第175話:「圧倒的敗北」
叫び声が、空に溶けた。
次の瞬間、音が消えた。
風ではなかった。息が止まったのでも、耳が塞がれたのでもない。世界から、音が剥がれた。兵たちの立てる靴音が届かなくなった。革具の鳴る気配が断たれた。拠点内の何もかもが動いているのに、それらが発するはずの音が、どこかに吸い込まれていった。
光が、来た。
上から。真っ直ぐに。
天の高みから地へ向かって、光の柱が落ちてくる。
質量があるように見えた。どうしてそう見えるのか、シルヴァには分からなかった。術式を読もうとしたが、読めなかった。
落ちた。
音はなかった。ただ、地面が動いた。建物の石が軋み、拠点の壁面に亀裂の走る音が遅れて届いた。シルヴァは両足で踏ん張った。揺れているのではない。地面の下から、何かが静かに引き抜かれていく。世界の床そのものが、薄くなっていく感触だった。
術式を組もうとした。
指先に魔力を集める。
……集まらなかった。集めた瞬間に、消えた。ただ、なくなっていた。もう一度。……なくなった。
もう一度。
もう一度――。
構造を組む前に、魔力が失われている。シルヴァは杖の上に手のひらを当て、最後にもう一度試みた。
……指先が、空振りした。
「シルヴァ!」
正面からセラの声がした。セラが片膝をついていた。立っているのに、なぜ膝を折っているのかが一瞬分からなかった。立とうとして、立てていなかった。上体を起こそうとする力が、足元から抜けていくのを、セラ自身が信じられない顔で見ていた。
【神域の身体】が、使えない。
力を込める以前の何かが、機能を止めていた。身体の中から使えるはずの何かが、根元から引き抜かれている。力を出す前の段階が、消えていた。セラが拳を石畳に押し当て、また立ち上がろうとした。……立てた。だが足が、普段の半分も動かない。
右の方角で、鈍い音がした。
ガルムが盾を地面に着いていた。巨体が、片膝をついて盾を支えにしていた。盾を構えていた腕が、力を失ったように垂れ下がっている。衝撃が、盾を素通りした。ガルムの【不動の盾】が展開しなかった。盾だけが、主の腕から独立して重くなった。
ガルムの唇が、動いた。
何を言ったのか、わからなかった。
音がした。ノアが地図筒を落とした音だった。ノアが地面に転がった地図筒を見ていた。拾おうとしない。拾い方を考えようとしている顔だったが、その計算が出てこない顔だった。口の中で何かを繰り返している。数か、座標か、名前か。繰り返しているが、次の言葉が続かない。言葉が途切れた。
シルヴァは杖を握ったまま、立っていた。
何も組めなかった。
私は今、何もできない。
それが分かった。分かったことが、重かった。
その静けさの中で、空気が動いた。
中継拠点から、遠く離れた場所で、何かが息をひそめていた。シルヴァは杖を握り直した。術式で捉えようとしたが、捉えられなかった。術式が組めない。だが、感覚は残っていた。シルヴァの目が、遠方に灯る光を捉えた。
整然と並んだ、訓練された光だった。
多い。
――待ち伏せだ。
シルヴァが声を上げる前に、光が来た。
◇◇◇
術式が、石壁を砕いた。
一本だけではなかった。続けて二本、三本と飛んでくる。石畳が割れ、壁面に亀裂が走った。カイロは即座に声を出した。
「散れ! 石壁から離れろ!」
拠点の外、遠い丘陵の上に、無数の光点が並んでいた。教会連合圏の魔術兵だった。整然と展開した一団から、術式の光が、間隔を空けて、系統立てて飛んでくる。訓練を積んだ部隊の動きだった。狙いを変えながら、拠点の内部を順番に潰していく。
こちらは何もできない。
魔力が消えている。【万能の影】が、組む前に消えていく。ガルムの権能も届かない。セラが走れても、普段の半分の速さしか出ない。シルヴァは杖を持ったまま立ち尽くしている。
「北壁に集まれ! 動ける者は動けない者を引け!」
声が届いた。動いた者がいた。石壁に手をついたまま立ち上がれない兵を、隣の兵が脇を抱えた。その兵も、足がおぼつかない。引きずるように、北壁へ向かった。
術式が、また来た。
今度は内側に落ちた。石が弾け、粉塵が広がった。煙の中で一人が倒れた。カイロは駆け寄り、膝をついた。脈を確認した。
――なかった。
立ち上がり、次の兵に移った。感情は動かなかった。動かせなかった。脈がない、立つ、次。それだけだった。
「ガルム、北壁だ!」
ガルムが盾を引きずっていた。体の力だけで盾を持ち、術式の飛んでくる方角へ向き直した。壁になろうとしていた。人の身体だけで、何かを守ろうとしていた。
「セラ、そっちの兵を!」
セラが向いた。足が半分しか動かない。それでも、倒れていた兵の腕を掴んで引きずっていた。拳が石畳を擦っても、手を放さなかった。
シルヴァが立ったまま、動かなかった。杖を握っている。目が、術式の飛んでくる方を向いていた。何かを組もうとして、消えて、また組もうとしている。その繰り返しが、杖を握る手の微かな震えに出ていた。
「シルヴァ、下がれ!」
シルヴァが気づいたように一歩下がった。それだけだった。
