第177話:「治療の開始」
扉を開けた。
カイロが、寝台の上にいた。
上体を起こせていない。仰向けのまま、首だけがゼノリスの方を向いていた。動かそうとして、止まったのが分かった。
ゼノリスは部屋に入り、扉を閉めた。救護員が一人、壁際で術式の確認をしていた。青白い光が、カイロの胸の上で淡く揺れている。
「……起こして、すみません」
「いいえ」
カイロが言った。空気が少ないのか、声が普段より低い。
ゼノリスは寝台の傍に立った。椅子を引こうとしたが、やめた。立ったまま、カイロを見た。
「状態を聞かせてください」
「力が、戻っていません。……【万能の影】を使おうとすると、消えます。今も……です」
短く、正確だった。報告の声だった。それでもわずかに、語尾が途切れた。
「他は」
「腕が、あまり上がりません。右の方が悪い。……あとは、頭が少し、うるさい」
うるさい、という言葉が、どういう状態を指すのか、ゼノリスには分からなかった。
「分かりました。休んでください」
「……一つだけ」
カイロが言った。ゼノリスは動かなかった。
「拠点に、まだ残っている者がいます。ライカが来ましたが、全員は収容できていない。……俺が残った者の数を、伝えておかなければ」
「大丈夫です。報告は受けています」
カイロの目が、わずかに細まった。
「……そうですか」
「あなたが気にすることではありません。今は特に」
ゼノリスは言った。柔らかく言ったつもりだったが、どう届いたか分からなかった。カイロは何も言わなかった。天井を見た。目が、そこで止まった。
ゼノリスは一度、カイロの右手の傍に目を落とした。手が、布の上に置かれていた。指先が、わずかに動いた。何かを握ろうとして、止まった。
「……ゼノリス様」
「何ですか」
「俺は、何もできませんでした」
ゼノリスは答えなかった。
カイロが続けた。
「打てる手は、ありました」
息を、一度切った。
「光が落ちた後、判断を誤りました。退避の指示が遅れた。石壁が崩れる前に、退かせられたはずです」
「それは、今話すことですか?」
声に、責める色を出さないように言った。カイロは黙った。
「あなたが判断した結果が、今ここにある。生きている者たちも多くいる。それが、いま私に見えているものです」
カイロは何も言わなかった。ゼノリスも続けなかった。術式の光が、静かに揺れていた。
「……休んでください」
ゼノリスはそう言って、扉に向かった。扉を開ける前に、カイロの声がした。
「……はい」
それだけだった。
◇◇◇
廊下に出た。
五つの扉が、並んでいた。それぞれの扉の隙間から、術式の光が滲んでいる。色が、少しずつ違った。カイロの部屋の青白い光より、三つ目の扉からは光が多く重なって、やや白に近かった。四つ目は安定している。五つ目だけ、光の揺れ方が不規則だった。
廊下の角から、足音が来た。
施療長官のセフィリアが、書類を脇に抱えて歩いてきた。白衣の裾が、足早の動きに合わせて揺れている。長い耳が、廊下の奥へわずかに傾いた。音を拾っている。ゼノリスを見て、足を止めた。
「ゼノリス様」
セフィリアが頭を下げた。静かな声だった。
「状況を」
「はい。カイロさんは意識があります。……ただ、全身に打撲と裂傷が多いです。肋骨にも損傷があります。魔力の循環もまだ戻っていません。今夜は予断を許さない状態です」
「他の四人は」
セフィリアが書類を開いた。目を落とさずに答えた。
「セラさんは眠っています。肋骨が二本、折れています。あとはひびも何か所か入っています。全身に打撲も多いです。……回復の術式で対処していますが、しばらくは安静が必要です」
ゼノリスは頷いた。セフィリアが続けた。
「シルヴァさんは意識があります。ただ、術式への反応がまだ薄いです。魔力を組もうとするたびに、手が止まっています。……本人も自覚していますが、それを口にされません」
