第179話:「民への報告」
夜明けの空が、城門前広場の上に薄く広がっていた。
石畳が白い。冷気が下から立ち上がっている。広場の四隅に立てられた篝火の鉄籠から、燃え残りの煙が細く逃げていた。火はもう赤くなく、灰の上に熾を残していた。
ゼノリスは段の脇に立っていた。
懐に、一枚の紙があった。昨夜、最後の一文を書き終えた紙だった。今朝までに何度か読み返した。指の腹が、紙の四隅の冷えを覚えていた。
隣にセレナが立っている。何も言わない。両手を前で重ね、広場を見ていた。
民が、集まってくる。
石畳の上で足音が増えていく。革靴、木靴、布で巻いただけの足、年老いた者が杖を突く音、子の手を引いてくる母親の足音。それぞれの音が違ったまま、広場の中央に向かって寄っていった。
誰かが咳をした。乾いた咳だった。すぐ近くで赤子が一度、短く泣いた。母親が背中をさすった気配がして、泣き声がそのまま吸い込まれた。
ゼノリスは民の顔を見た。
一人ずつ。
最前列に、老いた男が立っていた。両腕で外套を抱いている。古い外套だった。胸の前で抱え込むようにしていた。誰のものか、ゼノリスには分かった。聞かなくても分かった。男の目が赤い。赤いまま、ゼノリスを見ていた。責めるのでも、許すのでもない。ただ、じっと見ていた。
その隣に、若い女が立っていた。腹に手を当てていた。腹は膨らんでいる。女の唇が薄く動いた。声は聞こえなかった。
もう一人、職人の前掛けをつけた中年の男がいた。両手に粉が残っている。仕事の途中で来た。男の眉間に皺が寄っていた。
ゼノリスは目を逸らさなかった。
セレナがわずかに身じろぎした。絹の袖が、肘の角度を変えた。セレナの耳が、わずかに広場の方へ傾いた。
「ゼノ様」
小さな声だった。
「皆さんが、揃いました」
「……はい」
ゼノリスは答え、段に向かった。木の段板が、靴の下で軋んだ。三段。低い段だ。段の上に立って、ゼノリスは広場を見渡した。視界が広がる。集まった民の数が、ようやく形を取って胸に届いた。城下に住む者のほとんどが来ていた。報せは夜明け前のはずだった。それでも、集まっていた。
ゼノリスは懐から紙を取り出そうとした。
取り出しかけて、また仕舞った。読まずに話す、と決めていた。書いたのは順序を間違えないためだ。
深く息を吸った。
冷たい空気が、喉の奥を通った。
「皆さんに、お話があります」
ゼノリスの声が、広場に落ちた。
石畳が音を吸った。それでも声は届いていた。最前列の男の眉が、わずかに動いたのが見えた。
「先の戦いで私たちは、……敗北しました」
空気が、一瞬で硬くなった。誰かの呼吸が止まった。最前列の老いた男が、外套を抱えた腕に力を入れた。胸の布が、指の下で歪んだ。
「遠征拠点での戦いに、勝てませんでした。そこで多くの仲間たちを……失いました」
ゼノリスは止まった。次の数字を、口にしなければならなかった。
「散っていった仲間たちの数を、お伝えします」
広場が、静かだった。
「騎士団、九十二名。魔術兵団、七十四名。守護隊、四十一名。合わせて、二百七名です」
数字が、広場を覆った。
最初に動いたのは、最前列の若い女だった。腹に当てていた手が、口元に上がった。声を立てない泣き方だった。肩が小さく上下した。次に、職人の男が顔を伏せた。粉のついた手が、目の上を覆った。
広場の真ん中あたりで、女の悲鳴に近い声が一度上がった。短い声だった。隣の誰かがすぐに抱き留めた気配がした。
老いた男は、動かなかった。
外套を抱えたまま、目から涙が落ちていた。拭おうともせず、ただゼノリスを見つめていた。
ゼノリスは目を逸らさなかった。逸らせば、男の涙を踏みつけることになる。