東の石壁が崩れた。壁の二段分が崩落した。土埃が広がり、視界が白くなった。誰かの声が聞こえた。姿が見えなかった。煙の中へ走った。
ノアがいた。壁の破片の間に膝をついていた。意識はある。両手で石畳に何かを書こうとして、次の文字が続かない。計算が出てこない顔だった。
「ノア、立て!」
ノアが力なく立ち上がった。カイロは肩を貸し、北壁へ引いた。
判断だけが出続けた。生きている者の位置。術式の来る方向。次に崩れそうな壁面。動ける者と動けない者の数と組み合わせ。指示を出す順番。
それだけが、残っていた。
もう。
――もう、どうにもならない。
そう思ったまま、次の兵を探した。
――ライカやエルネスが兵を率いて出ていて、よかった。
声には出なかった。出す必要がなかった。ただ、そう思った。思った瞬間、カイロは唇を噛んだ。血の味がした。それでも、また次の兵を探した。
◇◇◇
遠方で、新たな光が走った。先ほどの光の柱とは違う、もっと小さく、もっと速い光だった。
一本ではなかった。間を置いて、二本目が来た。三本目は角度が違った。光の柱は、一度きりで消えていた。その代わりに、拠点を取り巻く外側から、複数の術式の光が、内部へ向かって次々と飛び込んでいた。
ライカは手綱を握ったまま、動かなかった。
誰かが拠点を攻めている。
先行部隊の馬が、どれも前脚を浮かせていた。手綱を握る兵の手が白く強張る。さっき暴れた馬たちが、収まらないまま次の異変を嗅ぎ取っていた。鼻息が荒い。首の毛が逆立っている。獣の本能が、人より早く何かを拒んでいた。
「エルネス」
「分かっています」
エルネスが馬を寄せてきた。指先に術式の光をわずかに灯して、すぐに散らした。また組もうとして、また散った。三度目も同じだった。
「ダメです。拠点の方角から、強いノイズが来ています。術式が組めない」
ライカは耳を立てた。
獣人族の耳が、遠方の音を探った。術式の着弾音。石の崩れる音。誰かの声。距離がありすぎて、何を叫んでいるかは分からない。それでも――声がする。誰かがまだ生きている。誰かがまだ、叫んでいる。
次の一撃が落ちた。石の崩れる音の後、叫び声が複数重なった。それから、止まった。
街道の先、低い丘の向こうに、術式の光が断続的に飛ぶのが見えた。前列の馬が街道を外れようとした。本能で動いていた。兵が手綱を引いて止めた。
走れば、どれだけかかるか。
馬の速度で、現在地から拠点まで。途中の道の状態。計算した。間に合わない。今から走っても、拠点に着く頃には終わっている。
拳が、手綱を握ったまま、固くなった。
戻りたかった。
足元を踏み直すだけで、馬は引き返す。号令一つで部隊はついてくる。百人以上が、ライカの声を待っている。
そう思った瞬間、また術式の光が飛んだ。拠点の方角で、外側から内部へ向かう光が一筋、また着弾した。轟音が、一拍遅れて届いた。石が崩れる音が続いた。誰かの声が止まった。
獣人族の耳は、遠方の声が止まった瞬間を、聞き分けた。
戻っても、加勢できないかもしれない。
術式が使えない状態なら、拠点の中では技能も通じないかもしれない。百人を引き連れて戻っても、何もできないまま被害が増えるだけかもしれない。それより先にすることがある。ゼノリス様は知らない。まだ何も知らない。今この瞬間も何も知らないまま、帰りを待っている。
ライカは手綱を放した。
「部隊を二つに分ける」
声を出した。隊列が止まった。百人以上の兵と馬が、街道に静止した。誰も声を出さなかった。馬だけが、足元を踏み直す音を立てた。
「エルネス、足の速い者だけ連れて魔王城へ急げ。今すぐ、最速で。私は残りで拠点へ引き返す」
「了解です」
エルネスの返答は短かった。迷わなかった。
「足の速い騎兵、私に続け。街道を外れるな」
エルネスが呼んだ。十数騎が動いた。足の速い精鋭の馬が向きを変えた。エルネスを先頭に並び直した。乱れはない。動きにも無駄がなかった。
ライカは残った大半を見た。
残った兵たちが、ライカを向いていた。拠点の方角で術式の光が走るたびに、馬がわずかに後退したが、誰も逃げなかった。あの場所へ引き返すと、誰もが分かっていた。それでも待っていた。
「ライカ!」
動き出す前に、エルネスが馬を一歩だけ戻した。振り返った。目が合った。
「必ず」
エルフの目が、ライカを見ていた。一秒、それだけだった。ライカは頷いた。言葉は出なかった。
エルネスが走った。十数騎の馬が、街道を蹴って魔王城の方角へ向かった。蹄の音が重なり、遠ざかった。エルネスが鞍の上で通信魔道具を取り出した。走りながら起動した。刻印に魔力を流す指先が、一度光った。
「ゼノリス様……! 急いでください!」
声が、街道の空へ放たれた。
ライカは振り返らなかった。残った大半の部隊に向き直した。手綱を取った。前を向いた。
「行くぞ」
馬が走り出した。蹄の音が、街道の石畳を叩いた。隊列が動き、風が流れた。拠点の方角で、また術式の光が走った。一本、また一本。着弾のたびに、轟音が遅れて届いた。
まだ、終わっていなかった。