「……そうですか」
「ガルムさんは、先ほど目を開けました。呼びかけには応じています。……ただ、全身への負荷が大きいです。右腕は盾を持ち続けた影響で筋が複数傷んでいます。左側にも打撲が多数あります。しばらく盾は持てません」
ゼノリスは廊下の壁を見た。石の冷えた色だった。
「ノアさんは……一番、時間がかかるかもしれません」
セフィリアの声が、ここだけわずかに落ちた。
「頭部に強い衝撃を受けています。意識が戻っても言葉が続かない様子でした。何かを言おうとして、途中で止まってしまいます。……今は眠っています」
廊下が、静かだった。
ゼノリスは動かなかった。セフィリアも動かなかった。五つの扉から、光が滲んでいた。
「回復の見通しは」
「全員、命に別状はありません。……回復には個人差があります。一週間から、長ければひと月。無理をさせなければ、全員戻ります。ただ、みなさまの『力』がいつ戻るかは、……わかりません」
「そうですか。……分かりました。引き続き、お願いします」
「はい」
セフィリアが頭を下げた。踵を返しかけて、一度止まった。振り返らないまま言った。
「……ゼノリス様も、今夜は休んでください。あなたが倒れたら、私たちの術式が追いつきません」
ゼノリスは答えなかった。セフィリアは振り返らず、廊下の奥へ歩いていった。白衣の背中が、扉の向こうに消えた。
◇◇◇
三つ目の扉の前に来た。
光が最も多く重なっている部屋だった。シルヴァがいる。ゼノリスは扉に手をかけた。
けれど開けなかった。
手のひらだけを、扉の木の面に当てた。冷たかった。木の目が、指の下でわずかに粗かった。
シルヴァが術式を組もうとするたびに手が止まっている、とセフィリアが言った。本人は自覚している。
ゼノリスには、その状態が分かった。分かりたくなかったが、分かった。何かを組もうとするたびに消える。それでも組もうとする。消える。また試みる。それを繰り返して、どこかで諦める。諦めたことが、分かる。その分かり方が、重い。
扉から手を離した。
今、入っても何も言えない。言えることがない。ただの励ましは嘘になる。だけど、何も言わなければ、ただ重さを増やすだけだ。
ゼノリスは扉から一歩引いた。
◇◇◇
セレナが来たのは、それから少ししてのことだった。
廊下の奥から足音がした。迷いのない足取りだった。ゼノリスはシルヴァの扉から視線を外した。
両手で湯気の立つ器を持って、セレナが歩いてきた。ゼノリスの顔を見て、少し目を細めた。
「飲んでください」
差し出された器を、ゼノリスは受け取った。温かかった。指の冷えが、じわりと戻ってくる。
「……ありがとうございます」
「いつからここに?」
「少し前から」
セレナは答えを聞いて、それ以上聞かなかった。ゼノリスの隣に来て、扉を見た。五つの扉。光が滲んでいる。
もう一度、器の縁に口をつけた。薬草の少し苦い味がした。
「シルヴァさんのことを、考えていましたか」
問いではなかった。確認だった。
「……入れなかった」
ゼノリスは小さく呟いた。
「今は、言える言葉がない。入っても、重さを置いてくるだけだ」
セレナは黙っていた。すぐに返さなかった。廊下の冷気が、二人の間にあった。
「言葉がなくても、いいんじゃないですか」
静かな声だった。
「いるだけで、十分なことがあります」
ゼノリスは器を見た。湯気が細く立ち上っていた。
そうだろうか、と思った。自分が入ることで、シルヴァが何かを取り繕わなければならなくなるなら、それは重さを増やすだけだ。だが、セレナの言葉には根拠がある。セレナは人の傍にいることを、ゼノリスよりずっとよく知っている。
ゼノリスは器の中身を飲み干し、セレナに返した。
「……少し、待ってください」
扉の前に立ち、一度息を吸った。
扉を、開けた。
◇◇◇
シルヴァは寝台の上に座っていた。