広場のどこかで、誰かが膝をついた。石畳に膝が当たる音が、鈍く広がった。立たせようとする声が、隣の女から漏れた。立てない、と短く返す声がした。
ざわめきが、低く満ちていった。
「待ってくれ」
民の中から、声が立った。中年の男の声だった。
「待ってくれよ、魔王様……っ。うちの息子は、騎士団の――」
声が、続かなかった。隣の誰かが、男の肩に手を置いた。男はその手を振り払いそうになって、振り払わなかった。
ゼノリスは、男の顔を見た。
「報告は、正確です」
ゼノリスは言った。声を絞らなかった。絞れば、嘘になる。
「お名前は、後ほど名簿としてお伝えします。今、ここで一人ずつ読み上げることが、皆さんの心を切り刻むだけになると、私は判断しました。お許しください」
ゼノリスは、深く息を吸った。
「明日より、城の使者が各家庭を順に伺います。遺骨と、お預かりしていた品々を、お一人ずつ、丁寧にお返しします。手続きは、急がせません。受け取れるようになってから、で構いません。城は、いつまでも、お待ちします」
男が顔を上げた。涙が頬を伝っていた。何か言おうとして、唇が動いた。動いただけで、言葉にならなかった。男は頷いた。
ゼノリスは、頭を下げた。
頭を下げたまま、次の言葉を喉に通した。
「散っていった方々は――私の命令で動きました。拠点を選んだのは、私です。戦いの時を選んだのも、私です。彼らを、その地へ向かわせたのは、私です」
ゼノリスは顔を上げた。
「これは、私の責任です」
言葉が、短く切れた。長く話せば、自分を許してしまう。それだけは、できない。
広場が、揺れた。
嗚咽が、広がった。低く、重く、広場の石畳の上を這うように広がった。最前列の老いた男が、ようやく目を伏せた。外套を抱いた腕が、震えていた。
その嗚咽の中から、声が立った。
「お前のせいだ」
声は、嗚咽を切り裂いた。
先ほど、頷いた男だった。息子のことを言いかけ、肩に手を置かれ、頷いて引き下がった、あの男だった。男は隣の手を、振り払っていた。
男の手は、まっすぐゼノリスを指していた。
「お前が、選んだんだ! お前が、息子を、選んだんだ! お前が、お前が!」
声は、震えていなかった。涙は頬を伝ったまま、男はもう拭わなかった。
「私の責任です、だと? そんな言葉じゃ、息子は戻らねえ。もう……戻らねえ!」
広場が、止まった。
誰も、男を抱き止めなかった。隣の女が、男の腕に触れようとして、触れられなかった。
ゼノリスは、男から目を逸らさなかった。
男は、ゼノリスを指したまま、しばらく動かなかった。ゼノリスは、頭を下げなかった。
長い沈黙のあと、男はゆっくりと手を降ろした。だが、目はゼノリスから逸らさなかった。
「許せ、なんて言わねえだろうな」
別の声が、響いた。若い男の声だった。声が震えていた。
「魔王様が、そんなこと言うわけねえよな」
ゼノリスは、その声の方を見た。広場の右手、人垣の二列目だった。革のベストを着た若い男が、拳を握っていた。握っている手が震えていた。
「言いません」
ゼノリスは答えた。
「許しを請う言葉を、私は口にはしません。それは、皆さんに重さを背負わせることになるからです」
若い男は、何も言わなかった。握った拳が、ゆっくり開いた。開いた指が、また閉じた。閉じたまま、男は俯いた。
広場が、また静かになった。
ゼノリスは、もう一度、深く頭を下げた。
石畳の白さが、視界の下半分を占めていた。靴の先が見えた。自分の靴の先と、その向こうに広がる石畳の冷えた色だけが、見えていた。
頭を下げたまま、ゼノリスは動かなかった。今、ここで動けば、必ず自分を救う言葉が口から出る。
背後で、絹の擦れる音がした。
セレナが、一歩、前へ出た気配だった。
セレナがゼノリスの隣に並んだ。
