第172話:「冷酷な算段」
「罪人と貧民を使えばいい」
アリアスが口を開いた。
ベネディクトの言葉が途切れた間に、割り込んだ。地図の外縁を指したベネディクトの手が、まだそこにある。アリアスはその手を見ずに言った。
「居なくなっても誰も騒がない。そういう連中を集めれば、数は揃う」
「全然、足りません」
アリアスが言い終わるのを待ってから、返した。間も置かなかった。感情を持ち込んだ反論ではなく、計算の結果を読み上げるのと同じ声だった。
アリアスの指が、地図の縁で一瞬止まった。
「……なぜだ。一国の罪人と貧民だけでも、それなりの数になる」
「数万人規模が必要なのです。一国の罪人と貧民で数万を確保するのは、現実的ではない」
ベネディクトが法衣の裾を翻し、卓の正面に回った。地図に向き直り、指を置く。今度は外縁ではなく、グランフェル王国の位置だった。
「グランフェル王国から、強制徴収します。徴収は段階的に。罪人と貧民から順に行います」
ベネディクトの指が、地図の上で動いた。
「一度に動かせば察知される。時間差をつけ、名目を変え、移送経路を分散させる」
名目……アリアスは頭の中で繰り返した。
「名目は何を使う」
「徴用です。国境防衛の強化に際して、一時的な労働力を集める。領主に対しては、教会の認可証を添付します。拒否した場合、認可の更新を保留する旨を――」
「圧力か」
「制度の運用です」
ベネディクトの声は変わらなかった。アリアスが『圧力』と呼んだものを、一語で訂正した。
アリアスは地図を見た。グランフェル王国の位置に、ベネディクトの指がある。西の穀倉地帯。農業国家。人口が多い。それだけは知っていた。細部は知らない。どの街から何人、どの経路で、どの順番で――そういうことはベネディクトが全部持っている。
アリアスが持っていないことも、ベネディクトは知っている。
「移送した後はどうする」
「聖都領の近郊に集めます。複数の集積地点を設け、それぞれ独立して管理する。情報が漏れないよう、担当する聖騎士団の部隊も分けます」
「術の発動まで、どう保つ」
「労働力として運用します。実際に働かせながら保持する。徴用の名目と実態を一致させる期間を設けることで、各領主への言い訳も成立します」
働かせながら……その言葉の先は、問わなかった。
ベネディクトの指が、地図の上をゆっくりと動いた。グランフェル王国の王都グランデルの位置で止まった。
「グランデルだけで、相当数が見込めます。施療と識字への依存が深い。教会の名目であれば、領主は拒みにくいでしょう」
アリアスは地図を見た。グランデルの位置を、目でなぞった。ベネディクトが指を置いた場所を見た。
指の腹が、地図の表面で止まった。
動かそうとした。動かなかった。
反論はなかった。確かめる気も起きなかった。この男が『できる』と言っている。今この室内で、それが答えだった――そう、自分に言い聞かせる声が、頭の中で薄かった。
「準備に要する時間は」
「移送の手配と聖騎士団の展開を合わせると、最短で二か月かかります」
ベネディクトが地図から指を離した。
二か月。
アリアスは卓の端を、指の腹で押さえた。地図の紙がかすかに音を立てた。次の帰順の報告は月内、とベネディクトは言っていた。帰順が連鎖する前に準備が整うか。整わないかもしれない。だが他に手がない。
「……進めろ」
「承知しました」
ベネディクトが答えた。
地図から目を離し、アリアスを見た。何かを確認するわけでも、同意を求めるわけでもない目だった。次の計算へ移る前の、一瞬の確認だった。
◇◇◇
扉が開き、三人が入ってきた。
リュシアが先頭だった。銀髪を聖布で押さえ、両手を前で重ねている。その後ろにゼフィル、ブラム。三人とも、室内に入ってから一言も発しなかった。
アリアスは卓を背に立ち、三人を見た。