上体を起こして、壁に背をもたせかけている。杖を膝の上に横たえて、両手でその柄を持っていた。ゼノリスが入ってくるのを見た。表情は動かなかった。
ゼノリスは部屋に入り、寝台の傍の椅子を引き、座った。
何も言わなかった。
シルヴァも言わなかった。杖の柄に置いた指が、わずかに動いた。何かを刻もうとするように、止まった。また動いた。また止まった。
術式を組もうとしている。
ゼノリスにはそれが分かった。だが、何も言わなかった。
指先に、淡い光が灯った。一瞬だった。次の瞬間には、消えていた。シルヴァが、それを見ていた。瞬きをしなかった。光が消える瞬間を、最後まで見ていた。
隣の部屋で、誰かが動く気配がした。
「……ゼノ様」
シルヴァが口を開いた。視線は、杖の上にあった。
「私は今、何もできません。術式も……」
「知っています」
「……それでも、来てくださったんですか」
ゼノリスは答えなかった。シルヴァが顔を上げた。ゼノリスと目が合った。
「組めなくても、あなたはここにいる」
ゼノリスは言った。
「それだけです」
シルヴァは何も言わなかった。目が、また杖に落ちた。指先が、柄の上で止まっていた。
部屋に、静けさだけが残った。
◇◇◇
廊下に戻ると、セレナはまだそこにいた。
空になった器を両手に持って、壁を背にして立っていた。ゼノリスが出てくるのを見て、器の縁を少し強く握った。
ゼノリスは扉を閉めた。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
セレナは首を振った。それから、少し間を置いて言った。
「ゼノ様」
「何ですか」
「泣いてもいいんですよ」
ゼノリスは動かなかった。廊下の冷気が頬に当たった。
泣けない……泣く場所がまだない、と思った。五つの扉の向こうに、まだ眠っている者がいる。立ち上がれていない者がいる。その者たちが目を開けたとき、ゼノリスが泣いた後の顔で立っていてはいけない。
拳が、固まっていた。
「……今は、まだ」
セレナは何も言わなかった。ただ、ゼノリスの傍に立っていた。
◇◇◇
夜が深くなった。
交代した救護員が各室に入り、術式の光の色がわずかに変わった。廊下は静かなままだった。ゼノリスは壁を背にして立っていた。セレナは椅子に座り、静かに膝の上で書類を広げていた。
五つの扉。光が揺れている。
次に何をすべきか、頭の中で言葉が動き始めていた。傷ついた者たち。散っていった者たち。国民への報告。勇者が広場で何を言ったか、まだ詳細を受けていない。防衛の立て直し。やるべきことは積み上がっている。
だが今は、ここにいる。
そう決めていた。やるべきことは、明日からでも始められる。だけど今だけは、五つの扉の前にいる。それだけが、今ゼノリスにできることだった。
廊下の奥から、足音がした。
軽くない。重さを引きずるような、どこか不揃いな足音だった。ゼノリスは顔を上げた。
ライカが廊下の角から来た。
鎧の一部が外されている。右肩の留め具が外れたまま、直されていない。顔に泥の跡が残っていた。拭いたが落ちきっていない。ゼノリスを見て、一瞬だけ足が止まった。それから、また歩いた。
ゼノリスの手前で止まった。
ライカが頭を下げた。深く、長く。
「……申し訳、ございません」
声が、掠れていた。途中で一度、切れた。それでも、もう一度繋いだ。
ゼノリスは何も言わなかった。
ライカは、頭を上げずに言葉を続けた。
「犠牲者の数が……報告されました」
廊下が、静かだった。
セレナが書類から顔を上げた。書類の上に置いた指が、止まった。
ゼノリスは動かなかった。ライカの頭がまだ下がったままだった。廊下の冷気が、石の壁から滲んでいた。五つの扉の向こうで、青白い光と白に近い光と、不規則に揺れる光が、それぞれの色のまま揺れていた。
「……聞かせてください」
ゼノリスは言った。その声は、静かだった。




