第170話:「世界規模の勢力へ」
地図が、変わっていた。
ゼノリスは卓上の地図を見下ろした。ヴァルガン鉱山公国の三領地分、新しい色が広がっている。昨日、製図師が塗り終えた色だ。インクの艶が、まだ乾ききっていない。
指を伸ばす。
塗り替えられた境界線の上で、指を止めた。昨日まで、ここは別の領主の名で呼ばれていた。今日から、この線の内側で起きるすべてが、自分の名前にかかってくる。
執務室には、すでに五人が揃っていた。カイロが机の端に立ち、ノアが書類を膝の上で広げている。シルヴァは窓際に、セラは椅子の背に手を置いて立っていた。ガルムは壁際に、盾を脇に立てかけている。
ノアが書類を一度めくった。
「ゼノ様」
声は静かだった。
「三領地の制圧から、半月ほどが経ちました。各省庁からの報告が出揃いましたので、まとめて報告します」
ゼノリスは頷いた。
「まず資源です。ヴァルガン鉱山公国、鉱都カルディア周辺の鉱石産出量――現状の試算で、魔王国の工務省が一年間に必要とする鉄鉱石の量の、約二年分に相当します。備蓄を加えると、三年近い」
数字が、地図の上に重なった。
「評価院の登録者数は、制圧前の時点で三領地合計で四千名ほどと見ていましたが、すでに八千を超えています」
八千……。
ゼノリスは一度、その数字を繰り返した。
「領土については――」
ノアが地図の端を指先で示した。
「元の魔王領と比較して、約三倍の面積になります」
三倍。
数字は正確だった。ノアの報告は常にそうだ。だが今日は、数字の一つひとつが、聞いた瞬間にゼノリスの胸の底へ沈んでいった。
ノアが書類を見たまま、一拍、止まった。
それから顔を上げた。
「ゼノ様。これで我々は、一小国レベルから――世界規模の勢力となりました」
部屋が静かになった。
ノアが軽く眉を寄せた。報告を終えた顔ではなく、自分の言葉を聞いた顔だった。
「……自分で言って、言葉が大きすぎる気がしてきました」
苦笑混じりに、小さく言った。
◇◇◇
誰も、すぐには口を開かなかった。
ノアの苦笑が、空気の中に静かに広がっていた。
最初に声を出したのはセラだった。
椅子の背に置いていた手を離し、口を開きかけて――止まった。
「……あれ」
自分の手を見下ろした。
「いつもみたいな元気が出ない」
セラが手を軽く握って、また開いた。
「……どうしてだろ」
答えを求めているようには聞こえなかった。自分に向けた問いだった。
壁際から、低い声が来た。
「重みを感じる、ということじゃ」
ガルムだった。盾の脇に立ったまま、腕を組んでいる。
「ガルムは、平気なの?」
セラがガルムを見た。
ガルムは息を一つ吐いた。
「平気では……ない」
セラがガルムを見ていた。返す言葉を探している顔だったが、見つけられないまま、口を閉じた。
部屋に、しばらく言葉がなかった。
ゼノリスは地図に視線を戻した。その視界の端で――シルヴァが書類の上の数字を、人差し指で一度だけなぞった。それだけだった。声はなかった。
もう一度視線を動かしたとき――カイロが、わずかに顎を引いた。地図の縁を見ている。普段、彼の視線はこの距離で止まらない。
扉の外で、足音がした。
軽く、迷いのない歩みだった。
◇◇◇
セレナだった。
白い布で覆ったものを両手で抱えている。部屋の入り口で一度立ち止まり、わずかに耳を動かした。音で、この部屋の空気を測っている。
「……皆さん、今日はいつもと違いますね」
セラが振り返った。
「セレナさん、分かるの?」
「音が、少し低いです」
セレナは部屋の中へ入ってきた。机に近づき、抱えていた布をそっと下ろして広げた。
深紅と黒。重厚な生地が、地図の端に並んで広がった。
王衣だった。
「今日、お召しになるかと思いまして」
セラが目を丸くした。
「セレナさん、なんで分かったの?」
「いいえ」
セレナは首を静かに横に振った。
「ただ、ゼノ様がそろそろ国民の前に立たれる頃かと、思っただけです」
ノアが書類を閉じる音がした。
「……盤面より、よほど正確だ」
低く、ほとんど独り言のように言った。
ゼノリスは視線を動かした。ガルムが盾の柄を一度、静かに握り直した。もう一度動かす。
「ありがとうございます」
ゼノリスはセレナに言った。
誰も命じていない。彼女が、自分で読んで、用意した。それが何より静かで、何より重かった。
◇◇◇
「各々、持ち場へ。広場の準備をお願いします」
ゼノリスが顔を上げると、五人の動きが始まった。
最初に動いたのはノアだった。書類を束ね、ガルムへ目で合図を送る。ガルムが頷き、扉へ向かった。盾の底が床を一度、低く鳴らした。
セラが立ち上がった。
「……任せてください!」
さっきは出なかった言葉が、今は出た。
シルヴァが書類を抱えて続く。扉へ向かう途中、ゼノリスの傍で短く足を止めた。
「映像を国内へ映し出す、遠映の術式。準備を始めます」
それだけ言って、出ていった。
最後にカイロが扉を閉めた。
扉が閉じた音が、しばらく耳に残った。部屋に、二人だけが残った。
ゼノリスは机の上の外套に手を置いた。生地は、ずしりと重い。布の重さではなかった。
「セレナさん」
「はい」
「隣にいてください」
「はい!」
二度目の返事が、最初のものと違う温度で返ってきた。
ゼノリスは窓の方へ目を向けた。城門前広場が見えた。石畳の上に、まだ人影はまばらだった。風がひとつ通り、誰かの上着の裾を揺らした。それから、また止まった。
ゼノリスは外套を取り上げた。布の重みではない、と分かっていながら、それでも腕に乗せた。
これは始まりに過ぎない。
その言葉は、まだ口にしない。今ここで言い切ってしまえば、この重さの意味が軽くなる。
窓の外で、石畳に最初の足音が一つ落ちた。次の足音が、すぐに重なった。
ゼノリスは外套を肩へ通した。




