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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第170話:「世界規模の勢力へ」

 地図が、変わっていた。


 ゼノリスは卓上の地図を見下ろした。ヴァルガン鉱山公国の三領地分、新しい色が広がっている。昨日、製図師が塗り終えた色だ。インクの艶が、まだ乾ききっていない。


 指を伸ばす。


 塗り替えられた境界線の上で、指を止めた。昨日まで、ここは別の領主の名で呼ばれていた。今日から、この線の内側で起きるすべてが、自分の名前にかかってくる。


 執務室には、すでに五人が揃っていた。カイロが机の端に立ち、ノアが書類を膝の上で広げている。シルヴァは窓際に、セラは椅子の背に手を置いて立っていた。ガルムは壁際に、盾を脇に立てかけている。


 ノアが書類を一度めくった。


「ゼノ様」


 声は静かだった。


「三領地の制圧から、半月ほどが経ちました。各省庁からの報告が出揃いましたので、まとめて報告します」


 ゼノリスは頷いた。


「まず資源です。ヴァルガン鉱山公国、鉱都カルディア周辺の鉱石産出量――現状の試算で、魔王国の工務省が一年間に必要とする鉄鉱石の量の、約二年分に相当します。備蓄を加えると、三年近い」


 数字が、地図の上に重なった。


「評価院の登録者数は、制圧前の時点で三領地合計で四千名ほどと見ていましたが、すでに八千を超えています」


 八千……。


 ゼノリスは一度、その数字を繰り返した。


「領土については――」


 ノアが地図の端を指先で示した。


「元の魔王領と比較して、約三倍の面積になります」


 三倍。


 数字は正確だった。ノアの報告は常にそうだ。だが今日は、数字の一つひとつが、聞いた瞬間にゼノリスの胸の底へ沈んでいった。


 ノアが書類を見たまま、一拍、止まった。


 それから顔を上げた。


「ゼノ様。これで我々は、一小国レベルから――世界規模の勢力となりました」


 部屋が静かになった。


 ノアが軽く眉を寄せた。報告を終えた顔ではなく、自分の言葉を聞いた顔だった。


「……自分で言って、言葉が大きすぎる気がしてきました」


 苦笑混じりに、小さく言った。


◇◇◇


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 ノアの苦笑が、空気の中に静かに広がっていた。


 最初に声を出したのはセラだった。


 椅子の背に置いていた手を離し、口を開きかけて――止まった。


「……あれ」


 自分の手を見下ろした。


「いつもみたいな元気が出ない」


 セラが手を軽く握って、また開いた。


「……どうしてだろ」


 答えを求めているようには聞こえなかった。自分に向けた問いだった。


 壁際から、低い声が来た。


「重みを感じる、ということじゃ」


 ガルムだった。盾の脇に立ったまま、腕を組んでいる。


「ガルムは、平気なの?」


 セラがガルムを見た。


 ガルムは息を一つ吐いた。


「平気では……ない」


 セラがガルムを見ていた。返す言葉を探している顔だったが、見つけられないまま、口を閉じた。


 部屋に、しばらく言葉がなかった。


 ゼノリスは地図に視線を戻した。その視界の端で――シルヴァが書類の上の数字を、人差し指で一度だけなぞった。それだけだった。声はなかった。


 もう一度視線を動かしたとき――カイロが、わずかに顎を引いた。地図の縁を見ている。普段、彼の視線はこの距離で止まらない。


 扉の外で、足音がした。


 軽く、迷いのない歩みだった。


◇◇◇


 セレナだった。


 白い布で覆ったものを両手で抱えている。部屋の入り口で一度立ち止まり、わずかに耳を動かした。音で、この部屋の空気を測っている。


「……皆さん、今日はいつもと違いますね」


 セラが振り返った。


「セレナさん、分かるの?」


「音が、少し低いです」


 セレナは部屋の中へ入ってきた。机に近づき、抱えていた布をそっと下ろして広げた。


 深紅と黒。重厚な生地が、地図の端に並んで広がった。


 王衣だった。


「今日、お召しになるかと思いまして」


 セラが目を丸くした。


「セレナさん、なんで分かったの?」


「いいえ」


 セレナは首を静かに横に振った。


「ただ、ゼノ様がそろそろ国民の前に立たれる頃かと、思っただけです」


 ノアが書類を閉じる音がした。


「……盤面より、よほど正確だ」


 低く、ほとんど独り言のように言った。


 ゼノリスは視線を動かした。ガルムが盾の柄を一度、静かに握り直した。もう一度動かす。


「ありがとうございます」


 ゼノリスはセレナに言った。


 誰も命じていない。彼女が、自分で読んで、用意した。それが何より静かで、何より重かった。


◇◇◇


「各々、持ち場へ。広場の準備をお願いします」


 ゼノリスが顔を上げると、五人の動きが始まった。


 最初に動いたのはノアだった。書類を束ね、ガルムへ目で合図を送る。ガルムが頷き、扉へ向かった。盾の底が床を一度、低く鳴らした。


 セラが立ち上がった。


「……任せてください!」


 さっきは出なかった言葉が、今は出た。


 シルヴァが書類を抱えて続く。扉へ向かう途中、ゼノリスの傍で短く足を止めた。


「映像を国内へ映し出す、遠映の術式。準備を始めます」


 それだけ言って、出ていった。


 最後にカイロが扉を閉めた。


 扉が閉じた音が、しばらく耳に残った。部屋に、二人だけが残った。


 ゼノリスは机の上の外套に手を置いた。生地は、ずしりと重い。布の重さではなかった。


「セレナさん」


「はい」


「隣にいてください」


「はい!」


 二度目の返事が、最初のものと違う温度で返ってきた。


 ゼノリスは窓の方へ目を向けた。城門前広場が見えた。石畳の上に、まだ人影はまばらだった。風がひとつ通り、誰かの上着の裾を揺らした。それから、また止まった。


 ゼノリスは外套を取り上げた。布の重みではない、と分かっていながら、それでも腕に乗せた。


 これは始まりに過ぎない。


 その言葉は、まだ口にしない。今ここで言い切ってしまえば、この重さの意味が軽くなる。


 窓の外で、石畳に最初の足音が一つ落ちた。次の足音が、すぐに重なった。


 ゼノリスは外套を肩へ通した。



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