第18話:「三人の旅立ち」
扉を押し開けた瞬間、朝の風が頬を撫でた。
冷たく、湿った風。森の匂いを含んだ風。
ゼノリスは振り返り、小屋を一度だけ見た。傾いた壁、崩れかけた屋根。この場所でセラと出会い、二人目の家臣を得た。
だが、もう振り返らない。
ゼノリスは、カイロとセラを見た。
カイロは壁際に立ち、わずかな荷物を整えている。動きは無駄がなく、音も立てない。手慣れた様子で、小さな袋に道具を詰めている。
セラは窓の近くに立ち、外を見ている。青い髪が、朝の光を受けて微かに揺れている。その表情には、期待と緊張が混ざっている。拳を握り、また開く。何度も繰り返している。
ゼノリスは、二人に声をかけた。
「カイロ、セラ」
二人がゼノリスを見る。
ゼノリスは、静かに告げた。
「これから、私たちは隠れ里を目指します」
セラの目が、輝く。カイロは無表情のまま、頷いた。
ゼノリスは言葉を続けた。
「そこで拠点を整え、力を蓄える必要があります。二人の力を貸してください」
カイロが、即座に応えた。
「承知しました」
その声は淡々としているが、確かな決意が込められている。
セラも、声を上げた。
「喜んで!」
その声は弾んでいて、嬉しさが溢れている。拳を握り、胸の前で小さくガッツポーズをする。その仕草が、まだ幼さを残している。
ゼノリスは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
ゼノリスは小屋の中を見回した。ここには、もう何も残っていない。わずかな荷物だけだ。
カイロが、袋を肩にかける。布の擦れる音が、小さく響く。セラも、自分の荷物を手に取った。
ゼノリスは、街道に目を向けた。轍の跡が残っている。人の往来がある道だ。
そして、小屋の裏手へ視線を移した。そちらには、鬱蒼とした森が広がっている。
「街道は使えません。人目につきます」
カイロが、静かに言った。
「裏手の森を抜けて、隠れ里へ向かいましょう」
ゼノリスは頷いた。
「そうですね。森の中を進みましょう」
三人は、小屋の裏手へ回った。足元の地面は固く、小石が転がっている。靴底に、ゴツゴツとした感触が伝わってくる。
小屋の裏手には、鬱蒼とした森が広がっていた。木々が密生し、その間から朝の光が差し込んでいる。風が吹き、葉が擦れ合う音がする。サラサラと、静かに。鳥の声が、遠くから聞こえてくる。
ゼノリスは、森の中へ足を踏み入れた。
足元の地面は、柔らかかった。落ち葉が積もっていて、踏むとフカフカとした感触がある。湿った土の匂いが、鼻をつく。森特有の、草木と腐葉土が混ざった匂い。
ゼノリスは深く息を吸った。冷たい空気が、肺に満ちる。清々しい匂い。森の匂い。
カイロとセラも、少し遅れてやってきた。
カイロは周囲を見回している。警戒するように、音に耳を澄ませている。その目は鋭く、何かを探している。
セラは、森を見上げていた。目を輝かせて、木々を見つめている。深く息を吸い込み、森の空気を味わっている。
ゼノリスは、静かに言った。
「これから、この森を抜けて、隠れ里を目指します。道は険しいですが、ついてきてください」
セラは、力強く頷いた。
「はい! 任せてください、ゼノ様!」
カイロも、短く応えた。
「問題ありません」
ゼノリスは、森の奥を見た。
木々が密生していて、奥は暗い。光が届かず、影が濃く落ちている。だが、その奥に、隠れ里があるはずだ。
ゼノリスは、歩き出した。
◇◇◇
私は、ゼノ様の後ろを歩いている。
カイロは先を歩いていて、時々立ち止まって周囲を確認している。その動きは静かで、音も立てない。まるで影のようだ。
私はゼノ様のすぐ後ろを歩く。足元の落ち葉を踏むたびに、カサカサと音が鳴る。カイロの足音は聞こえないのに、私の足音だけがやたら大きい。少し恥ずかしい。
でも、不思議だった。
森の中を歩いているのに、怖くない。
ほんの数日前、私は一人でこの森を這っていた。暗くて、冷たくて、どこにも行けなくて。あの時の森は、私を飲み込もうとする牙のようだった。
今は――同じ森なのに、全然違う。
前にゼノ様がいる。先にカイロがいる。それだけで、森がこんなにも穏やかに感じられる。
私は、ゼノ様の背中を見つめた。
黒い外套が、歩くたびに揺れている。背筋は真っ直ぐで、迷いがない。その背中は、頼もしい。
私は、この人についていく。
どこまでも。
私は拳を握った。この拳で、ゼノ様を守る。この体で、ゼノ様の力になる。
