまみれたカイロの前で膝を折り、命じるより先に、頭を下げた。世界の至宝だと、言ってくれた。あれを偽善と呼ぶなら――この男は、何も見ていない。あの方の何ひとつ、見ていない。


「……言ったな」


 カイロは低く言った。


 副団長の眉が、わずかに寄った。鼠が口を利いたことが、意外だったらしい。


「言ったとも。何度でも言ってやる。お前の主は――」


「もういい」


 カイロは遮った。遮った自分の声が、自分でも驚くほど、静かだった。


 身体の奥で、ずっと閉じていた何かの蓋が、外れた。


 骨の痛みも、足りない息も、消えたわけではない。だが、それより深いところに、別の感覚があった。


 影だ。


 自分の輪郭の内側に畳まれていた影が、底の見えない深さまで沈み、広がっていく。カイロの立つ地面の影が、戦場の影の一枚一枚と、音もなく繋がっていく。


 ああ、と思った。


 ここに、あったのか。


 影は、隠れるための場所ではなかった。世界の裏側そのものだった。その裏側の全部に、いま、手が届く。


「俺は影だ」


 カイロは言った。


 短剣を握る指に、もう痛みはなかった。


「だが、我が主の望みを汚すなら……お前らを殺す!」


 カイロの姿が消えた。


 いや、消えたのではない。カイロは、右翼の戦場のすべての影の中に、同時にいた。


 副団長の足元の影。その周りで剣を振るう敵兵たちの、足の影、腕の影、武器の影。右翼に落ちた影の一枚一枚が、いまカイロの手だった。一人でありながら、一個小隊が音もなく右翼へ入り込んだのと、同じことだった。


 影が、同時に動いた。


 ある敵兵の足の影が、地に縫い止められる。別の敵兵の握った剣の影が急に重くなり、切っ先を落とす。別の敵兵が踏み込もうとした影が、行き場をなくす。右翼で剣を振るっていた敵兵が、一人、また一人と、振るうべき次の一手を失っていった。誰も、何が起きたのか掴めないまま、ただ動きを止めた。


 その崩れていく右翼の中心に、指揮官の副団長がいた。


 副団長が剣を構え直そうとした。だが、剣を握る指の影が、わずかに重い。鞘へ退こうとした足の影は、すでにカイロのものだった。背後へ振り向こうとした体の影が、途中で動きを失う。男には、抜く隙も、退く隙も、振り向く隙も、もう残っていなかった。


 カイロが組み上げたのは、その一点だった。副団長がもう何もできない『必然』。


 その必然の中心へ、カイロは影から半歩、踏み出した。


 副団長の首筋に、カイロの短剣があった。


 一閃。


 副団長の身体が、剣を構えた姿勢のまま、前のめりに崩れた。白い外套が、戦塵の地に伏した。汚れていなかった聖印が、土の上で初めて汚れた。


 カイロは短剣を提げたまま、それを見下ろした。


 乱戦の音が、まだ周りで続いている。だが、カイロの立つ一点だけは、静かだった。


 これが――。


 カイロは自分の掌を見た。さっきまで力の入らなかった指が、いまは静かに閉じ、また開いた。身体の芯の痛みは、まだある。回復しきっていない身体は、そのままだ。それなのに、影は深い。


 これが、限界の向こうにあった力なのか。


 カイロはその感覚を持て余しはしなかった。誇りもしなかった。ただ、影が世界の裏まで届くなら――やるべきことは、ひとつだ。


◇◇◇


 執務室の扉が、外から強く叩かれた。


 ゼノリスは窓辺に立っていた。北西の空に視線を置いていた。境界帯の方角に、戦の煙が、細く立ち上っているのが見えている。あの煙の下で、五人のうちの誰かが、いま戦っている。


「どうぞ」


 ゼノリスが応じると、扉が開いた。伝令の兵が一人、息を弾ませて入ってきた。北西からの通信を受け取り、走ってきた者の息だった。


「北西の防衛線より、報告です」


 伝令は背筋を伸ばし、通信で受けた言葉を、そのまま告げた。


「敵の右翼を、抑えました。指揮官の聖騎士団、副団長とその周りで剣を振るっていた兵が、ほぼ同時に崩しました。押し下げられていた結界の一線も、一点から押し返されました。……通信ではこう伝えられています。右翼を崩したのは、カイロ様です、と」


 ゼノリスは窓辺を離れ、机の方へ歩み寄った。


「カイロが――」


 その名を、口の中で繰り返した。


 昨日、治療室の寝台で、カイロは擦れた声で『行きます』と言った。動かない身体のまま、影の仕事はできないと言った。そのカイロが、敵の右翼を一人で崩した。回復しきらぬ身体で、それを成した。


 いや――とゼノリスは思い直した。


 回復しきらぬ身体のままで、できることではない。あれは、そういう力ではなかった。


 ゼノリスは目を閉じた。


 カイロの本質。あの日、至極の理で見抜いた、あの輝き。それが、いま、解かれたのだ。世界が無能と切り捨てた影が、世界の理を超えた。ここではその輝きが、見えない。だが、見えずとも、わかった。


「ありがとうございます」


 伝令は一礼し、扉の外へ駆け戻っていった。足音が、廊下を遠ざかっていく。


 執務室に、ゼノリスひとりが残った。


 ゼノリスは机の上の地図へ目を落とした。北西の戦線。


 ゼノリスは王衣の襟を整え、扉へ向かった。



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