第173話:「魔王軍の進撃」
門扉が外れていた。
蝶番ごと引き千切られた鉄の扉が、石畳の上に転がっている。端が地面に食い込み、砕けた石が周囲に散っている。
外したのは、セラの拳だった。
握っていた指をほぐしながら、セラはその残骸の脇を通り過ぎた。革手袋に、塗料の屑と鉄錆がこびりついている。足元の砂利が、靴底に踏まれて鈍い音を立てた。
制圧から、まだ半刻も経っていない。
通りの奥に、騎士団の部下たちが動いている。負傷兵を壁際に運ぶ者、敵の武器を回収する者、倒れた柵を起こして通路を確保する者。声は少ない。怒鳴り合いもない。それぞれが決めた手順を、黙々とこなしている。
煤の匂いがした。どこかで小火があったのか、建物の壁に黒い染みが残っていた。その下に、割れた水瓶の破片がある。中身はとっくに地面に染み込んで、濡れた土が日差しを照り返している。
「……全員、無事です」
隣に立ったグラドが、短く報告した。規律担当の副団長らしく、感情を一切乗せない声だった。
「負傷者は?」
「軽傷が四名。いずれも戦闘中の裂傷で、施療省の手を借りる必要はありません。……団長の激励による負傷はゼロです。今回は」
最後の一言を、グラドは淡々と付け足した。
セラは眉を寄せた。
「今回は、ってどういう意味?」
「そのままの意味です」
グラドはすでに次の確認へ視線を移していた。セラは何か言いかけて、やめた。通りを見渡した。
敵は散った。組織的な抵抗が崩れたのは、突入から三分もかからなかった。前線の壁を割ったのがセラで、そこからは各自の判断で動いた。指示を出す必要がなかった。それが、誇らしかった。……それだけのものを、皆が持っている、ということだから。
少し離れた場所で、ガルムが守護隊の隊員たちに何か言っていた。声は届かない。手振りだけが見えた。隊員が数人、頷いて駆け出す。その先に、路地の奥へ身を縮めている住民の姿がある。
ガルムが一人の老人の前に立ち、膝を折った。身長二メートル近い巨体が、しゃがんで目線を合わせる。
老人が、驚いた顔で動きを止めた。膝をついた巨漢が怖くないはずがない。それでも、ガルムの分厚い手が老人の肩に軽く触れると、こわばっていた肩が、少しだけ落ちた。
セラはそれを横目で見て、視線を戻した。
「ノアは?」
「中央の建物で地図を広げています」
グラドが答えた。
「中央の建物で――」
言い終わる前に、その声がした。
「セラさん」
細い声だった。通りの端、崩れかけた軒下からノアが歩いてきた。地図筒を脇に抱え、指先にインクの染みがある。走ってきたわけでもないのに、顎に汗が光っていた。
「報告です。制圧は想定の範囲内で完了。物資の押収は守護隊と連携して進んでいます」
ノアが言った。セラは拳の汚れを軽装の裾で拭いながら、顎をしゃくった。
「うちの損耗は」
「グラドさんから聞きました。四名、軽傷のみ」
ノアが続けた。
「敵の指揮系統は崩れています。再集結に二日はかかる。帰路は当初のルートで問題ないと、僕は見ています」
ノアが地図筒の蓋を外し、中から一枚を取り出した。広げて、セラに向ける。
「このまま帰路へ。遠征拠点まで、三日です」
三日。
セラは地図の上に視線を走らせた。帰路。拠点。ゼノ様のいる魔王城まで、そこからさらに二日。
もう少しで帰れる。
カイロが、地図の端に目を落としたまま口を開いた。いつからそこにいたのか、気配がなかった。聖都領の方角を指先でなぞり、短く置くように言った。
「……監視が入っていると思う。この規模の遠征なら、もう位置は掴まれている」
ノアが地図から目を上げた。一拍置いてから、頷いた。
「僕も同じ見立てです。教会連合圏の諜報網は、前回の遠征より動きが速くなっている。この街の防衛配置も、どこかで情報が漏れていた可能性がある」
セラはカイロの横顔を見た。感情の読めない顔だった。いつも通りといえばいつも通りだが、視線の置き方が少し違う。地図の経路ではなく、その外側を見ている。
