第160話:「奔流」
ペンの先が、紙の上で止まった。
廊下の足音が、朝一番に執務室へ届くには早すぎた。速く、迷いがない。一種類だけの足音だった。
窓の外は明るくなりかけたばかりで、机の上の書類はまだ昨夜の並びのままだった。その紙の量が、昨夜より一段高くなっている。夜の間にも届き続けたのだ。
扉が開いた。
「報告があります」
カイロが入ってきた。手に書類の束を持っている。昨日より厚い。
「今朝の時点で、国境に到達している難民の数は二千三百名を超えています。昨日一日の受け入れ数が千二十名。現在も継続して流入中です」
ゼノリスはペンを置いた。
「千名を超えた……もう?」
「はい。ノアの試算より早いです。教会連合圏の締め付けが、想定より速く進んでいるようです」
ゼノリスは机の上の報告書に目を向けた。昨夜のうちに届いていた各省からの数字が並んでいる。評価院、行政省、復興院、商務省。どれも滞留の記載がない。
「各省の対応状況は」
「評価院は昨日から三班体制に増員。行政省は戸籍登録の処理速度を上げるため、ラガンとエリオットが書式を再整理しました。復興院は住居の割り当て区画を前日比で五割増。商務省は今朝の時点で物資の追加発注を完了しています」
一呼吸の間もなく返ってきた。数字が頭に入っている。
「問題は出ていませんか」
「現時点では。ただ」
カイロがわずかに間を置いた。
「施療省から昨夜、報告が上がっています。疲弊の重い難民が増えています。国境から城下まで歩き続けてきた者が多く、到着時点で体力が限界に近い状態です。セフィリア長官が臨時の施療所を城門前広場に設けるよう要請しています」
「承認します。必要な人員と物資はセフィリア長官の判断に任せてください」
「承知しました」
「それから」
ゼノリスは立ち上がった。
「私も少し、外を見てきます」
◇◇◇
城門をくぐると、空気の質が変わった。
広場に、人がいた。列ではない。波だった。城門から広場の端まで、人の群れが滞留することなく動いている。荷を抱えた者、子どもの手を引いた者、杖をついた老人、包帯を巻いたまま歩いている者。それぞれの速度で、それぞれの方向へ。色が違う外套、訛りの違う声、泥の違う靴の裏。城下の朝には本来ない、混ざり合った匂いがあった。
足音、子を呼ぶ声、荷の軋み、遠くで槌を打つ音。一つひとつは小さくても、束になると低い振動になって足の裏から伝わってきた。城壁の石が、朝の冷たさよりわずかに温い。人が発する熱が、広場の空気を一段持ち上げている。
ゼノリスは城門の脇に立った。しばらく、動けなかった。
――これは、私が起こした流れだ。
数字で知っていたはずのものが、皮膚の上に載っていた。重さがあった。
広場の南側に、白い天幕が三張り並んでいた。昨日はなかった。天幕の入り口に、職員らしき者が立ち、到着したばかりの人々を誘導している。施療所だ。
ゼノリスは天幕の方へ歩いた。
近づくと、中の声が聞こえてきた。落ち着いた、低い声だった。
「足の状態を見せてください。……はい、問題ありません。水ぶくれが三か所。処置して包帯を巻きます。今日は無理に動かないでください」
天幕の端から、中が見えた。
エルフ族の女が、老人の足首を両手で支えながら処置をしていた。長い銀髪を後ろで束ね、袖を肘まで捲り上げている。動作に無駄がなかった。老人の足に視線を落としたまま、隣の職員に手を差し出す。職員がすぐに包帯を渡す。言葉を使わずに連携が動いている。
「痛みはありますか」
「……少し」
「少し、というのは歩けないほどではない、という意味ですか」
老人が少し考えてから頷いた。
「では、処置が終わったら休憩所へ案内します。今日は歩かないでください。明日の評価院の受付には間に合います。休むことは、遅れではありません」
老人が「ありがとう」と言った。声が震えていた。
エルフ族の女は頷き、包帯を巻き終えると、次の人へ視線を移した。感情的な反応はない。ただ、動作が途切れなかった。
セフィリア施療長官だ、とゼノリスは思った。
天幕の外に出ると、別の職員が駆け寄ってきた。
「ゼノリス様。セフィリア長官が少し後でご報告に伺いたいとのことです」
「こちらから伺います。少し待ってください」
職員が天幕の中へ戻った。ゼノリスは天幕の前で待った。
広場の流れが、続いていた。
城門から人が来る。誘導の声が飛ぶ。施療所の天幕に人が入り、出てくる。評価院の方向へ向かう列が伸びる。行政省の仮窓口から、書類を手にした者が出てくる。復興院の方角から槌の音がしている。どこも止まっていない。
昨日まで『三百名』だった流れが、今日は『千名を超えた』流れになっている。しかし、各省の動き方は変わっていない。数が増えても、仕組みが壊れていない。
天幕の入り口が開いた。
セフィリアが出てきた。袖を下ろし、手を拭きながら。ゼノリスを見て、一度だけ軽く頭を下げた。
「お待たせしました」
「いいえ。報告を」
「今朝の時点で、到着時に施療が必要な状態の難民は、全体の約二割です。大半は疲弊と軽傷です。重症者は今のところ十二名。うち三名は城下の施療院に移送しました」
