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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第165話:「第一混成軍の解放戦」

 拳の骨が、朝からずっと重かった。


 国境を越えた辺りから、街道の様子が変わった。魔王国側の道は、難民の往来で轍が増えていた。それでも、石を敷いた部分は残っていたし、橋の欄干は傾いていなかった。誰かが手を入れていた痕跡が、道の端々にあった。


 でも、ヴァルガン鉱山公国側にはそれがない。


 土がむき出しのまま荒れ、車輪の跡が何重にも重なって地面を波打たせている。石畳が剥がれた場所を誰も直していない。難民が踏み、また難民が踏み、逃げ続けた人々の重さだけが蓄積して、道だけが残っている。


 セラは、その轍を踏みながら歩いていた。


 足裏に、ごつごつした感触が返ってくる。靴の中に砂が入り込んでいた。いつから入っていたのか、もう気にしていない。行軍が長くなるほど、そういう細かいことへの感覚が鈍くなっていく。それはたぶん、悪いことではない。


 それよりも、この道を直せなかった連中への怒りが、ずっとくすぶっている。誰も直さなかったのではない。誰も直せなかったのだ。


 隊列の前後を見渡すと、兵たちの口数が減っていた。出発した日には短い言葉が飛び交っていた。装備の確認、近くの仲間への冗談、馬の機嫌を確かめる声。それが今は、足音と荷車の軋みに置き換わっている。疲れているわけではなかった。緊張が凝縮して、言葉が内側に向かっている。


 これが戦いの前の空気だ、とセラは思った。


 前を向いた。先頭のグラドの背中が見えた。魔人族の広い肩が、隊列の一番前でゆっくりと揺れている。グラドは昨日の夜から、ほとんど余分なことを喋っていない。装備点検、休憩のタイミング、斥候の確認――必要なことだけを、必要な分だけ。それがグラドの仕事の仕方だった。


 ノアが言っていた。


『話せる者を前に出してください』


 セラはその言葉を受けたとき、少し眉を寄せた。戦いに行くのに、なぜ先頭が交渉役なのか。でも今は分かる。最初に住民と会う者が、この作戦の最初の顔になる。剣を構えた騎士団長より、落ち着いた声で話せる副団長のグラドの方が適任だ。


 それでいい、とセラは思った。今のグラドの仕事は、扉を開けることだ。


◇◇◇


 村の手前で、グラドが右手を上げた。


 隊列が止まった。セラも足を止め、前を見た。街道の脇に、人の姿があった。老いた男と、その後ろに子どもが二人。子どもたちは老人の背中に隠れるようにして、隊列の方を見ていた。


 グラドが一人で前に出た。


 セラは動かなかった。後ろの騎士団員も動かない。静止した隊列の中で、グラドの足音だけが街道の土を踏んだ。


「魔王国から来た」


 グラドの声は、大きくなかった。怒鳴るでも、宥めるでもなく、ただ事実を告げる声だった。


「害はない。通報する前に、一つだけ聞いてほしい」


 老人は動かなかった。子どもの一人が老人の外套の端を掴んだ。


「教会側の兵か」


 老人が言った。声に力がなかった。疲れているのか、それとも怯えているのか、区別がつかない問いだった。


「違う」


「……では、どこの」


「魔王国だ。魔王様の名のもとに、この街道を進んでいる」


 老人が、少し間を置いた。セラには老人の顔の表情は見えなかった。でも、老人の体の重心が変わったのは分かった。わずかに前に傾いた。警戒から、別の何かへ移ろう動きだった。


