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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第169話:「拡大の連鎖」

 鉄の匂いがした。


 焼けた石の上に、朝の風が通っている。ゼノリスは鉱山街の外縁に立ち、広場へと続く石畳の道を見ていた。三領地の制圧から、数日。書類で読んだ報告と、自分の眼で見るものとは、いつも一致しないものだ。


 だから、来た。


 広場の中ほどに、白い天幕が三張り並んでいた。施療省が立てたものだ。布の端が風を受けてわずかに揺れている。天幕の前に、人の列があった。


 老人が一人、列の先頭に立っていた。背が丸く、右手に木の杖を持っている。施療省の職員が何かを問いかけると、老人は口を動かした。声は届かなかった。ただ、その口の動き方で、長い言葉を話しているのが分かった。


 職員が頷いた。紙に何かを書き、老人に向けて見せた。


 老人の体が、わずかに揺れた。


 杖を持っていない方の手が、職員の手を掴んだ。強く、ではなく、ただ包むように。老人の頭が、ゆっくりと下がった。職員が慌てたように両手を差し出し、老人の肩を支えた。


 老人の肩が、一度、震えた。声は、やはり聞こえなかった。


 ゼノリスはそこから動かなかった。


 略奪があると思っていたはずだ。制圧されたということは、次に来るのは兵の暴力だという経験が、この土地の人々の中に刻まれていたはずだった。それが、なかった。代わりに、施療省の白い天幕が来た。名前を問われ、症状を聞かれ、紙に書いてもらえた。それだけのことが、老人の手を動かしていた。


 杖の先が、石畳を一度、叩いた。


◇◇◇


 広場を出て、東側の区画へ向かった。


 鉱山街の東区は、採掘の作業場に近い。石造りの家屋が密集し、道が細い。路地の角を曲がると、評価院の幟が一本、木の柱に括られていた。幟の下に机が一つ。職員が二人、住民と向き合って書類を広げている。


 道の端に、男が立っていた。


 三十代ほどの人族の男だった。腕が太く、手の皮が厚い。採掘の仕事をしている者の手だった。評価院の机を、距離を置いて見ている。近づくでも、立ち去るでもなく、ただ見ていた。


 カイロがゼノリスの一歩後ろで、気配を消したまま立っていた。


 男がゼノリスに気づいた。


 視線が合った。男の目が細くなった。ゼノリスが何者か、分かっているのかいないのか、判断できなかった。ただ、その目が一瞬、机の方へ動いた。それから、またゼノリスへ戻った。


 男が口を開いた。


「……あれは、本当に無料なんですか」


 男の声は小さく、ゼノリスに向けたものかどうかも定かではなかった。


「はい」


 ゼノリスは答えた。


「あそこでは、名前と今の仕事を話していただければ、それだけで登録できます」


 男は何も言わなかった。ゼノリスの言葉を聞いて、机の方をまた見た。職員が書類に何かを書き込んでいる。住民の一人が、うなずきながら職員の言葉を聞いている。


「登録したら、何が変わるんですか」


「仕事の記録が残ります。あなたがここで働いてきた年数と、積み上げてきたものが、正しく記録される」


 男の手が、一度、腿の脇で閉じた。


「……俺は、鑑定石の結果が悪くて、ゴミみたいな仕事しかしてないんですが」


「評価院は、鑑定石で測りません」


 ゼノリスの声は変わらなかった。


「あなたが何をしてきたか。それを記録しています」


 男は答えなかった。しばらく、机を見ていた。


 それから、男の足が動いた。机の方へ。一歩、また一歩。途中で振り返らなかった。


 ゼノリスはその背中を見送った。カイロが後ろで、ごくわずかに息を動かした。


◇◇◇


 東区の路地を抜け、城壁に近い通りへ出た。


 石畳の広い道。荷車の轍が深く刻まれている。鉱石を運ぶための道だ。カイロが横に並んで歩いていた。


「施療省の初日受診者数、想定の二倍を超えていたそうです」


 カイロの声は低く、短かった。


「把握しています」


「追加の医術師の手配は、復興院が動いています。明後日には到着予定です」


 ゼノリスは頷いた。轍の深さを見ながら、どれほどの年数これが刻まれてきたか、少し考えた。制圧前も、この道を荷車が通っていた。それは変わらない。変わったのは、この道を歩く者の足が、少しだけ違う重さになっているかもしれない、ということだった。


