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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第四部:新生

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第164話:「三方面作戦」

 まだ夜が明けていなかった。それでも、指揮官たちは揃っていた。


 大広間の石床に、地図が広げられている。四隅を文鎮で押さえた羊皮紙の上に、魔王国の国土と、その北に広がるヴァルガン鉱山公国の地形が描かれていた。鉱都カルディア、監督都市ヴァルン、鍛冶街ハスレム――三つの都市を結ぶ街道が、細い線で刻まれている。


 昨日、自分の口から出た言葉が、今ここで形を持ちかけている。


 ゼノリスは地図の端に立ち、揃った顔を見渡した。


 セラが正面に立っている。背筋が伸びていて、両拳を腰の横に下ろしているが、体の重心がわずかに前に傾いていた。落ち着いている、というより、抑えている。その隣にライカ。獣人族の耳が一度、ぴくりと動いた。


 セラの斜め後ろにシルヴァ。腕を胸の前で組み、指先が袖の端に触れている。その隣にエルネス。エルフ族の細い目が地図の上に落ちていて、すでに計算を始めているような静けさだった。


 ノアは地図の脇にいた。筆記具を手に持ったまま、指が一度だけ紙の端を叩く。癖だ。


 石床の冷気が足元から上がってくる。大広間は広く、声が少し響く。


「三方面同時展開の作戦を、確認します」


 ゼノリスは地図に目を落とした。


「第一混成軍。セラが指揮を執ります。騎士団主力に魔術兵団の支援を加えた編成で、鍛冶街ハスレムを目標とします」


 セラが顎を引いた。


「第二混成軍。シルヴァが指揮を執ります。魔術兵団主力に騎士団の支援を加えた編成で、監督都市ヴァルンへ向かいます」


 シルヴァは頷かなかった。ただ、指先が袖の端から離れた。


「第三混成軍。騎士団のライカと魔術兵団のエルネスが共同で指揮を執ります。混成均等の編成で、鉱都カルディアを目標とします」


 ゼノリスは一度地図に指を落とした。


「ハスレムは鍛冶街で、住民に武装者が多い。初動で押し切れる正面突破が効きます。ヴァルンは監督都市で、教会の役人が残っている。魔術兵団の面制圧で動線を封じます。カルディアは中核ですが、ここだけは入ってみないと読めない。だから均等編成です」


 ライカが口を開いた。


「カルディアは中核ですね。三領地のうち、一番抵抗が読みにくいってことですか?」


「そうです」


 ゼノリスはライカの言葉を受けた。


「カルディアには、こちらに好意的な住民が多い。ただ、教会の監察官が引き上げた後、地元の自警組織が動いている。どちらに傾くか、入ってみるまで分からない部分があります。だから判断力のある二人に任せます」


 ライカの耳がもう一度動いた。今度は前向きに、だ。


「任せてください!」


 エルネスが隣で静かに言った。


「術式の運用は私が取り仕切ります。現地の状況に応じて結界の張り方を変えます」


 シルヴァがエルネスに一度だけ視線を向けた。何も言わなかったが、それで十分だと分かる間だった。


「同時展開の意味は、昨日ノアが説明した通りです」


 ゼノリスはノアに目を向けた。


「補足があれば」


「一点だけ」


 ノアが地図の上に筆記具の先を向けた。カルディアからヴァルンへ伸びる街道の分岐点だった。


「三軍が同時に動き始めた後、最初の半日が勝負です。教会側がどこか一点に兵を集中させる前に、三か所全てで住民との接触を済ませてください。武力制圧ではなく、解放として受け取られるかどうかは、最初の接触で決まります」


 静かな声だった。しかし、大広間の石床に染みていくような重さがあった。


「分かった」


 セラが言った。


「最初に会う住民に、ちゃんと話す。戦うより先に」


「そうです」


 ノアが頷いた。


「セラさんが先頭に立つと、住民は武力だと受け取る可能性があります。騎士団の中から、話せる者を前に出してください」


 セラが少し眉を寄せた。不満ではなく、考えている顔だった。


「……グラドに頼む」


「適任です」


 ノアの返答は短かった。


◇◇◇


 作戦の確認が終わり、ゼノリスが一度言葉を切った。


 大広間の空気が、少し変わった。確認から、別の何かへ。


「技術開発局から報告があります」


 ゼノリスが言うと同時に、大広間の扉が外から叩かれた。一度だけ、短く。合図のような打ち方だった。


 扉が開き、入ってきたのはヴァイスだった。ドワーフ族の、肩幅の広い体格。技術開発局長の役職を示す徽章が、外套の胸元についている。小脇に図面の束を抱え、後ろに二人の職員が続いた。職員の一人が手押しの台車を引いていて、その上に木箱が二つ載っていた。


 足音が石床に落ちる。ヴァイスの靴底は薄く、職員の台車の車輪は静かだった。運んでいるものの重さを感じさせない歩き方だった。


「ヴァイス」


「はい」


 ヴァイスは台車の前に立ち、木箱の蓋を外した。


 一つ目の箱の中に、金属と革で組まれた装置が入っていた。掌に収まる大きさで、表面に細かい術式の刻印がある。


「通信魔道具です。三軍それぞれに配備します。距離は国土北西端からカルディアまでの往復に対応済みです」


 ヴァイスは余計な説明を加えなかった。機能だけを言った。


「応答の遅延は」


 シルヴァが口を開いた。


「術式の伝達で、最大で一呼吸分です」


「分かりました」


 シルヴァは頷いた。エルネスが手を伸ばし、装置を持ち上げた。指先で刻印の一部をなぞり、術式の構造を確かめている。


「動きます」


 エルネスが短く言った。


 ヴァイスが二つ目の箱を開けた。今度は図面が入っていた。広げると、荷車の設計図だった。


「新型の荷車……『輸送車両』です。荷台の構造を変えました。従来の二倍の積載量で、街道の轍に合わせて車輪の幅を調整してあります。カルディアへの街道は、難民の移動で轍が深くなっています。その条件で試走済みです」