「……教会は、来ていないのか」


「来ていない」


「これから、来るのか」


「来させない。それがここへ来た理由だ」


 しばらく、沈黙があった。子どもの一人が、老人の外套の端を引いた。老人がそれを、片手で静かに押さえた。


「……どこまで、行くのだ」


「ハスレムだ」


 老人の口から、小さな息が出た。安堵なのか、驚きなのか、判別はつかなかった。でも何かが緩んだ、ということは分かった。


「そうか。ここをまっすぐ行けば着く」


「分かった。ありがとう」


 グラドは、しばらく住民たちと話をしていた。


 グラドは住民たちに頭を下げ、戻ってきた。セラの隣に並んで、前を向いた。


「住民の話では、ハスレムの城門前に守備隊が出ているそうだ。数は見ていないが、教会の旗が立っているのを確認した者がいます」


「分かった」


 セラは短く答えた。


 老人の横を通るとき、セラは目だけを向けた。老人はまだそこに立っていた。隊列をじっと見ていた。子どもの一人が、老人の手を握っていた。


 老人の目が、セラと合った。老人は何も言わなかった。セラも何も言わなかった。


 ただ、老人の目が『頼む』と言っていた気がした。


 胸の奥が、ぐっと熱くなった。


 セラは前を向いた。


 ハスレムまで、そう遠くない。早く行かなければ、という気持ちが足を速めた。


◇◇◇


 ハスレムの城壁が見えてきたのは、丘を一つ越えた先だった。


 石造りの城壁ではなく、木材と土を積み上げた簡素な囲いだった。それでも高さは人の背丈の倍はある。城門の上に、旗が立っていた。白地に金の十字――教会連合の紋章だった。


 城門前の広場に、人の列が見えた。敵の騎士が十数人、その後ろに外套を羽織った魔術師が数人、左右の建物の影に弓を構えた弓兵。守備隊は、こちらが見えている距離で、すでに展開を終えていた。広場に面した建物の扉はどこも閉まっていた。路地に人影はない。住民はとうに逃げているのだろう。


 セラは隊列の先頭に出た。


 グラドが隣に並んだ。


「弓兵は建物の二階です。左右二か所。魔術師は後衛に下がっているようです」


「魔術兵団は」


「右翼に展開中。隊長の合図を待っています」


 セラは城門前の守備隊を見た。敵の騎士たちが槍の穂先をこちらに向けていた。動く気配はない。先手を打つより、防衛陣形を固める判断をしている。


 待っている。


 セラも、一瞬だけ待った。


 先頭の騎士が声を上げた。


「これ以上進むな! 侵略者に告ぐ、ここはヴァルガン鉱山公国の――」


 矢が来た。


 二階の弓兵が一斉に射った。セラには矢の軌跡が見えた――正確には、空気が変わる感触として届いた。魔力はない。でも、身体がそれを知っている。


 右手を上げた。


 隣の兵二人を横に押しのけ、セラが前に出た。飛んできた矢を、腕を払って弾く。矢が石畳に落ちた。


 その瞬間、右翼から光が広がった。


 味方の魔術兵団が結界を展開した。半透明の壁が隊列を包み、敵の二射目の矢が壁面に弾かれた。敵の弓兵が角度を変えようとした、その前に味方の術式がもう一枚重なった。遮断の結界だ。敵後衛の魔術師たちが詠唱を始めようとしたが、声が出ない。口を開いたまま、何が起きたか理解できずに固まった。その一拍の空白が生まれた。


 セラはその一拍で走った。


 走りながら、老人の目を思い出した。頼む、と言った目だった。三十歩先の城門まで、敵守備隊の騎士たちが槍を構え直す間に、セラはすでに先頭の二人の間合いに入っていた。


 槍が来た。右の騎士と左の騎士が、ほぼ同時に踏み込んできた。


 右の槍を左手で掴んで軌道を逸らし、そのまま体ごとぶつかって右の騎士を押し込む。重さで相手が崩れた瞬間、左の騎士の槍は体を沈めてやり過ごした。立ち上がりながら右の騎士の胸部に肘を打ち込んだ。鎧の上からでも、衝撃は中まで通る。


 騎士が膝をついた。


 後ろで足音が鳴った。味方の騎士団が流れ込んでいた。セラが開けた穴に、後続が一気に入ってくる。先頭の騎士五人が楔のまま敵中央を押し広げ、続く十数人が左右へ割れた。守備隊の陣形が中央から裂けた。


 左翼の騎士団が二階の弓兵の建物へ回り込み、階段口を押さえた。上から射線を失った弓兵が、次第に弓を下ろす。右翼の騎士団は敵の魔術師たちの後方へ回り、退路を断った。詠唱できずに固まっていた魔術師たちが、後ろを振り向いた瞬間、逃げ場がないことに気づいた。


