第174話:「供犠の簒奪発動」
引っかかりは、消えなかった。
夜明け前の遠征拠点に、兵たちの動きがある。荷を括り直す音、革具が擦れる音、小声で確認を交わす声。整然として、乱れがない。誰も気づいていない。
気づいているのは、シルヴァだけだった。
空がまだ暗い。
拠点の端で、シルヴァは何度目かの索敵術式を展開した。普段なら均一な応答が返ってくる。それが昨夜から、わずかに引っかかっていた。気のせいかもしれない、と何度も自分に言い聞かせた。
術式を畳み、展開し直す。構造を変えて、再度走らせる。同じだった。流れが、止まっていた。近づいてくる何かではない。遠方で、何かが積まれていく感覚だった。器に満ちていく水のように、ゆっくりと、しかし確実に。
振り返った。
カイロが三歩後ろにいた。いつからそこにいたのか分からなかった。短剣の柄に手をかけたまま、周囲に目を配っていた。目が合った。
「どうした?」
カイロが短く言った。
「異常があります」
シルヴァは術式の出力を手のひらに展開し、薄い光の膜が広がった。カイロがそれを見た。何も言わずに、踵を返した。
数分も経たずに、五人が揃った。
セラが腕を組んだまま術式を覗き込んだ。ガルムは二歩後ろで腕を下ろし、前を見ていた。ノアが地図筒を脇に抱えたまま、シルヴァの隣に立った。
「正確に言うと」
シルヴァは術式の光を指先でなぞった。
「流れが積まれています。遠方の一点に、魔力が集まっていく。術式としての形は、まだない。ですが……これは、意図的なものです」
「発動前か」
カイロが言った。
「おそらく。……でも、断言はできません」
シルヴァは自分の指先を見た。術式の光を撫でているはずの指が、ほんのわずかに震えていた。それを誰にも気づかれないように、もう一度光に重ねた。
「……でも」
声が出た。
「……できる可能性はある、と私は思います」
言い切ってから、息が浅くなったのが分かった。誰も動かなかった。沈黙が落ちた。
「部隊を分ける」
カイロが冷静に言った。
「半数を先に出す。ライカとエルネスに率いさせ、俺たちは残る」
「同意します」
ノアが即座に言った。地図筒の蓋を外しながら続ける。
「先行部隊が拠点を離れれば、仮に何かあっても損耗を半分に抑えられる。帰路は当初のルートで問題ない。先行なら三日で魔王城に着きます」
「嬢ちゃんたちを先に帰すんじゃな」
ガルムが低く言った。咎めではなく、確認だった。
「それが最善です」
シルヴァが答えた。ガルムは一度瞼を閉じ、開いた。それだけで頷きに替えた。
「私は残る!」
セラが迷いのない声で言った。
「当然でしょ。私たちは仲間なんだから」
誰も反論しなかった。
◇◇◇
ライカを呼んだのはカイロだった。
拠点の入口近く、他の兵から少し離れた場所だった。ライカが駆けてきた。獣人族らしい素早い足運びで、止まると同時に姿勢を正した。耳が立っていた。
「部隊を率いて、魔王城へ向かってください」
カイロが言った。
「今すぐですか?」
「今すぐ。エルネスも一緒だ。帰路は当初のルートで」
ライカは一瞬だけ、カイロの後ろにいる四人を見た。シルヴァが術式を展開したまま空に目を向けていた。セラが腕を組んで立っていた。ガルムが盾に手を置いていた。ノアが地図を広げたまま動かなかった。
「……残るんですか」
「何かあった場合の対処です。問題なければ、あなたたちの後を追います」
ライカは答えなかった。三秒ほど、カイロを見た。
「分かりました!」
言い切った。それ以上は聞かなかった。
踵を返し、走った。エルネスの名を呼ぶ声が、拠点に響いた。
兵たちが動き始めた。荷を担ぎ、隊列を組み、門へ向かう。半数が、静かに拠点を出ていく。ライカが先頭に立ち、エルネスが後ろに続いた。エルネスが一度だけ振り返った。シルヴァの方を見た。シルヴァは術式を見たまま、動かなかった。
門が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
残った部隊が静かに散開した。拠点の出入口を塞ぐように、間隔を空けて位置についた。
シルヴァは術式を走らせ続けた。積まれていく感覚は、止まらなかった。
◇◇◇
夜明けの丘に、風が吹いていた。
ベネディクトは丘の縁に立ち、眼下を見下ろしていた。
広大な術式陣だった。地面に刻まれた魔力の線が、幾重にも重なり合い、何百もの人影を閉じ込めていた。松明が点々と立てられ、橙の光が揺れている。
人の声がした。
泣いている者がいた。名前を呼ぶ声がした。呼ばれた者が答えられない声がした。子どもの声があった。それを抱き寄せようとして、抱き寄せられない大人の声があった。
ベネディクトはそれを聞いた。
頭の中に数字があった。現在の収容数。術式の発動に必要な数との差。残り時間。移送の遅延リスク。処理しながら聞いた。声が数に変わっていく。泣き声が密度になる。呼び合う声が充填率になる。子どもの声は、損耗予備の項目に置き換わった。
問題なかった。数は揃っていた。
「予定より早いな」
隣に立った側近が言った。
「移送の一部が前倒しになりました。グランフェル王国からの輸送が――」
「把握しています」
ベネディクトは術式陣から目を離さなかった。眼下の光の群れが、夜明けの空気の中で揺れている。収容された者たちの息が、白く立ち上っては消えた。
足音がした。
石を踏む音が近づき、止まった。
「準備はできているか」
アリアスの声だった。