そう決めたのだ。
前を歩くカイロが、立ち止まった。
ゼノ様も立ち止まる。私も足を止めた。
カイロが、振り返った。
「この先、少し道が狭くなります。一列で進んでください」
その声は、いつも通り淡々としている。
ゼノ様が頷いた。
「分かりました。カイロ、先導をお願いします」
「承知しました」
カイロは再び前を向き、歩き出した。ゼノ様がそれに続き、私も後ろを歩く。
森が、少しずつ深くなっていく。
木々の密度が増し、光が届きにくくなっている。足元も、少しずつ暗くなってきた。
でも、怖くはない。
ゼノ様がいる。
カイロがいる。
私は、一人じゃない。
私は深く息を吸い、前を見つめた。
◇◇◇
ゼノリスは、二人の足音を聞きながら歩いていた。
前方のカイロの足音は、ほとんど聞こえない。意識しなければ見失うほど静かだ。後方のセラの足音は、落ち葉を元気よく踏み鳴らしている。時々、枝に引っかかる小さな悲鳴も混じる。
対照的な二つの音。だが、どちらもゼノリスの耳には心地よかった。
ゼノリスは、セラの方を振り返った。
セラは一生懸命に歩いている。顔には汗が浮かんでいて、息も少し荒い。だが、その目は輝いている。疲れているようには見えない。
「セラ、大丈夫ですか?」
ゼノリスが尋ねると、セラは即座に頷いた。
「はい! 全然平気です!」
その声は、力強い。
ゼノリスは微笑んだ。
「無理はしないでください。疲れたら、言ってください」
「はい! でも、本当に大丈夫です」
セラは、また元気良く歩き出した。
ゼノリスは前を向き、歩を進める。風が吹き、木々の葉が揺れる音が聞こえる。ザワザワと、森全体が呼吸しているような音だ。
カイロが、立ち止まった。
ゼノリスも足を止める。セラも、その後ろで止まった。
「どうしました?」
ゼノリスが尋ねると、カイロは前方を指差した。
「木が倒れています。迂回します」
ゼノリスは、カイロが指差す方向を見た。確かに、太い木が倒れていて、道を塞いでいる。幹は苔むしていて、緑色に変色している。その下には、キノコが生えている。
「分かりました。お願いします」
カイロは頷き、右へ進路を変えた。ゼノリスとセラも、それに続く。
倒木の脇を通り抜けながら、ゼノリスは幹に手を触れた。湿った苔の感触が、手のひらに伝わってくる。ひんやりとしていて、柔らかい。木の幹は冷たく、生命の温もりはない。
ゼノリスは、手を離した。
三人は、再び森の奥へ進んでいく。
しばらく歩くと、カイロが再び立ち止まった。
「休憩しましょうか」
カイロが、ゼノリスを振り返って言った。
ゼノリスは頷いた。
「そうですね。少し休みましょう」
三人は、木の根元に腰を下ろした。地面は少し湿っていて、冷たい感触が尻に伝わってくる。ゼノリスは外套の裾を敷き、その上に座った。
セラも、近くの木の根元に座る。深く息を吐き出し、額の汗を手の甲で拭う。
「ふぅ……歩くって、こんなに大変なんですね」
セラが、笑いながら言った。
ゼノリスは、セラを見た。
「体は、大丈夫ですか?」
「はい。疲れましたけど、痛いところはありません」
セラは、自分の足を見下ろした。靴は泥で汚れていて、裾も濡れている。
「でも……ちょっと汚れちゃいました」
「気にする必要はありません」
ゼノリスは、微笑んだ。
「これから、もっと汚れることになりますから」
セラは少し考えてから、頷いた。
「そうですね。これから、色々やらなきゃいけませんもんね」
カイロが、袋から何かを取り出した。布に包まれた固まりだ。布を開くと、干し肉が数切れ入っている。
「食事にしましょう。街道沿いに乗り捨てられた荷馬車がありましたので、そこからもらってきました」
ゼノリスは、少し驚いた表情でカイロを見た。
「いつの間に?」
「小屋を出る前に、少し周辺を確認していました」
カイロは、いつもの淡々とした口調で答える。
「食料が必要だと思いましたので」
ゼノリスは、小さく息をついた。
「そうでしたか。助かります」
カイロが、干し肉をゼノリスとセラに渡す。固くて、茶色く変色している。だが、腐ってはいない。
ゼノリスは干し肉を受け取り、一口齧った。硬い。歯を立てると、ガリッと音がする。噛むほどに、塩気と肉の味が口の中に広がってくる。乾いていて、喉が渇く。
セラも、干し肉を齧っている。顔をしかめながら、一生懸命に噛んでいる。
「硬い……です」
セラが、ようやく飲み込んでから言った。
「でも、美味しいです」