ゼノリスの視界の端に、純白の裾が入った。藍色の瞳がまっすぐ広場の方を向いていた。セレナはゼノリスを見なかった。何も言わずに、ただゼノリスのすぐ隣で、民を見ていた。
ゼノリスは、頭を上げた。
セレナは段の中央に出た。一歩、ゼノリスより前に。ゼノリスの位置から、セレナの背と、その細い肩の線が見えた。肩は、強張っていなかった。降ろされていた。
「皆さん」
セレナの声が、広場へ向かった。語りかける声だった。穏やかで、丁寧で、しかし芯がある声だった。広場の嗚咽が、ほんのわずかにほどけた。最前列の老いた男が、外套を抱えたまま顔を上げた。若い女の手が、口元から離れた。
「皆さんの悲しみを、私は知っているとは言えません」
セレナは、そう切り出した。
「私が知っているのは、私自身の悲しみだけです。けれど、悲しみが立てる音は、知っています。私にはそれが聴こえます」
ゼノリスは、セレナの横顔を見た。
セレナの目は、特定の誰かを見ていなかった。広場の全体を音として聴いていた。耳が、わずかに広場の方へ傾いている。長い暗闇の中で培われた、音で世界を捉える癖が、今、ここで生きていた。
「散っていった方々の名前を、私は知りません」
セレナは続けた。
「けれど、その方々が誰かに呼ばれて、誰かに笑いかけた声を、私は信じます。声には、嘘がないからです」
広場が、息を吸った。
それは音ではなかった。空気の質量がわずかに動いた気配だった。ゼノリスは、その動きを肌で感じた。冷気の中の、わずかな温度の変化だった。
セレナが、息を吸った。
「歌わせてください」
民は、答えなかった。答える代わりに、誰もがセレナを見ていた。
セレナの唇が、開いた。
ひと音目は、細かった。
言葉のない旋律だった。母音だけで紡がれる、古い節回しだった。一音、また一音。連なっていくにつれて、声が芯を持っていった。広場の冷気の中で、その声だけが、別の温度を持っていた。
ゼノリスは、セレナの背中を見ていた。
その旋律を、ゼノリスは知らなかった。聴いたことがない節だった。だが、セレナの中にはあった。どこかで、誰かが、いつか歌ったものだ。一度聴いたものを、決して失わないセレナの中に、それが残っていた。
広場の中ほどで、子どもが顔を上げた。
小さい子だった。母親の手を握ったまま、口を開けて、セレナを見ていた。母親も、いつのまにか涙の痕の上で、顔を上向けていた。
最前列の若い女が、膨らんだ腹の上で、両手を重ねた。重ねた手が、もう震えていなかった。
二番目の母音が落ちる頃、広場の右手から、低く、誰かが声を合わせ始めた。
老いた男だった。
外套を抱えたまま、目を閉じて、口だけが動いていた。声は、ほとんど音にならなかった。それでも、節は合っていた。セレナの旋律と、寸分違わなかった。
その隣で、職人の男が、顔を伏せたまま、肩で節を取っていた。
三人目は、若い女だった。腹の上に重ねた手の指が、節に合わせて、ひとつ、また一つと、自分の手の甲を撫でていた。子に届くように、と。
声が、増えていった。
ゼノリスは段の上で、それを見ていた。
知っている者がいる。
その節を知っている民が、この広場にいた。知らない者は、知っている者の声を拾って、それを継いだ。継ぎながら、自分の中の何かと、その節を重ねた。重ねたものが、嗚咽の代わりに、口から出ていった。
セレナの声が、芯を深くした。広場の上にだけ広がっていた声が、石畳のひとつ下まで届く声に変わった。ゼノリスの足の裏に、その響きが伝わった。
セレナは、目を閉じていなかった。
目を閉じれば、民が見えなくなる。それを、セレナは選ばなかった。藍色の瞳は、開いたまま、広場の全員を抱いていた。