「計画が決まった」
声を作った。民衆の前で使う声ではなく、命令を下す時の声だった。
「グランフェル王国から人員を徴収する。お前たちにはその工程の一部を担ってもらう。詳細はベネディクトから追って伝える」
リュシアが、小さく息を吸った。
「……分かりました」
柔らかい声だった。抵抗も疑問もない声だった。ただ、目が動かなかった。アリアスを見たまま、まばたきをしなかった。
「可哀想に」
唇がわずかに動いた。声にはならなかった。誰に向けて言ったのか、アリアス自身には聞こえなかった。
ゼフィルが鼻の頭に手を当てた。
「で、俺たちが実際に動くのか?」
軽い口調だった。嫌がっている様子はない。自分の役割の範囲を確認している声だった。
「動く」
「どの段階で」
「追って伝える」
「……そうか」
ゼフィルが手を下ろした。それ以上は聞かなかった。深緑色の髪が、燭台の光を受けて揺れた。
ブラムは何も言わなかった。
アリアスが視線を向けると、一度だけ頷いた。巨体が揺れる程度の動きだった。それで終わりだった。
「女神の意志だ。世界に光を取り戻すための」
アリアスが言った。
三人は何も言わなかった。ブラムは顎を引いたまま。ゼフィルは視線を壁に向けていた。リュシアだけが、まだアリアスを見ていた。
リュシアの目が、何かを言いそうだった。言わなかった。
その沈黙を、アリアスは同意として受け取った。受け取った、と決めた。
◇◇◇
扉を三度、短く叩く音がした。
「入れ」
ベネディクトが言った。
側近が一人、すべり込むように入室した。細い体躯で、書類も持っていない。ベネディクトの傍まで歩み寄り、耳元に口を近づけた。
ベネディクトが顎を動かした。側近が一礼し、足音を残さずに出ていった。
扉が閉まった。
「一つ、好機があります」
ベネディクトが言った。
アリアスはベネディクトを見た。
「教会連合圏の諜報網から入った情報です。魔王軍が遠征に動く。その帰路に使う中継拠点の場所を、掴みました。時期は、おおよそ二か月後です」
アリアスは卓の上を見た。広げられたままの地図。その上を、視線が走った。
遠征拠点はどこだ。
目が止まった。
「その拠点の周囲に、魔術兵を秘密裏に配置します」
ベネディクトが続けた。
「供犠の術の発動タイミングと連動させる。拠点に魔王軍が集まった時点で、同時に動かします」
アリアスは卓の上を見たまま、動かなかった。
遠征を終えた後。帰還して、休んでいる時――動きが止まるその瞬間に、術を発動する。拠点ごと、消す。
「確実か」
「諜報の精度は高い。ただし、魔王軍の動向が変わった場合は仕切り直しになります」
「そうか」
「変わらなければ、これ以上の好機はありません」
ベネディクトの声に抑揚はなかった。好機と言いながら、喜びも興奮もない。算段を説明しているだけの声だった。
「供犠の簒奪を発動します。そうすれば拠点ごと、消えます」
感情がなかった。消えます、という言葉が、天気の話と同じ重さで室内に落ちた。
アリアスは顎を上げた。
「魔王軍が遠征拠点で休息を取る時、一気に殲滅する」
ベネディクトは答えなかった。
地図に目を戻していた。白髪を後ろに流した顔が、卓上の光の中で動かない。その目が何を見ているのか、アリアスには分からなかった。勝算を計算しているのか。次の手を組んでいるのか。それとも、この計画が成功した後のことを、すでに考えているのか。
分からなかった。
アリアスは自分の掌を見た。
一瞬だけ、何かが戻ってきた。あの夜の感触。指の間から砂のように零れた、力の形。
掌を、握った。爪が肉に食い込む感触があった。それでも、零れた何かは戻らなかった。
目を地図へ戻した。
ベネディクトはまだ地図を見ていた。室内の燭台が、二人の影を壁に長く伸ばしていた。アリアスの影が、ベネディクトの影より、わずかに細かった。




