第176話:「絶望の帰還」
通信魔道具が、机の上で光った。
ゼノリスは書類から目を上げた。光が、一度だけ強く点滅して、揺れた。
――次の定刻まで、まだ時間はあるはずだ。
手が、動いた。
「ゼノリス様……! 急いでください!」
エルネスの声だった。雑音が混じっている。馬が走る振動が、通信越しに伝わってくるような粗さだった。術式が安定していない。走りながら、揺れながら、それでも起動した。
ゼノリスは立ち上がった。
「エルネス! 状況を」
「拠点が攻撃――受け――す! 術式が、組め――」
声が、雑音に飲まれた。一拍、途切れた。
「ライカは」
「引き返しました。今から――向かいます」
それだけだった。通信が切れた。通信魔道具の光が、すうと消えた。
通信室に残ったのは、地図を支えるセレナの指先の動きだけだった。
セレナは地図の端に指を添えたまま、ゼノリスを見ていた。何も言わなかった。ゼノリスは一度だけ目を合わせ、すぐに扉へ向かった。
「救援を出します」
廊下に出た。
すれ違った騎士に、一言だけ指示を出した。守護隊の詰め所へ走れ、と。足音が遠ざかった。次の角で別の兵を捕まえ、施療省の長を呼ぶよう告げた。幌馬車を用意させる。救護員を乗せて出す。騎士団の残留兵を先頭に走らせる。
一つひとつ、声に出した。声を出している間だけ、胸の内側にあるものが、静かになった。
◇◇◇
城門の内側に立って待っていたゼノリスの耳に、蹄の音が届いたのは、夕刻を過ぎた頃だった。
エルネスが馬を止めた。乗り降り場の石畳に着地した瞬間、片膝がわずかに折れた。立て直して顔を上げた。
走り続けて乱れた金の髪が、額に張りついていた。外套の裾が泥で汚れている。馬の首が大きく上下していた。限界まで走らせてきた呼吸の荒さが、馬の鼻先に白く残っていた。
「ゼノリス様」
エルネスが言った。声が、普段より一段低い。
「報告します」
ゼノリスは頷いた。セレナが一歩後ろに立っている。
「中継拠点の方角から、強い魔力のノイズが来ていました。ライカの指示で私は先行して帰還しましたが、その時点で拠点への攻撃はまだ続いていました」
「……何を見た」
「拠点の方角の空に、光の柱が落ちました。その直後から術式が組めなくなり、拠点の外側……遠方から内部へ向けて術式の着弾が続きました。ライカの耳が遠くの石壁が崩れる音を聞きました。それから……声が止む音も」
ゼノリスは何も言わなかった。
「私は戻っていないので、内部の状況は分かりません。ライカが引き返しましたが、私が発った時点では……術式が使えない状態だったため、何ができるかは……」
エルネスが言葉を切った。それ以上続けられなかった。
「……分かりました」
ゼノリスは静かに言った。
「よく戻ってくれました。エルネス、休んでください」
エルネスが頭を下げた。一度だけ。それから、もう一度頭を上げ、何かを言いかけて、やめた。馬の手綱を厩舎の兵に渡し、廊下へ向かった。
ゼノリスはその背中を見送った。
足音が遠ざかった。セレナが、ゼノリスの隣に立った。二人とも、エルネスが去った方角を見ていた。
「救援部隊は、出ています」
セレナが言った。確認でも慰めでもない声だった。
「ええ」
ゼノリスは答えた。
◇◇◇
馬を限界まで走らせた。
拠点の門が見えた瞬間、ライカは馬から飛び降りた。走った。石の粉塵と、焦げた土と、鉄の匂いが来た。
壁が、二か所崩れていた。内側から石が砕けて積み重なっている。破片の上に、動かない兵が見えた。
「救護員、急げ!」
救護員が走った。崩れた石を跨いで、動かない兵の元へ向かった。術式の光が、粉塵の中で点々と灯り始めた。
ライカは奥へ進んだ。
石畳の上に、革具と武器が散らばっていた。倒れた身体から外れ落ちたものだった。ライカはそれを踏まないように歩いた。
北壁の手前に、人が集まっていた。
カイロさんが、壁に支えられて立っていた。手が、隣に倒れている兵の首筋を押さえていた。脈を確かめている。確かめ終えて、手を離した。次の兵へ移ろうとして、足が止まった。
ライカと目が合った。
二秒か三秒、互いに言葉が出なかった。
「……来てくれたか」
カイロさんが言った。声に感情がなかった。
「団長たちは! 他の方たちは!」
「……全員生きている。……だが、動けない」
カイロさんが短く言った。
ライカは周囲を見回した。団長が石壁の脇に座っていた。上体を起こしているが、両脚が伸びたまま動いていない。手が膝の上に置かれ、力が入っていない。ライカを見て、目が開いていた。口が動いた。だが、声は出なかった。
ガルムさんが盾を胸に抱えて横たわっていた。目は閉じ、胸が上下していた。