「台数は」


 ゼノリスが聞いた。


「三軍合わせて十八台、稼働できます。食料と医薬品を優先して積んでいます」


 ドルンが台車に近づき、図面を覗き込んだ。


「これ、修理はどこでするのだ」


「カルディアに鍛冶師がいます。規格を合わせてあるので、現地調達で直せます」


「なるほど」


 ドルンは図面を戻した。納得している顔だった。


「ヴァイス」


 ゼノリスが言った。


「ありがとうございます」


 ヴァイスは一度だけ頭を下げた。深くはないが、背筋に迷いがなかった。


「軍が動けるのは、この準備があってのことです」


 大広間が静まった。誰も何も言わなかった。ただ、セラの手が一度だけ、腰の剣の柄に触れた。その動きを、シルヴァが視界の端で捉えていた。


 ゼノリスは息を置いた。三方面へ出す軍の、最初の支えを、今この場で受け取った。


◇◇◇


 夜明け前、ゼノリスは城壁の上に立っていた。


 城門前広場に、三つの軍が整列を終えていた。まだ空は暗く、城下の灯が兵の輪郭を薄く縁取っていた。騎士団の外套、魔術兵団の紺の上衣、その列に挟まれるように並んだ新型輸送車両。荷台の上に積まれた食料と医薬品の箱が、縄で固定されている。


 息が白く出た。


 セラが第一混成軍の先頭に立っていた。背中だけで分かる。前に傾かない、まっすぐな背筋。それでいて、足の置き方が戦場のものだった。


 第二混成軍の列の端に、シルヴァが立っていた。腕を組み、前を向いている。


 第三混成軍の先頭に、ライカとエルネスが並んでいた。ライカはすでに半歩前に出ている。抑えている、というより、号令を待っている体の形だった。エルネスは両手を胸の前で軽く重ね、術式の発動に備えた構えを取っていた。


 ノアは城壁の脇の石段に立ち、全体を見下ろしていた。帳面を開いているが、書いていない。確認しているだけだった。


 ゼノリスは城壁の端に手を置いた。石の表面が冷たく、夜露を含んでいた。


 出撃の合図を待っている静けさが、広場に張っていた。兵たちは声を出さなかった。装備が擦れる音、馬の息、車輪が石畳をわずかに軋ませる音だけが、夜明け前の空気の中にあった。


「全軍、進め!」


 ゼノリスの声が、石の壁に一度だけ当たった。


 三軍が動き始めた。


 先頭のセラが踏み出した。第一混成軍の足音が石畳を叩く。一人の足音ではなく、何十もの足が同じ間隔で落ちる音が、城壁の石を通じてゼノリスの手のひらに届いた。


 第二混成軍が続いた。足音の質が騎士団とは違う。重さより速さを優先した、軽い踏み込みだった。


 第三混成軍も動き出した。ライカが一歩前に踏み出し、エルネスの手が小さく動いた。先行する術式の準備だろう。光が出るわけではない。それでも、何かが変わった気配があった。


 三軍の足音が、城門前広場の石畳を通り抜けていく。ゼノリスの手のひらの下で、石が揺れ続けていた。一つの足音ではない。三つの流れが、同じ広場を出ていく震えだった。


 先頭のセラが城下の通りへ曲がっていくのが見えた。


 シルヴァが曲がり角に差し掛かるとき、ゼノリスの方に一度だけ目を向けた。何も言わなかった。ただ、その目が「行きます」と言っていた。


 ライカが続いた。振り返らずに進んでいく。エルネスがその後ろに続いた。一定の間隔を保って、前だけを見て進んでいく。


 車両が通りへ入った。荷台が揺れ、縄が鳴った。


 列が城下の通りへ消えていく。最後尾の兵が角を曲がり、足音が石畳の向こうへ遠ざかっていく。


 やがて、音が薄くなった。


 完全に聞こえなくなるまで、ゼノリスは城壁の上に立っていた。手のひらの下の石が、まだ微かに揺れているような気がした。揺れていたのかもしれないし、そう感じただけかもしれない。


 夜が明け始めていた。城下の東の空に、光の線が細く引かれている。


 ノアが石段を上がってきた。帳面を閉じ、胸元に抱えている。


「全軍、定刻通りの出発です」


「ありがとうございます」


 ゼノリスは城下の方に目を向けたまま答えた。三軍の姿はもう見えない。城下の通りに、まだ土埃が薄く漂っていた。


「ノア」


「はい」


「彼らが帰ってくるとき、解放した領地の住民を連れてくることになる」


「そうなります」


「その人たちが、ここへ来て初めて見るものが、この国の印象になります」


 ノアは少し間を置いた。


「統治の枠組みの協議は、今日の午後に設定してあります。ラガンさん、エリオットさん、リュネさんに声をかけてあります」


「わかりました」


 土埃が、朝の風に乗って散った。城下の通りが、また空の色を取り戻していく。


 しかしゼノリスの目は、もう通りの先にはなかった。三つの道の先――ハスレム、ヴァルン、カルディア。三軍の足音が、今はまだ城下の外を叩いているはずだった。


 三方面作戦が始まった。



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