第161話:「権威の崩壊」
声が、先に届いた。
扉の向こうで、走り終えた者の息が整いきっていない。続けて革靴の踵が石床を打つ音が二つ。どちらも止まり方が浅い。走ってきた、としか言いようのない止まり方だった。
アリアスは上座で動かなかった。
朝の光が小会議室の窓格子を通り、磨かれた石床に細い影を落としている。謁見の間の隣、朝一番に報告を受けるためだけに整えられた部屋。そこに、今日は朝一番以前に報告が届いた。
扉が開いた。文官が二名、入ってきた。一人は書類の束を両腕で抱え、もう一人は背後に控えて立った。どちらの顔にも、昨日にはなかった疲弊の色がある。
「申し上げます。各地からの速報が届きました」
書類を抱えた文官が、前に進み出た。アリアスは顎だけで先を促した。
「グランフェルの南部三都市で昨夜、食料倉庫の強奪騒ぎが起きました。ヴァルガンの鉱山区では、労働者が集団で坑道を放棄し、管理官を拘束。ファルネ伯爵領では住民が領主館を包囲しております。他にも……」
「何か国だ」
「五か国です。いずれも、昨日から今朝にかけてほぼ同時に」
アリアスは動かなかった。文官の目が、一度だけ床に落ちた。
「原因は」
「直接的な扇動の痕跡は確認されておりません。ただ、魔王国に関する噂が各地に広まっており、国民の間で……『魔王国に行けば、正しく評価される』という言葉が」
「噂」
アリアスは低く繰り返した。それから、ゆっくりと立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、硝子越しに街を見下ろした。聖都の朝の石畳に、人影はまばらだった。市場の呼び声がない。路地の端に、荷物をまとめたまま立ち止まっている者が数名いる。どこへ向かうか、まだ決めていない顔だった。
「女神が私を勇者として選んだのは、世界に光を取り戻すためだ」
硝子の向こうを見たまま、アリアスは言った。背中を向けたまま、落ち着いた声だった。演説の場で使う声だった。
「……その私が、腰抜けの魔王ごときに民を奪われているというのか。笑えない話だな」
文官は何も言わなかった。
アリアスは振り返った。文官の目が、一瞬だけ合い、すぐに逸れた。
「書類を置いて下がってくれ」
文官が机の上に書類を置き、一礼して出ていった。扉が閉まった。
アリアスは机に近づき、書類を手に取った。一枚目を読んだ。二枚目に移った。三枚目の途中で、紙を机に戻した。
内容はどれも同じ構造だった。貴族が締め付ける。国民が反発する。締め付けがさらに強くなる。反発がさらに大きくなる。その繰り返しの末に、『魔王国へ行く』という言葉が出口として機能し始めている。
一番下の一枚に、ヴァルガンの坑道を放棄した労働者たちの証言が記されていた。
『魔王国では、本当の評価をしてもらえると聞いた』
アリアスはその一行を読んだ。それから書類を裏返した。
――本当の、評価。
その四文字が、目の奥で二度、瞬いた。
奴が、何をしたというのだ。戦もせず、城の中で息を潜めていただけの腰抜けが。俺が世界を救ったのだ。この手で、この剣で。民が称えたのは俺であって、奴ではない。
それなのに……。
アリアスは書類の端を指で押さえた。力を入れた覚えはなかった。ただ、紙の端が折れていた。
◇◇◇
ベネディクト枢機卿が入ってきたのは、それからほどなくだった。
赤い法衣が、朝の光の中で鈍い色をしている。白髪を整え、両手を前で重ね、室内の中央で止まった。椅子を引くでもなく、立ったままアリアスを見た。表情は動いていない。
「報告は?」
「聞いたし、読んだ」
「では。各国の統治機構に弾圧の強化を指示します。逃亡を図る者は国境で拘束。魔王国の噂を広める者は即座に拘禁。聖騎士団の一部を各国へ派遣し、秩序を回復させます」
アリアスはベネディクトを見た。
「それをやったから、今こうなっているんだろうが」
「……仰る意味が」
「締め付けたから民が出ていく。さらに締め付ければさらに出ていく。その繰り返しだろうと言っている」
ベネディクトの目が、わずかに細くなった。反論ではなく、計算をし直す動きだった。
「弛緩を放置すれば連鎖します。ここで強く出なければ、他国にも波及する」
「もう波及している。……五か国同時だ」
ベネディクトは答えなかった。
アリアスは硝子に背を向け、腕を組んだ。
「あの魔王の、何がそんなに民を惹きつけている。戦もせず、国境で受け入れているだけだろうが。それで救世主気取りか」
「感情の分析より、対策が先です」
ベネディクトが静かに遮った。熱のない声だった。
「では聞くが」
アリアスはベネディクトを真っ直ぐに見た。
「お前の対策で、この流れは止まるのか」
ベネディクトの唇が一度、形を作りかけて止まった。
朝市の呼び声がするはずの刻限だった。しかし石畳の向こうは静かで、いつもの通りなら聞こえているはずの荷馬車の車輪の音もなかった。街の音が、部屋の沈黙を埋めてくれない。
「……申し上げます」
ベネディクトが続けた。声のトーンは変わっていない。
「魔王国へ渡った者は奴隷として酷使されているという情報を、各国の宣伝機関を通じて流します。国民の恐怖を喚起し、流出を抑制する」
「証拠もなく、か」
「噂には噂で対抗します。世界はそういうものです」
アリアスは机の上の書類に視線を落とした。裏返したままの一枚が、そこにある。
