第178話:「喪失の確認」
ゼノリスは廊下を離れた。ライカとエルネスを伴って、執務室の扉を開いた。
燭台の炎が揺れた。扉を開けた風が入り込んで、炎の形が一度変わった。ゼノリスは机の前に立った。
ライカとエルネスが、並んで頭を下げた。
「……騎士団が、九十二名。魔術兵団が、七十四名。守護隊が……」
ライカが続けた。声が途中で一度、裂けた。飲み込んで、また繋いだ。
「……四十一名です。合計、二百七名の……兵が散りました」
部屋に音がなくなった。
二人とも頭を上げない。ライカは口を引き結んでいた。下がった顎の角度から、それが見えた。エルネスの細い肩が、一度だけ揺れた。長い耳が、髪の中で小さく震えていた。それだけだった。
「……分かりました」
自分の声が、遠かった。
ゼノリスは机の上に目を落とした。書類も、ペンも、インク壺も、ゼノリスが出ていく前と同じ場所にあった。何も動いていなかった。動いていないのが、不自然に思えた。
「報告、ありがとうございます。ライカさん、エルネスさん、今夜は下がってください」
「……はい」
ライカがようやく頭を上げた。ゼノリスはその目を見た。赤かった。何かをこらえている目だった。それでも口を引き結んで、踵を返した。エルネスがその後に続いた。白いエルフ族の細い背が、扉の向こうに消えた。
扉が、閉まった。
◇◇◇
一人になった。
ゼノリスは椅子に座ったまま、動かなかった。窓の外で、風が何かを鳴らした。葉か、枝か、屋根の端についた何かか、判別できなかった。
――二百七名。
頭の中で、数字が形を持とうとする。持ちきれない。二百七という数は、ゼノリスが知っている顔の数よりずっと多い。知らない顔の方が、はるかに多い。名前も知らない。どの部隊のどこに配置されていたかも、報告書の中でしか会っていない者たちだ。
だから、重さが来ない。
そう思いかけた。
来ていた。器が見つからないだけだった。受け止め損ねた重さが、胸の中に居場所を探して暴れていた。
彼らは、私のために。
その言葉に、ゼノリスは息を詰めた。違う、と思った。違うはずだった。彼らには彼らの意志があった。任務があった。命令の中で動いた。
だが――
その命令を下したのは私だ。戦いを選んだのは、私だ。あの拠点を選んだのも。
膝の上の拳に、指の関節が立った。指が冷たかった。冷たいことに気づいたとき、指よりも先に、奥歯が噛み合わさっていた。
城のどこかで、鐘が鳴った。何刻か数える前に音が消えた。時間の輪郭が、ゼノリスの中で崩れていた。
ゼノリスは机の上の書類を見た。何も書かれていない紙が一枚、端に置かれていた。誰かが用意したものだろう。何のために用意されたのか、今は思い出せなかった。
二百七名の名前を、書けるか。
そう思って、ペンに手を伸ばした。
止まった。
書いたとして、どうする。名前を並べて、それが何になる。ゼノリスには分からなかった。分からないままペンを持つのは、違う気がした。ペンの軸を二本の指でつまんだまま、また机の上に置いた。
炎が揺れた。燭台の炎が、また形を変えた。今度は風があった。扉の隙間から、廊下の空気が流れ込んでいる。
◇◇◇
扉を叩く音がした。
ゼノリスは顔を上げた。机の上に目を落としていた時間が、どれほどだったか分からない。
「……どうぞ」
扉を開けたセレナはゼノリスを見て、一瞬だけ息を止めた。それから部屋に入り、扉を閉めた。
ゼノリスは椅子に座ったまま、セレナを見た。セレナはゼノリスの隣に来た。
「聞きました」
セレナが言った。
「散っていった方たちの人数を」
「……そうですか」
ゼノリスは答えた。声が出たことに、少し驚いた。
セレナは何も言わなかった。ゼノリスのすぐ傍で、ただ立っていた。机の角に指先を置いて、そこに重心を預けるでも寄りかかるでもなく、ただここにいてくれた。
沈黙が、長かった。
ゼノリスは机の上の白紙を見た。ペンが、端に置いたままだった。
「彼らは……私が、動かしました」
口から出たのは、そこだった。
「命令を出したのは私です。戦いの場所を選んだのも。あの拠点へ向かわせたのも」
セレナは口を挟まなかった。
「それでも彼らは従った。……従って、散った」
言葉が、そこで折れた。
謝罪を口にしたら、彼らの戦いを軽くする。後悔を口にしたら、彼らの選択を否定する。言い訳を口にしたら、自分を、許してしまう。
だから何も言えなかった。事実だけが、机の上の白紙のように、ゼノリスの前にあった。
「ゼノ様」
セレナが口を開いた。静かな声だった。歌うような抑揚ではなく、ただ真っ直ぐな声だった。
「あなたが背負えるものと、背負えないものがあります」
ゼノリスは顔を上げた。セレナの瞳が、真っ直ぐにゼノリスを見ていた。
「彼らが戦いを選んだこと。最後まで退かなかったこと。それはあなたのせいではありません」
「……しかし」
「あなたが背負うべきは、彼らを動かした判断です。その結果です。彼らの意志ではない」
ゼノリスは口を開いた。何も出てこなかった。
セレナが正しい。分かっていた。分かっていても、胸の奥で何かが引っかかっていた。引っかかったものは熱を持っていた。熱の正体に名前をつけたくなかった。つけてしまえば、それを抱えたまま明日を迎えることになる。
「……私は」
ゼノリスは机の白紙に目を落とした。
「彼らの名前を、書こうとしました。書いたとして、それが何になるか分からなかった。だから、書けなかった」
セレナは答えなかった。ゼノリスが続けるのを、待っていた。
「今、何をすべきか。私には分からない。……分からないまま、ここにいる」
「それでいいと思います」
セレナの声は、揺れなかった。
「今は、分からなくていいです。ただ、明日には動かなければならないことがあります」
「民への報告……ですか」
「はい」
一言だった。それだけだった。
ゼノリスは白紙を見た。誰が置いたのかは、分からない。だが今、この紙の上に置くべきものが、ゼノリスの中で輪郭を持ち始めていた。
◇◇◇
セレナが出て行った後、執務室の空気が、また一段沈んだ。
ゼノリスは立ち上がり、窓の前に立った。夜の城下が、暗く広がっていた。灯りがいくつか揺れている。民が眠っている。その民が、明日には真実を聞く。
――二百七名。
その数を、隠すことはできない。隠すつもりもない。ただ報告するだけでは足りない。言葉が必要だった。何を言うべきか、今はまだ形になっていない。それでも、言わなければならない。
ゼノリスは机に戻り、白紙の前に座った。ペンを取った。
今度は、置かなかった。
「……民に、全てを話します」
誰もいない部屋に、自分の声が落ちた。誰に向けて言ったのでもない。それでも、口にした以上は引き返せない。
ペンの先が、紙に触れた。
白紙に、最初の一画が落ちた。