ベネディクトは振り返らなかった。
「はい」
「今すぐ始めろ」
「魔術兵の位置固定が完了次第、始めますよ」
沈黙が来た。アリアスが丘の縁まで歩いてきた。純白の聖鎧が、夜明け前の薄明かりを受けて鈍く光った。金髪が風に揺れた。
眼下を見た。
「……随分、集めたな」
「必要数です」
「そうか」
アリアスの声に感慨はなかった。確認しただけだった。眼下の人影を見ながら、すでに次のことを考えているような目だった。
側近が近づき、耳元で短く囁いた。
「位置固定、完了です」
ベネディクトが言った。
アリアスが術式陣の縁へ一歩進んだ。右腕を上げ、開いた掌を眼下へ向けた。白い光が、指先から滲み始めた。
「女神の意志だ」
アリアスが言った。低い声だった。民衆の前で使う声ではなく、自分に言い聞かせるような声だった。
「世界に光を取り戻すための、必要な代価だ」
術式陣が震えた。
光の線が一斉に輝いた。人の声が変わった。引き剥がれていく音だった。低く、連続して、何百もの喉から同時に漏れ出していた。
魂が、昇っていった。
白い柱が天へ伸びた。伸びながら膨らみ、空の高みで渦を巻いた。夜明け前の暗い空に、光の渦が広がった。ベネディクトは空を見上げた。渦が収束していく。一点に凝縮されていく、膨大な量の、人の命だった。
収束が完了した。
光が空で止まった。一瞬だけ、静かだった。
それから、降りてきた。
天から、光の円柱が落ちた。ただの光ではなく、光の形をした何かだった。音がなかった。風も止まった。ただ、光の円柱が、遠方の一点へ向かって、まっすぐに落ちていった。
「ここまでは、予定通りです」
ベネディクトが呟いた。
眼下の術式陣は、もう光っていなかった。
◇◇◇
術式が、震えた。
シルヴァは手のひらの上に展開した感知の網が、細かく痙攣するのを見た。波紋ではない。外から何かが押し込まれてくる種類の揺れだった。遠方から、まっすぐに。
術式の構造を読み替えようとした。
読めなかった。
術式の『形』がなかった。魔術として成立する前の何かだった。世界の理に刻んだ文字が、消えていくような――概念そのものが、削られていく感覚だった。
周囲の魔力が動いた。
いや、逃げた。空気に満ちていた魔力の粒が、一斉に散った。まるでそこに居続けることを拒むように。シルヴァの術式の光が、明滅した。
「シルヴァ!」
セラの声がした。
シルヴァは答えなかった。術式を畳み、展開し直した。同じだった。魔力が薄い。薄いのではなく、食われている。何かが、この空間の魔力の土台を、根元から齧り取っている。
「……来ています」
声が出た。自分の声だと、一瞬分からなかった。
「何が」
カイロが言った。
「概念の消滅です。術式として読める形ではない。……世界の理に、直接干渉しています」
シルヴァは術式を手放した。
展開しても意味がなかった。
読める構造がない。
対処できる形がない。
ガルムが前に出た。無言だった。盾を構え、五人と残留部隊の間に体を入れた。その背中が、壁になった。
「部隊を下がらせろ」
カイロが残留部隊の指揮官に向かって言った。声を抑えたまま、しかし迷いのない言葉だった。
「拠点の奥、石壁に背をつけろ。今すぐ」
指揮官が一瞬だけカイロを見て、すぐに動いた。兵たちが静かに後退していく。足音が、拠点の奥へ遠ざかる。
五人だけが、前に残った。
ノアが地図を畳んだ。地図筒を脇に挟み、前を向いた。計算する顔ではなかった。覚悟を決めた顔だった。
セラが右手を握った。拳を作り、ほぐし、また握った。
シルヴァは空を見た。
天の高みで、何かが凝縮されていた。光が、一点に向かって落ちてくる。音がなかった。風も消えた。ただ、上から、まっすぐに。
シルヴァは杖を握る手の力を抜いた。握っていても、意味がなかった。
「来る……!」
シルヴァの声が、夜明けの空に割れた。
◇◇◇
馬が嘶いた。
ライカは手綱を引いた。馬の首が跳ね、前脚が宙を掻いた。隣の兵の馬も同じだった。二頭、三頭――先行部隊の馬が、ほぼ同時に乱れた。
ライカの背筋が、勝手に冷えた。
馬は人より先に察知する。戦場で何度も見てきた。
「止まれ!」
ライカが言った。
隊列が止まった。街道に、四百人以上の兵と馬が、静止した。誰も声を出さなかった。
エルネスが馬を寄せてきた。
「ライカ」
低い声だった。エルフ族らしい静かな声が、いつもより硬かった。
「おかしい。術式に干渉が入っています。周辺の魔力にノイズが……」
言葉が止まった。
「魔力が……」
ライカはエルネスを見た。エルネスの指先に、術式の薄い光が残っていた。光が、揺れていた。だが、何かに術式の光が食われていた。
ライカは前を向いた。魔王城への道が、まっすぐに伸びている。
振り返った。
空が、光っていた。
遠征拠点のある方角の空に、光の円柱が落ちていた。音はなかった。遠すぎて、何も聞こえなかった。ただ、天から地へ、光の柱が、まっすぐに刺さっていた。
兵たちが振り返った。声が出なかった。馬が前脚を踏み直した。誰も動かなかった。
ライカは光の柱を見た。
遠征拠点の、団長たちがいる場所だった。
その言葉が、頭の中を通った。通り過ぎなかった。留まったまま、動かなかった。
ライカの後ろで、誰かが何か言った。何を言ったのか、ライカには分からなかった。聞こえているはずなのに、頭まで届かなかった。
ライカは光の柱を見続けた。
ただ、見ていることしか、できなかった。