歌が、頂きへ向かっていった。長く伸びた母音が、朝の冷気を割って、空の薄い光の中へ昇っていく。
ゼノリスは、息ができなかった。
二百七名の声が、その一音の中にいた。聴いたことのない声のはずだった。それなのに、ゼノリスはその一人ひとりの声を、確かに聴いた気がした。頬の内側が熱くなった。喉の奥が、塞がった。
その瞬間、最前列の老いた男の頬を、新しい涙が伝った。涙だけが、伝っていた。嗚咽はもう、そこになかった。
歌が、終わった。
終わったあとに、何も残っていないわけではなかった。広場の上に、消えない余韻が残っていた。誰もすぐには動かなかった。誰も手を叩かなかった。
静けさが、長く続いた。
その静けさの中から、ひとつの声が立ち上がった。
「魔王国は」
老いた男の声だった。
外套を抱えた腕で、男は涙を拭わなかった。拭わないまま、もう一度、はっきりと言った。
「魔王国は、まだ倒れません」
声が、震えていなかった。
男の隣の女が、頷いた。頷いてから、口を開いた。
「倒れません」
二つ目の声だった。
三つ目は、職人の男だった。粉のついた手を、胸の前で握りしめて、低く繰り返した。
「倒れねえ」
四つ目は、子どもの声だった。
母親の手を握ったまま、まだ意味の全てを分かっていない顔で、それでも周りの大人たちと同じ言葉を口にした。
「たおれません」
五つ目、六つ目、十、二十。
声は数えきれなくなった。数えなくてもよかった。広場の方々から、同じ言葉が立ち上がっていた。重ねるためではなかった。自分の足元に置くためだった。一人ずつ、自分の言葉として、それを置いていた。
唱和の声が広場に満ちていく中、ゼノリスを指していた男が、ゆっくりと背を向けた。
男は、唱和しなかった。声は、出さなかった。ただ、広場を歩いて、出ていった。背中は、震えてはいなかった。誰も、男を止めなかった。
ゼノリスは段の上で、立っていた。
動かなかった。
応えるべきだった。だが、応える言葉を、ゼノリスはまだ持っていなかった。何を言っても、軽くなる。軽くしないために、ゼノリスは黙っていた。
代わりに、ゼノリスは胸の中で、一つの言葉を置いた。
――散っていった二百七名の名を、私はまだ知らない。それでも、私は、彼らを無駄にはしません。
それは誓いだった。
声には、出さなかった。
声にすれば、また民に重さを背負わせる。誓いは、自分の中に置けばよかった。明日からの自分の手と足が、その誓いを果たしていく。
セレナが、一歩、後ろに下がった。
ゼノリスの隣に、戻ってきた。
ゼノリスは、セレナを見なかった。広場を見ていた。セレナも、ゼノリスを見なかった。同じ広場を、同じ角度で見ていた。
セレナの右手が、ゼノリスの左手のすぐ傍にあった。
触れてはいなかった。指の間に、わずかな空気があった。その空気の温度を、ゼノリスは知っていた。触れずに、知っていた。
朝の光が、ようやく城門の屋根を越えた。
石畳の白さが、薄い金色に染まり始めた。広場の中央から外側に向けて、光が広がっていった。民の頭の上に、その光が広がった。それぞれの輪郭が、影と光に分かれた。
最前列の老いた男の、外套の襟元に光が当たった。
男は、その光を見なかった。ただ、ゼノリスを見ていた。
その目には、もう涙はなかった。
ゼノリスは、深く頭を下げた。
三度目の礼だった。
今度の礼は、謝罪ではなかった。受け取った、という礼だった。民の声を、二百七の名前の代わりに、ゼノリスは受け取った。受け取ったことを、頭を下げる動きで示した。
頭を上げたとき、広場のどこかで、ひとつの拍が鳴った。
誰かの、手のひらの音だった。
大きな音ではなかった。乾いた、小さな、しかし確かな一拍だった。
その一拍に、もうひとつの拍が、重なった。