「対処は」
カイロが短く問うた。
「今すぐ取れる手は限られます」
ノアが答えた。
「ただし、監視されているだけなら、想定の範囲内です。帰路は当初のルートで問題ないと、僕は見ています」
「……そうだな」
カイロが静かに言った。
それ以上は言わなかった。地図から目を離し、通りの奥に視線を移した。その先に、住民の避難を誘導しているガルムの背中がある。カイロはそれを一度見て、すぐに視線を戻した。
セラはカイロとノアの短いやり取りを横で聞いていた。内容は分かる。敵の諜報が動いている。こちらの位置は、すでに知られているかもしれない。
◇◇◇
夜になった。
野営地の篝火が三か所、等間隔に焚かれている。セラは火の近くに座り、革手袋の留め具を外していた。指の付け根に擦れた跡がある。たいした傷ではなかった。明日には消える。
向かいにシルヴァが立っていた。篝火の光を背に、少し離れた夜空を見ている。地図も杖も持っていない。指先が外套の縁を軽く押さえたまま、動かなかった。瞬きの間隔が、いつもより長い。
「……シルヴァ」
セラが声をかけた。
シルヴァが視線を戻した。間があった。一拍よりも、少し長い。
「何見てんの?」
「夜空です」
「そのままじゃん」
シルヴァは否定しなかった。ただ、少し首を傾けた。
「……そうですね」
それだけだった。いつものシルヴァなら『計算していました』か『観測です』と言う。『ただ見ていた』は、シルヴァの言葉ではない。セラは手袋を膝の上に置いた。
「何かあった?」
「いいえ」
「笑ってごまかす感じでもないし……」
「笑っていませんよ」
「それが怪しいんだって」
シルヴァが一瞬、目を細めた。
「……あなたは、よく気がつきますね」
「褒めてもなんも出ないけど」
セラが言うと、シルヴァは小さく息をついた。目が、もう一度だけ夜空に向いた。だけど、すぐ戻る。戻ってきた目に、何かが残っていた。何と名付けるべきか分からない、小さな引っかかりのようなもの。
「気のせいかもしれません……」
シルヴァはそう言って、視線を地面に落とした。
「やっぱり、気にしないでください」
セラは黙った。
気のせいかもしれない、とシルヴァが言う時。計算の外にある何かを、シルヴァが感じている時だ。それが何を意味するのか、セラには計算できない。だが、切り捨てていい種類の言葉ではないと、体が知っていた。
少し離れた場所で、ガルムが若い兵に外套を渡していた。外套を押しつけ、兵の肩を一度だけ大きな手で叩いてから、背を向けて歩き去る。兵が戸惑った顔で外套を見て、それから、ガルムの背中を見た。その目が、少しだけ和らいだ。
カイロは火から離れた暗がりにいた。帳面に何かを書いている。篝火の光が届かない場所で、小さな燭台を一つだけ使っていた。
セラは篝火の炎を見た。
ゼノ様に、報告できる。それだけは、はっきりしていた。順調です、全員無事です、三日で着きます、と言える。
それは本当のことで、今この瞬間に嘘はない。
だから、胸の中に小さく残った引っかかりが何なのか、まだ分からないままでよかった。
◇◇◇
執務室の窓から、夜の城下が見えた。
灯りが点々と並んでいる。街路を歩く人影が、橙色の光の輪の中を横切っては消える。ゼノリスは窓に背を向け、机の前に座った。卓上に広げた地図の脇に、シルヴァが定刻ごとに送ってくる遠映の術式の記録が重なっている。
最新の記録は、二時間前のものだ。
「順調ですね」
セレナが言った。机の端に地図の隅を押さえるように指を添えながら、静かに言った。耳を傾けるような、少し前に傾いた姿勢だった。
「ええ」
ゼノリスは答えた。
「カイロたちの動きに遅れはありません。制圧も、計画の範囲内で進んでいます」
セレナがわずかに頷いた。その動きに、安堵が滲んでいた。言葉にしない安堵だったが、ゼノリスには分かった。