 カイロが続けた。


「リュネから面会の申し出が来ています。戻り次第、時間を取ってほしいと」


 ゼノリスは足を止めなかった。


「内容は」


「詳細は直接、とのことです。ただ」


 カイロの声が、わずかに低くなった。


「急ぎの案件だと言っていました」


 ゼノリスは石畳の先を見た。道の終わりに、城壁が見えた。その向こうは、まだ制圧していない土地だった。


◇◇◇


 執務室の扉を、三度ノックする音がした。


「どうぞ」


 カイロが答えた。


 入ってきたのは、細身の人影だった。長い耳が、白金の髪の後ろに伸びている。エルフ族特有の、重心の低い、静かな歩き方だった。外務長官のリュネだった。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 声は落ち着いていた。急いている様子はなかったが、扉を閉めてから振り返るまでの間が、わずかに短かった。


 ゼノリスは机の前に立ったまま、頷いた。


「ゼノリス様が視察に行かれてから、三件の接触がありました」


 リュネは手元の薄い書類を一枚開いた。


「一件目。教会連合圏の南方、マリナス海運王国の境に近い商人組合からの使者です。表向きは貿易条件の確認という名目でしたが、実際の打診は別のところにありました」


 カイロが机の端から目を上げた。


「具体的には」


「魔王国との取引窓口を、正式に開けるかどうか。条約の有無にかかわらず、実務上の接触を持ちたいという意向です」


 ゼノリスは地図に目をやった。南の海沿い。商人の足が、すでに国境を越えて動いていた。


「二件目。西側、グランフェル王国との境に近い農村領主からです。密偵を通じて、条件交渉の意向が伝えられました」


「農村領主が、直接?」


 カイロの問いに、リュネは短く頷いた。


「領主本人ではなく、代理人を立てています。ただ、内容は明確でした。魔王国の統治下に入ることを、検討していただきたいと」


 ゼノリスは地図の上のグランフェル王国の位置を見た。西の穀倉地帯。教会連合圏の内側にある。そこの領主が、代理人を立てて打診を送ってきた。


「三件目です」


 リュネの声が、わずかに変わった。一度、息を整えてから、続けた。


「名を明かさない使者が来ました。国籍も、出身領地も、告げませんでした。ただ、こう言いました。『私たちの国も、解放してほしい』と」


 空気が止まった。カイロの手が、紙の上で止まった。


 リュネは、書類を閉じなかった。閉じる手が、止まっていた。


「使者は泣いていました」


 声は変わらなかった。ただ、リュネが一度、目を伏せた。


「帰り際に、一言残していきました。『鑑定石に縛られずに、子どもが生きられる場所に連れて行ってやりたい』と」


 ゼノリスは何も言わなかった。


 地図の上の点が、三つになっていた。南の港。西の農村。名もない使者が来た方角。三つの点が、一本の線でつながるかどうかは、まだ分からなかった。ただ、点が増えていた。


「リュネ」


 ゼノリスが口を開いた。


「その使者の安全は」


「既に手を打っています。帰路の護衛と、接触の記録の秘匿は確保しました」


「ありがとうございます」


 ゼノリスは地図から目を離さなかった。


「あなたはどう見ますか」


 リュネは一度、地図に目を落とした。それから、ゼノリスを見た。


「連鎖します」


 断言だった。


「一国が動けば、次が動く。今回の三件は、それぞれ別の経路から来ています。示し合わせたものではない。つまり、これは同じ空気が、複数の場所で同時に動いているということです。人の口は、国境を越えます。評価院が動き、施療省が動き、略奪がなかったという話がさらに広まれば――次の打診は、三件では済まないでしょう」


 ゼノリスは地図から目を外さなかった。


 連鎖。リュネが言った言葉が、地図の上に重なった。点が増えていく。命令でも扇動でもなく、見た者が見たままを話し、聞いた者が動き出す。それが今、静かに始まっていた。


 扉を、軽くノックする音がした。


 カイロが眉をわずかに動かした。ゼノリスが短く「どうぞ」と言った。


 扉が開いた。


 セレナだった。資料の束を両手に抱えている。部屋に入りかけて、リュネとカイロを見て、それからゼノリスを見た。


「……失礼しました。資料をお届けに来たのですが、後ほどにいたします」


「いえ、構いません」


 ゼノリスは言った。


「ちょうど、区切りのところです」


 セレナは部屋に入り、机の端に資料を置いた。それから、もう一度、リュネとカイロの顔を見た。執務室に残った空気の重さを、何かで測るように。


「何かあったのですか?」


 穏やかな声だった。問いつめるのではなく、ただ、聞いていた。


「世界が、動き始めました」


 ゼノリスは答えた。


 セレナは少し考え、窓の方を向いた。夕の光が石畳に長く伸びている。空の端が、橙から青へと変わりはじめていた。


「ゼノ様の歩いた跡を、世界が辿ろうとしているのですね」


 セレナの声は静かだった。


 誰も、すぐには答えなかった。


 夕の光が、地図の上に置かれた三つの点を、ひとつずつ、ゆっくりと撫でていった。



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