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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第171話:「勇者の焦燥」

 石の壁が、四方を塞いでいた。


 勇者本府の奥、昼でも外光が届かない執務室。アリアスは長卓の端に立ったまま、書類の束に目を落としていた。文字の上を視線が滑る。同じ行を、三度。それでも目を逸らせなかった。


 三日前の報告と、今朝の報告。中身が同じだった。


 どこそこの領主が魔王国への帰順を申し出た。どこそこの農村で国民が国境へ向かい始めた。どこそこの街道で荷馬車の数が減った――減った理由は、荷を魔王国側へ運ぶ業者が増えたからだ。


 アリアスは書類を卓に置いた。力を入れたつもりはなかった。それでも、紙の端が一枚、卓の縁から落ちた。


 拾わない。


 部屋を横切った。壁際まで歩いて、止まった。窓がない。光がない。視線をぶつける先がない。石の壁が近い。指先で一度、壁を叩いた。乾いた音が狭い空間に跳ね返って消えた。


「……なぜだ」


 声にするつもりはなかった。口から出ていた。


「なぜ止まらない」


 魔王軍は滅んだ。俺が終わらせた。この手で、この剣で。世界が称えたのは俺だ。民が信じているのは俺の英雄譚だ。それなのに――


 言葉が、続かなかった。


 アリアスは壁から離れ、卓に戻った。地図がある。会議の夜と同じ地図が、卓の上に広げられたままだった。赤い印と、黒い印。ベネディクトが書き込んだ印が、手の届く場所にある。


 黒い印は、落ちた場所だ。ヴァルガン鉱山公国の位置に、黒が重なっている。


 赤い印が三つ。アリアスはそれを見た。


 意味は、まだ分からないままだった。


◇◇◇


 扉が開いた音は、ほとんどしなかった。


 赤い法衣が、薄暗い室内に滑り込んでくる。ベネディクト枢機卿だった。白髪を整えた顔に、燭台の光が斜めから当たっている。室内の中央で止まり、アリアスを見た。椅子を引こうとしない。立ったまま、組んだ手を前で重ねている。


「報告は届いていますか」


「あぁ、届いた」


 アリアスは地図から目を離さずに答えた。


「今朝だけで、三か所だ」


「四か所です」


 ベネディクトが静かに訂正した。


「本日の昼過ぎ、マリナス海運王国の南港都市が魔王国側の交渉窓口に使者を送っています。帰順の打診、と見て間違いないでしょう」


 アリアスの顎が動いた。何かを言おうとして、止まった。


「マリナスまで……」


「海路が通じています。情報の速度は、我々の予測より常に速い」


 ベネディクトの声には抑揚がなかった。報告を読み上げているのと変わらない声だった。それがアリアスには腹立たしかった。同じ状況にいながら、なぜそこまで冷静でいられる。


「対策を出せ」


「出しています。ただし、効果が出るまでに時間がかかります。情報の遮断は、情報がすでに広まってから動かしても」


「分かっている!」


 声が壁に当たった。ベネディクトは動じなかった。瞬きもしなかった。ただアリアスを見ていた。その視線を、アリアスは知っている。駒として今どれほど使えるかを、奥で計っている目だ。


 扉を叩く音がした。三度、短く。


「入れ」


 アリアスではなく、ベネディクトが答えた。


 文官が一人、入ってきた。細身の男で、手に薄い紙を一枚持っている。ベネディクトへ一礼し、紙を差し出した。ベネディクトが受け取り、広げた。目が、紙の上を一度だけ走った。


「……ご報告申し上げます」


 文官が口を開いた。アリアスの方を向いて言った。


「グランフェル王国西部の農業地帯、三か所のうち一か所――ベルクの村が、本日付けで魔王国への帰順を宣言しました。村単位での宣言は初めてのことで、周辺への波及が懸念されます」


 アリアスは、地図を見た。


 グランフェル王国の西部。その位置に、赤い印が一つある。


 ベネディクトが予測していた、三か所のうちの一つだった。


「……下がっていい」


 ベネディクトが文官に告げた。文官が一礼し、足音を残して出ていった。


 室内が、また二人になった。


 アリアスは地図の赤い印を見ていた。三つ並んでいる。その一つが、今日、現実になった。


「これが」


 口から言葉が出た。独り言のような声だった。


「お前が予測していた場所か」


 ベネディクトは答えなかった。


 アリアスの胸の中で、何かが音もなく軋んだ。怒りではなかった。怒りより先に来るもの――傲慢で塗り固めていた壁の、どこかに亀裂が入る感触だった。


 ベネディクトが口を開いた。


「少し、確認したいことがあります」


 そう言い置いて、扉へ向かった。背を向けたまま、低く続ける。


「すぐ戻ります」


 扉が、静かに閉まった。


◇◇◇


 一人になった。


 アリアスは卓の前に立ったまま、地図を見ていた。赤い印の残り二つが、まだそこにある。ベルクの村が落ちたなら、次はどこだ。ベネディクトには分かっているのだろう。あの男は何もかも分かった上で、何も言わない。