シルヴァさんが壁際に座ったまま、杖を両手で持っていた。指先が杖の表面を繰り返し撫でていた。まだ何かを握っていなければならない、そういう手だった。
ノアさんは地図を膝の上に広げていた。文字を読もうとしているが、目の焦点が定まっていない。唇が微かに動いているが、声はない。
ライカは振り返り、門の方に向かって声を出した。
「担架を持て! 全員収容する!」
部隊が動いた。幌馬車が門を割って入り、担架を持った兵が駆け込んでくる。救護員が散り、術式の光が増えた。
収容が進む中、カイロさんが幌馬車の縁を掴んで乗り込もうとしているが、腕が震えてうまく上がれない。ライカが脇を支えた。カイロさんは一度だけ、ライカの腕を掴んだ。それから離した。幌馬車に上がり横たわった。
帆を閉める直前、カイロさんが手を伸ばした。
「ライカ」
「分かってます」
カイロさんが少し目を細めた。それから、手を離した。
ライカは帆を閉めた。
◇◇◇
帰路の街道を進みながら、ライカは時々振り返った。
幌馬車が十台、縦に並んで続いている。この十台では、拠点に残った者たち全員を運びきれていない。動けない兵がまだいる。散った仲間たちが残っている。ゼノリス様に伝えなければならない。それだけが、今ライカの頭にあった。引く馬が振動を抑えるように慎重に足を運んでいた。幌の隙間から、救護員の術式の光が青白く漏れていた。走行中も止まらなかった。
光が揺れていれば、術式は続いている。
四台目の幌馬車から、低く掠れた声がした。ガルムさんだった。何を言ったのか聞き取れなかった。救護員が答えている。それだけだった。
前方の街道に、旗が見えた。魔王国の紋章だった。騎馬が数騎、施療省の幌馬車を数十台連れてこちらへ向かってくる。ゼノリス様が出してくださった救援だった。来てくれた、とライカは思った。それだけで、少し息ができた。
ライカは馬を止めた。先頭の騎士に向かって手を上げた。施療省の救護員が幌馬車を降り、走ってきた。
新しい術式の光が各幌馬車に増えた。光の色が青白から、わずかに白へ変わった。
ライカは幌の外から耳を立てた。
一台目の幌馬車から、息の音が聞こえた。浅かったが、あった。
三台目は静かだった。術式の光が最も多く揺れていた。
四台目から、低いうなり声。ガルムさんだった。
救援部隊の指揮官が、ライカの馬の傍に並んだ。ライカは声を落として言った。
「中継拠点に、まだ残っている。負傷者と、動けない者。……それと、収容できなかった者たちも」
指揮官が頷いた。
「承知しました。このまま向かいます」
ライカは頷き返した。それ以上は言わなかった。
ライカは前を向き、手綱を握り直した。
「進む」
隊列が動いた。幌馬車が揺れないように、歩みは変えなかった。
◇◇◇
ゼノリスは城門前広場に出ていた。
エルネスが帰還してから、三度、ここへ来た。三度とも、街道の方角に何も見えないまま、執務室へ引き返した。二度目に戻ったとき、セレナが何か言いかけて、やめていたのは知っている。
空は晴れていた。城下の石畳が、西日を照り返している。城門の外側、街道の方角に目を向けると、遠くの民が行き交う姿が見える。荷を担いだ者、子を連れた者、小走りで路地を抜ける者。誰もまだ、何も知らない。
音が届いた。
複数の蹄の音だった。それに混じって、車輪が石畳を転がる低い響きがあった。普通の荷車とは違う、ゆっくりした重さだった。
ゼノリスは城門の外に目を向けた。
旗が見えた。魔王国の紋章が、街道の向こうから近づいてくる。先頭に騎馬が数騎、その後ろに幌馬車が続いていた。幌の中で、術式の光が揺れていた。
ライカが先頭にいた。
馬を降り、ゼノリスの手前で止まった。一瞬だけ何か言いかけ、口を閉じた。
ライカはそのまま頭を下げた。深く、長く。
幌馬車が、城門を通った。
一台目が通るとき、ゼノリスは幌の入口に近づいた。
カイロがいた。
荷台に横たわっている。顔が、ゼノリスの方を向いていた。意識はある。目が、ゼノリスを見ていた。何も言わなかった。ゼノリスも何も言わなかった。カイロの視線が、一瞬だけ逸れ、また戻ってきた。それだけだった。
二台目が通った。
セラが身体を起こそうとしていた。肘で荷台を押し、上体を持ち上げようとして、救護員に止められていた。
「いいから!」
セラが言った。声が掠れていた。止められても、もう一度起き上がろうとした。
「セラさん!」
救護員が押さえた。セラの肘が、荷台に落ちた。顔を横に向けて、城門の外を見た。広場に立っているゼノリスが見えたのかどうか、セラの目がわずかに動いた。それから、ゆっくり瞼が下りた。
三台目が通った。
幌の中が、最も光で満ちていた。救護員が三人入っている。術式が複数、重なって光っていた。シルヴァが横になったまま、天井を見ていた。視線が定まっているかどうか、ゼノリスには分からなかった。ノアが隣に横たわっていた。唇が動いていた。声にはなっていない。