順調だ。報告は良報ばかりだった。制圧完了、損耗少、帰路に就く。文字にすれば、それだけのことだ。だが、ゼノリスは机の上の記録を見ながら、頭の中で動きを追っていた。カイロがどの経路を取ったか。セラがどう前線を割ったか。シルヴァが術式をどう展開したか。至極の理は使っていない。記録と、信頼だけで追っている。
追えるのは、ゼノリスが彼らを知っているからだ。
「帰路は三日ですね」
セレナが言った。地図の上で指先が動く。遠征拠点の位置を、静かになぞった。
「そうです」
ゼノリスは答えながら、セレナの指が止まった場所を見た。拠点の位置。そこから魔王城まで、さらに二日。合わせて五日後には、戻ってくる。
ゼノリスは息を吐いた。長く、深く。胸の奥に張っていた一本の糸が、その息と一緒に解けていく感触があった。気を張っていたのだ、と、解けてはじめて知る。
全員、戻る。
それは事実として、もう動かせない場所にあった。
◇◇◇
遠映の術式の映像が、次の定刻に切り替わった。
石造りの遠征拠点が映る。篝火の明かりの下、部隊が続々と到着している。先行した隊が門を開け、馬と兵が流れ込んでいく。整然とした動きだった。疲弊はあるが、乱れはない。
「到着しましたね」
セレナが息をついた。ゼノリスは映像を見たまま、頷いた。
映像の中で、カイロが拠点の入口近くに立っていた。帳面を手に、入ってくる兵の数を確認している。隣にノアがいて、地図を広げたまま何か言っている。カイロが一度頷いた。それだけで、二人の確認は終わった。
セラが大きな声で部下に何か指示を出していた。音は届かない。口の動きだけが見えた。部下が三方向に散っていく。拠点内に人の流れができていく。
ガルムが門の脇に立ち、入ってくる兵一人ひとりに目を向けていた。怪我をしている者には必ず視線を止める。隣の兵に何か言い、施療の担当者が呼ばれた。
全員が、それぞれの場所で動いている。
ゼノリスは映像の中を見渡した。五人の姿を、順に確認した。全員いる。全員動いている。その事実が、胸の中に静かに積まれた。
――帰ってくる。
映像の端で、シルヴァが立ち止まっていた。
拠点の壁際、他の者から少し離れた場所に立っている。カイロとノアのやり取りからも、セラの指示からも外れた位置に、一人で立っていた。顔は映像の外縁に近く、表情は見えない。背中だけが見えた。
ゼノリスは映像の中のシルヴァに目を留めた。
何かを確認しているのか。何かを感知しているのか。シルヴァが立ち止まる時は、たいてい理由がある。術式の異常を察知した時、魔力の流れが変わった時、構造として何かを読み始めた時。
シルヴァが、カイロの方を向いた。
口が動いた。音はない。映像越しに声は届かない。だが、ゼノリスはその口の形を目で追った。
『何か……』
そこまで読んで、映像が途切れた。
定刻の切断だった。遠映の術式は定期的に一度切れ、次の送信を待つ。分かっていることだった。分かっていながら、ゼノリスは映像の消えた空間を見た。机の上に、何も映らない。
「……ゼノ様?」
セレナの声がした。
ゼノリスは卓上に視線を戻した。地図がある。遠映の術式の記録がある。シルヴァが口を動かした。何かが、という言葉の続き。
「いいえ」
ゼノリスは静かに言った。
「何でもありません」
次の映像が来るまで、あと一時間。
ゼノリスは机の上の記録に目を落とした。順調だ。全員無事だ。帰路はもうすぐだ。それは変わらない。
変わらない、はずだ。
まぶたの裏に、焼きついている。
映像が切れる寸前のシルヴァ。壁際に一人で立ち、空の一点を見上げたまま動かなかった、あの背中が。シルヴァの口が動いた。『何か……』――その先を、ゼノリスは読めなかった。
次の映像まで、あと一時間。
窓の外で、夜風が動いた。城下の灯りが、わずかに揺れて、戻った。
ゼノリスは机の縁を指で押さえた。
ここから、遠征拠点まで二日。
遠い。
はじめて、そう思った。