 アリアスは地図から目を離した。


 卓に手をついた。石の床に燭台の炎が揺れ、自分の影が伸びた。


 頭の中に、ふいに映像が浮かんだ。


 『聖なる地』


 魔力が希薄な、開けた野。


 あの日、俺は一人で乗り込んだ。『たかだか数人の者たちが、この私に挑むというのか』――あの男はそう言った。挑戦を余興として受けた。それがどういうことか、気づかなかった。


 気づかなかった、というより――気づく気がなかった。策を弄する必要があるとも思わなかった。俺たちには、あの術があった。数千人の命と引き換えに発動する、禁忌の術が。


 魔王は、術が体に回り始めた瞬間も、鼻で笑っていた。


 俺を倒すのに、同胞の命を捧げるのか――と。


 そこまで思い出して、アリアスは映像を打ち切った。


 次の映像が来そうだったからだ。あの夜の映像が。


 前線都市カレドの大通り。篝火の光。石畳の上に立つ男の、静かな瞳。聖王の剣を構えた俺が、力の略奪を発動しようとして――掌の中で、何かが零れた。指の間から砂のように、形を成す前に消えた。


 あの感触が、今でも手に残っている。


 アリアスは掌を見た。何もない。当然、何もない。あの夜から時が経った。だが手の中の空白は、ときどきこうして戻ってくる。


 走った。


 暗がりへ、振り返らずに――それが、あの夜の俺だ。


 聖王の剣を取り落としそうになった指。膝が地面に着く一歩手前で踏ん張った脚。あの男に背を向けた瞬間の、首の後ろの冷たさ。全部、覚えている。


 俺は世界の救世主だ。


 頭の中で、声を作った。それは、いつも演説の前に自分に言い聞かせる言葉だった。


 だが――あの瞳が、声の上に重なってくる。


 扉が開いた。


 ベネディクトが戻ってきた。扉を閉める音が落ちた。赤い法衣が、室内の明かりの中で止まる。アリアスは地図に目を戻した。赤い印の残り二つが、まだそこにある。アリアスが掌から目を離していることに、気づいているはずだったが、何も言わなかった。


◇◇◇


 ベネディクトは口を開かなかった。椅子を引かず、立ったままアリアスを見ている。沈黙が長くなるほど、こちらの口が動く――それを知っている男の立ち方だった。


「……もう通常の手は尽きた」


 アリアスが口を開いた。


 卓の上の地図を見たまま、低い声で言った。


「検問を強化した。情報を流した。聖騎士団を各国に送った。それで止まるなら、とっくに止まっている」


 ベネディクトは答えなかった。


「次の帰順が出るまで、何日だ? お前には分かっているんだろうが」


「三か所の残り二か所は」


 ベネディクトが静かに言った。


「早ければ十日。遅くとも、月内には」


 十日。


 アリアスは卓の端を指先でなぞった。地図の縁に沿って、指が動く。止まった。


 言葉が喉の奥で引っかかる。出してしまえば、戻せない。それは分かっていた。分かっていながら、指が地図の縁から離れた。


「供犠の簒奪くぎのさんだつを……使う」


「あれしかない」


 ベネディクトの目が、細くなった。表情は動かない。驚きもない。ただ眼差しの奥で、何かが静かに動いた。弾いていた可能性を、計算の盤面に乗せ直す動きだった。


「……規模は?」


 ベネディクトが言った。確認でも問いでもなかった。続きを促す声だった。


「あの魔王軍を止めるのに、数千人の供犠では足りない」


 アリアスは地図を見た。


「あの男が率いる軍そのものを、根本から無力化する。奴らの力の根拠を、世界ごと消す。そのためには――」


「数万人が必要です」


 ベネディクトが言った。


 感情はなかった。数字を読み上げるのと同じ声だった。


「数千では、干渉できる階層が足りません。一国の法則を奪う程度で止まる。世界の根源、概念の層にまで届かせるには――数万人分の供犠が必要になります」


――数万人。


 アリアスの指が、一瞬だけ止まった。


「女神は、俺を選ばれた」


 声が変わった。


「世界に光を取り戻すために。誰よりも近くで、女神の意志を聞く者として」


 長年、民衆の前で使ってきた声だった。狭い執務室で、聞き手は一人。それでもアリアスの口は、その声を選んでいた。


「何万の命が必要なら、捧げる。それが世界の救済だ。それを為せるのは、俺しかいない」


 石の壁が、声を跳ね返した。


 ベネディクトは何も言わなかった。


 アリアスを見ていた。


「問題は確保できるか、です」


 ベネディクトがようやく口を開いた。


「数万人の生贄を集める。それを魔王軍に気取られる前に完了させる。準備には時間がかかります。場所の選定、人員の移送、術の発動タイミング――」


 ベネディクトが卓に歩み寄った。


 地図の前に立つ。白髪を後ろに流した顔が、燭台の光を受けて影を落とす。組んでいた手が解かれた。


 指先が、地図の上に伸びた。


 赤い印を、一つ。爪の先で押さえた。次の一つも、押さえた。あの夜、アリアスにはその意味が見えなかった。今も、詳細は見えない。だがベネディクトの指がどこへ向かうかは分かった。


 指が、地図の外縁で止まった。


「では、動かしましょう」


 静かな声だった。


 アリアスは口を開いた。


「何を動かす――」


「数万人の生贄をどう確保するか、ですが――」


 ベネディクトの指は、まだ地図の外縁を指したままだった。教会連合圏の、内側を。



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