ガルムを乗せた幌馬車が通った。ガルムは目を開けていた。空を見ていた。何かを言おうとして、止まった。もう一度息を吸った。
広場の石畳に、幌馬車が止まった。
ゼノリスはガルムの幌馬車に近づいた。
ガルムが、ゼノリスを見た。大きな手が、荷台の縁をわずかに握った。
「……ゼノリス様」
それだけだった。
ゼノリスは口を開かなかった。喉の奥に、何かが詰まっていた。
セレナが施療省の責任者に指示を飛ばす声が、聞こえた。治療室の準備を確認する声。搬送の順番を決める声。術式の継続を頼む声。何度も、何度も、重ねていた。一度だけ、声の語尾が揺れた。最後の一音だけ、かすかに。それからまた、声は整った。
広場に、幌馬車と担架。兵と術式の光が満ちた。
ゼノリスは立っていた。
動かなかった。
◇◇◇
扉の向こうから、術式の光が漏れていた。
施療院の廊下の壁に、青白い光が滲んでいる。五つの扉、それぞれの向こうに一人ずついる。ゼノリスは壁を背に立ち、その光を見ていた。
術式の光が揺れている間は、治療は続いている。
そう思って、広場からここまで歩いてきた。足が、ここで止まった。
拳が、いつの間にか固まっていた。
廊下の冷えた空気が、頬に当たった。遠征を許可したのは自分だ。送り出したのは、自分だ。
喉の奥に何かが詰まっていた。声にならなかった。
足音がした。
「ゼノ様」
セレナが廊下の角から来た。手に書類を持っている。治療の優先順序と、術式継続の交代表だった。
「各室、安定しています。カイロさんとノアさん、それとセラさんは眠っています。シルヴァさんは意識がありますが、術式への反応がまだ薄い。ガルムさんは、さきほど目を開けました」
「……そうですか」
セレナが一歩、ゼノリスの隣に立った。扉の方を、ゼノリスと並んで見た。
「ゼノ様」
それだけだった。
セレナは続けなかった。ただ、傍にいてくれた。
ゼノリスは扉を見た。光が揺れていた。
「……すまない」
声が出た。声にするつもりはなかったが、出てしまった。
ゼノリスは扉に向かって、わずかに頭を下げた。扉の向こうで、誰かが眠っている。その者たちに向かって、頭を下げていた。
「私の判断が、甘かった」
セレナは何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。
廊下に、二人分の気配だけが残った。
◇◇◇
聖都ルメナの高台に、白い光が満ちていた。
大聖堂の正面広場に、民が集まっていた。旗が揺れ、声が重なり、石畳の上を音が転がっていく。アリアスは高台の中央に立っていた。純白の聖鎧が、午後の陽を受けて光っている。眼下の群れを見下ろしながら、口を開いた。
「魔王軍の拠点を、潰した」
前列の声が止まった。後ろからまだ聞こえていた声が、波紋のように広場の縁まで静まった。
「奴らは逃げた。傷ついた仲間を引きずって、城へ撤退した。正義の前に立てば、悪はそういう顔を見せる」
声が湧いた。拳が上がった。アリアスはそれを見た。見ながら、声を落とした。
「だが、聞け」
広場が静まった。
「奴らはまだ諦めていない。また民を盾にする。また嘘をつく。また自分たちが正しいと言うだろう」
アリアスは広場を見渡した。一人ひとりの顔を、順に、確かめるように。
「――全ては世界に光を取り戻すためだ」
歓声が湧いた。
「女神様は私を選ばれた」
歓声が、もう一段、上がった。
「それだけが、真実だ」
歓声が、広場を埋めた。アリアスはそれを受け取った。受け取りながら、その目には何もなかった。喜びも、怒りも、確信も。ただ口の端が、わずかに動いた。
◇◇◇
施療院の廊下に、夜が来た。
術式の光は、まだ続いていた。交代した救護員が各室に入り、光の色がわずかに変わった。廊下は静かなままだった。
ゼノリスは、まだそこにいた。
セレナが一度、椅子を持ってきた。けれどゼノリスは座らなかった。セレナは何も言わず、椅子を壁際に置いた。それだけだった。
五つの扉。光が揺れている。
――治療は続いている。
自責は消えなかった。それでも、ゼノリスは次のことを考え始めていた。何が起きたのか。なぜ起きたのか。次に、何をするべきか。
答えはまだなかった。
だが――まだ終わりではない。
そう思った瞬間、喉の奥の何かが、少しだけ解けた。解けても、なくなりはしない。それでいい。それでも、立っていられる。
ゼノリスは壁を離れた。
扉が一つ、開いた。救護員が出てきた。ゼノリスを見て、頭を下げた。
「カイロさんが、少し話せると」
ゼノリスは顔を上げた。扉に向かって、歩き出した。