「世界の秩序を守るためなら、必要なことだ」
ゆっくりと言った。演説の場で使う、落ち着いた声だった。
「聖騎士団の派遣も、宣伝の書き換えも、進めろ。それが今の世界に光を取り戻す唯一の道だ」
「承知しました」
ベネディクトは一礼した。
「一点、確認させてください」
アリアスは目だけで続きを促した。
「この件、勇者アリアス様のご判断として各国に下達させていただきます。聖教会としての正式な指令ではなく」
ベネディクトは両手を前で重ねたまま、答えを待った。先に口にしたのは確認ではなく、線引きだった。
アリアスはベネディクトを見た。視線を合わせる時間が、いつもより一瞬長かった。
「……好きにしろ」
アリアスは短く答えた。
ベネディクトが再度一礼し、扉へ向かった。扉が閉まった。
室内が静かになった。朝の光が、窓格子の影ごと石床を這っている。アリアスは屋根の稜線を辿った。
聖都の屋根が並んでいる。その端に、昨日まではなかった空き家が三軒ある。今朝のうちに、もう一軒増えているかもしれない。
アリアスは目を逸らさなかった。逸らしたら負けだと、理屈ではなく身体が知っていた。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、執務室の空気が少し変わった。
午前中まで差し込んでいた日差しが角度を変え、机の上の書類に直接当たらなくなっていた。ゼノリスはペンを走らせながら、その変化を指先の温度で感じた。手紙の一枚、報告書の一枚。積まれた紙の量は朝より減っている。処理が追いついている。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
カイロが入ってきた。手に帳面を一冊持っている。昨日のものより薄い。
「本日の午前分の集計です」
机の前に立ち、帳面を開いた。
「国境への到達数、本日午前だけで六百八十名。累計では四千名を超えました。各省の処理速度は現行体制で維持できています」
ゼノリスはペンを置いた。
「六百八十……、午前だけで」
「はい。昨日の一日分に近い数字です」
ゼノリスは帳面を受け取り、数字の列に目を通した。評価院、行政省、施療省、復興院、商務省。どの欄にも滞留の記載がない。数が増えても、仕組みが壊れていない。
「各省から問題の報告は」
「施療省から一点。城門前広場の天幕を一張り増設したいとのことです」
「承認します」
カイロが帳面に一行書き込み、顔を上げた。
「それから」
わずかに間を置いた。
「諜報省から追加の報告が届いています。ノクティスより」
カイロが帳面とは別の、折り畳まれた紙をゼノリスに渡した。ゼノリスは受け取り、広げた。
『教会連合圏の各国で、弾圧の強化が始まっている。聖騎士団の一部が国境付近に展開。同時に、各国の宣伝機関を通じて「魔王国に渡った者は奴隷として酷使されている」という情報が流されている』
ゼノリスは紙を読み終え、机の上に置いた。
「……弾圧と、情報操作を同時に」
「はい。どちらも今朝から動いています」
城門前広場の方角から、槌の音と人の声が低く届いてくる。天幕を増設しているのかもしれない。
「国境付近の難民への影響は」
「聖騎士団の展開を受けて、国境を越えることを躊躇う者が出ています。ただ、今のところ流入が止まった報告はありません。引き返した者も確認されていません」
「情報操作の方は」
「魔王国の国民が否定しています」
カイロが淡々と続けた。
「すでに入国した難民が、自分の目で見たことを周囲に話しています。それが国境の外にいる者たちにも届いているようです。宣伝より、当事者の声の方が早い」
ゼノリスは机の上の紙に視線を落とした。
『魔王国に渡った者は奴隷として酷使されている』
その一行を読んだ。
今この瞬間も、評価院の窓口で名前を呼ばれている者がいる。行政省で戸籍の登録を終えた者がいる。施療省の天幕で、足の処置を受けながら『明日から動けます』と言っている者がいる。
奴隷として酷使されている者は、一人もいない。
「カイロさん」
「はい」
「宣伝への反論は、こちらから出す必要はありません」
カイロが少し考えてから答えた。
「……同意します。当事者の声が機能しているうちは、公式に反論するより実態を積み上げる方が早い」
「引き続き、各省の対応を」
「承知しました」
カイロが一礼し、帳面を閉じた。扉へ向かいかけて、そこで止まった。振り返る。
「もう一点だけ」
「どうぞ」
「魔王国の噂は、もはや世界中に広まりました」
報告の口調のままだった。感慨も強調もない。ただ、事実を置くように言った。
「教会連合圏の弾圧と情報操作が動いたということは、向こうも認識しているということです。噂の段階は、終わりました」
ゼノリスは答えなかった。
カイロが一礼し、扉を出た。廊下の足音が遠ざかっていく。
執務室に、午後の光だけが残った。
ゼノリスはノクティスからの報告を畳み直し、書類の束に置いた。その一枚の下で、数字の列は今日も滞りなく動いている。到着、評価、登録、処置、配属。止まっていない。
石畳の向こうで、城下が動いている。槌の音が続いている。人の声が続いている。国境の向こうで一つの権威が軋みを上げ始めても、この地の日常は、ただ誠実に回り続けている。
ゼノリスは次の書類に手を伸ばした。
噂の段階は、確かに終わった。
次は世界が、私たちを見る段階だ。