ゼノリスは、微笑んだ。
「贅沢は言えません。これでも、貴重な食料です」
カイロが、水筒を取り出した。これは小屋に残っていたものだ。
「水もあります。少しずつ飲んでください」
カイロが水筒をセラに渡す。セラは水筒を受け取り、口をつけた。ゴクゴクと音を立てて飲む。
「ぷはぁ……」
セラが、息を吐き出した。
「生き返ったー」
水筒がゼノリスに回ってくる。ゼノリスも、一口飲んだ。冷たい水が、喉を通って胃に落ちていく。乾いた喉が、潤される。
三人は、しばらく無言で食事を続けた。硬い干し肉を噛み、水を飲む。森の中に、咀嚼する音だけが響く。
食事を終えると、セラが尋ねた。
「ゼノ様。隠れ里には、食料はあるんですか?」
ゼノリスは、少し考えてから答えた。
「分かりません。私も聞いた話なので……」
セラの表情が、少し曇る。
「そうですか……」
「ですが」
ゼノリスは、セラを見た。
「森には、狩りができる魔物がいます。川があれば、魚もいるでしょう。食料は、自分たちで確保します」
セラが、頷いた。
「分かりました。私も、頑張ります」
カイロが、木に背を預けて座っている。目を閉じて、休んでいるようだ。だが、その耳は周囲の音を捉えている。少しでも異変があれば、すぐに反応するだろう。
ゼノリスは、森を見回した。
木々が、どこまでも続いている。光が届かず、奥は暗い。鳥の声が、時々聞こえてくる。風が吹くたびに、葉が揺れる音がする。
ゼノリスは、静かに呟いた。
「これから、私たちの国を作ります」
その言葉は、森の中に静かに響いた。
セラが、顔を上げた。
「国……ですか?」
ゼノリスは、頷いた。
「はい。正しい者が正しく評価される国です。才能が正当に認められる場所を、作ります」
セラの目が、輝いた。
「私も、手伝えますか?」
「もちろんです」
ゼノリスは、セラを見つめた。
「あなたの力が、必要です。カイロの力も、必要です。そして──これから出会う、多くの者たちの力が、必要になります」
カイロが、目を開けた。
「ゼノリス様。それは、長い道のりになります」
「はい」
ゼノリスは、頷いた。
「長く、険しい道です。ですが──」
ゼノリスは、二人を見た。
「私は、諦めません。必ず成し遂げます」
カイロとセラが、頷いた。
しばらく休んだ後、ゼノリスは立ち上がった。
「そろそろ、行きましょう」
カイロとセラも、立ち上がる。服についた葉を払い、荷物を持ち直す。
三人は、再び森の奥へ歩き出した。
◇◇◇
俺は、森の奥へ進んでいく。
先頭を歩く俺。その後ろを歩くゼノリス様。さらに後ろを歩くセラ。
三人で、森の奥へ進んでいく。
足音が、森の中に響く。カサカサと、落ち葉を踏む音。ザッ、ザッと、枝を避ける音。
森は、どんどん深くなっている。
木々の密度が増し、光が届きにくくなってきた。影が濃く落ち、足元が見えづらい。だが、俺の目はそれを捉えている。暗闇の中でも、道を見つけることができる。
俺は、周囲を警戒しながら進む。魔物が出てくる可能性もある。だが、今のところ気配はない。
ゼノリス様の足音が、後ろから聞こえてくる。規則的で、迷いがない。その足音を聞きながら、俺は前を見据える。
セラの足音も、聞こえてくる。少し不規則だが、元気がある。疲れているはずなのに、弱音を吐かない。
強い奴だ。
ゼノリス様が認めただけのことはある。
俺は、前方の茂みを避けながら進む。枝が顔に当たりそうになるが、手で折っておく。トゲのある枝だ。気をつけないと、怪我をする。
森の奥。
そこに、隠れ里がある。
人の目を逃れて暮らす者たちがいるらしい。
今も、あるのだろうか。
俺は、足を進めた。
森が、さらに深くなっていく。木々が密生し、枝が頭上で絡み合っている。光は、ほとんど届かない。薄暗く、静かだ。
だが、三人の足音は、確かに森の中に響いている。
ゼノリス様。
セラ。
そして、俺。
三人で、新しい未来へ向かって歩いている。
森の奥へ。
隠れ里へ。
そして──国を作る場所へ。
俺は、前を見据えた。
長い道のりになる。
だが、俺はついていく。
ゼノリス様が目指す場所まで。
三人は、森の奥へ消えていった。木々の間を縫うように進み、やがて深い影の中へと溶け込んでいく。足音だけが、しばらく森の中に響いていたが、それもやがて静寂に飲み込まれた。
森は、再び静けさを取り戻す。風が吹き、葉が揺れる。鳥が鳴き、木々が呼吸する。
三人の旅は、始まったばかりだった。