 中央は、セラが進んでいた。


 城門の横に、天幕が立っていた。指揮官の幕だ。外から見えないように壁に寄せてあるが、人の出入りの多さが目印になっていた。


 天幕の入り口から、鎧を着た男が出てきた。胸に教会の紋章を刻んだ、重装の騎士だった。指揮官だと分かった――目が、逃げていなかったから。


「来い!」


 セラは言った。


 男は剣を抜いた。


 剣を打ち合わせた。男の剣技は悪くなかった。重心の置き方が安定していて、無駄な動きがない。だが何度か打ち合ううちに分かった――防御に重きを置いている。攻めに来ていない。


 待っているのか、と思った。退かせようとしている。そういう戦い方だ。

 セラは踏み込んだ。そういう戦い方には、付き合わない。剣のリーチの外に入り込んで、拳を鎧の腹に打ち込んだ。魔力を纏わせた強化でもない。ただの、純粋な打撃だった。


 男が後ろに飛んだ。天幕の布を引きずって、倒れた。


 動かない。


 辺りが静かになった。


 守備隊の騎士たちが、武器を下ろし始めていた。指揮官が倒れた。魔術師の詠唱は封じられたまま。弓兵は射線を失っている。崩れる条件が揃った場所では、人は戦い続けられない。


 グラドの声が響いた。


「武器を置け。抵抗しなければ、傷つけない」


 数秒の間があった。それから、槍が一本、石畳に落ちた。次の槍が落ちた。続いて剣が、弓が、次々と音を立てた。


 制圧が完了した。


◇◇◇


 守備隊の武器が石畳の上で沈黙してから、広場に人の姿はなかった。


 風が広場を二度、吹き抜けた。城壁の影が少しずつ伸びた。


 最初に姿を見せたのは、路地の奥からだった。


 逃げ出せなかった者たちだ――足の悪い老人、幼い子どもを抱えた女、行き場のなかった者たち。路地の奥や建物の中に隠れていたのだろう、戦闘の音が止んでから、少しずつ姿を現した。


 城門前の広場に、ぽつりぽつりと人が集まり始めた。


 セラは広場の中央に立った。騎士たちは後ろに下がらせた。武器は腰に収めたまま。前に出るのは自分一人でいい。


 集まった顔を見た。老人、女、子ども。働き盛りの男の姿はほとんどない。坑道に駆り出されたか、それとも逃げ出したか。着ている服が薄かった。季節に合っていない。


 セラは息を吸った。


「魔王国騎士団長、セラ・アルベインです!」


 声が広場に広がった。


「魔王様の命を受け、この第一混成軍を率いてここへ来ました。目的は一つ! あなた方を解放することです」


 誰も声を出さなかった。


「教会連合の兵たちは制圧しました。あなた方はもう、縛られていない」


 広場が静かだった。


 風が一度、吹いた。城門の上の旗が揺れた。白地に金の十字が、大きく傾いた。


 女の一人が泣き始めた。声を出さずに泣いていた。肩が震えているのが見えた。その隣の老人が、目を閉じた。閉じたまま、動かなかった。


 子どもが一人、母親の服の端を引いた。「もう怖くないの?」と聞こえた。母親は子どもの頭に手を置いたまま、しばらく何も言えなかった。


 セラは、その光景を見ていた。


 胸が、痛かった。


――泣かせた。


 そう思ってから、違うと思い直した。泣かせたのではない、泣けるようになった。それだけのことだ。


 それだけのことで、こんなに胸が苦しいのか、とセラは思った。喉の奥が熱くなっていた。


 グラドが隣に来た。声を落として言った。


「通信魔道具を使い、報告を入れます」


「分かった!」


 グラドが天幕の方へ戻った。


 セラは広場を向いたまま立っていた。住民たちの間で声が少しずつ増えていた。隣の者と何かを確かめ合うような、低い声。それが風に乗って、城門の方へ流れていく。


 天幕の奥から、グラドの声が届いた。


「第一領地、制圧完了。鍛冶街ハスレムの解放を確認」


 通信魔道具の向こうで、短い応答があったのが分かった。誰の声かは聞こえなかった。でも、セラには届いた気がした――この声が、今、魔王城に届いている。


 旗がまた揺れた。教会連合の旗が、風の中で大きく傾いだまま、戻らなかった。


 その下で、セラは拳を握ったまま動かなかった。


 二領地の戦いは、まだ続いている。



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