セフィリアは一拍置いた。
「……それから、道中で亡くなった方の報告も上がっています。国境に着く前に倒れた者が、確認できているだけで七名。子を失った母親が二人、親を残してきた者は数えきれません」
淡々と、数字が並んだ。
「二割という数は想定の範囲内ですか」
「想定より多いです。ただ、処置の内容は軽いものがほとんどです。問題は数ではなく、流れの速度です。今の体制では、一日五百名を超えると処置が追いつかなくなる可能性があります」
「何が必要ですか」
「職員を増やしいただきたい。可能なら、四名。それと、包帯と消毒薬の追加発注を今日中に……」
「承認します。カイロに通します」
「ありがとうございます」
セフィリアは一礼し、天幕の中へ戻った。入り口が閉まる前に、すでに次の患者に向き直っている姿が見えた。手が止まらない。
ゼノリスは広場に視線を戻した。
城門の向こうに、また新しい人の群れが見えた。今日もまだ、続いている。
◇◇◇
広場から外務院の仮庁舎へ向かう道は、昨日より人の流れが厚かった。
すれ違う者の顔がまちまちだった。城下の民と、到着して間もない難民が同じ石畳を踏んでいる。城下の民は普段の歩幅で、難民は少し遠慮がちな歩幅で、それでも一本の道が二色に分かれず混ざっている。三日前にはなかった光景だった。
――この光景を、国境の外からはどう見ているのだろう。
ゼノリスは歩を進めた。答えは、この先の部屋で待っている一人の男が持っていた。
外務院の仮庁舎の扉の前に、職員が一名立っていた。ゼノリスが近づくと、職員が一礼して扉を開けた。
中から声が聞こえていた。
一つは落ち着いた、やや低い声だった。もう一つは硬く、いくらか高い声だった。
室内には、細長い机が一つ置かれていた。片側に、別のエルフ族の女が背筋を正して座っていた。銀髪は短く切り揃えられ、机の上に両手を重ねている。表情は動いていない。机の対面に、見覚えのない男が座っていた。革製の上着に、胸元に紋章の刺繍がある。教会連合圏の使節だとすぐに分かった。
エルフ族の女が顔を上げた。ゼノリスと目が合い、一度だけ小さく頭を下げた。リュネ外務長官だ。
使節の男がゼノリスに気づき、何か言おうとしたが、リュネが静かに手を上げた。
「続けましょう。『こちらの方』は立会人としていらっしゃいます」
リュネの声は抑揚が少なかった。促すわけでも制するわけでもなく、ただ事実を告げる言い方だった。男は迷った様子を見せたが、再び椅子に座った。
ゼノリスは壁際に立った。
「改めて確認します」
リュネが続けた。机の上に開かれた書類に目を落とさず、使節の男を見ている。
「貴国は、魔王国に到着した者たちを『誘拐された国民』と表現しています。しかし、ここ三日間で到着した難民の全員が、自らの意志で国境を越えたと申告しています。その点について、貴国の見解をお聞かせください」
男が口を開いた。
「我が国の民は、魔王の甘言に誑かされたのだ。正常な判断ができる状態にはなかった」
「根拠を示してください」
リュネの返しに、間はなかった。
「甘言の内容と、判断を阻害された具体的な状況を。それがなければ、申告の事実を覆す根拠にはなりません」
男の声が半音上がった。言葉を選びながら口を開く間、男の手は机の上で拳に握り直されていた。
「……魔王国への入国は、我が国の法に違反する。そもそも受け入れること自体が不当だ」
「貴国の法は貴国の国内に適用されます。魔王国の国境を越えた時点で、魔王国の法が適用されます」
リュネは視線を書類に落としもしなかった。言葉だけが机の上に置かれていく。男の拳が、机を一度だけ叩いた。軽い音だった。男自身が、その音に一瞬、息を詰めた。
リュネは動じなかった。一枚をめくり、別の一枚を机の上に置いた。
「こちらは昨日、到着した方々の申告書の一部です。出身地、職業、魔王国に来た理由。全員が自署しています。貴国が『誘拐』と呼ぶ根拠に対して、自筆の申告書が百二十三通あります」
男が書類を見た。視線が一度だけ動き、紙の一点で止まった。拳が、ゆっくりとほどけた。
室内の空気が一拍、止まった。扉の外から、広場の音が低く届いてくる。足音と声と、荷の動く音。それが絶えずに続いている。
男が、口を開いた。
「……今日のところは持ち帰らせてほしい。上に報告する」
「承りました」
リュネは書類を揃え、表紙を閉じた。
「次の機会には、具体的な根拠をご持参ください。それがなければ、話し合いは同じ場所を繰り返すことになります」
使節の男は返答せずに立ち上がり、室を出た。扉が閉まった。
リュネが書類を手に取り、机の端に積んだ。ゼノリスの方に向き直る。
「本日二度目の使節です。午前にも同じ者が来ました」
「同じ内容でしたか」
「ほぼ同じです。午前の方が感情的でした。午後は少し整理されていました」
「次も来るでしょうか」
「来ると思います。ただ」
リュネは机の上に残った一枚の書類を見た。
「昨日と今日で、到着した方の出身が広がりました。貴国以外の三か国から。使節を送ってくる国が増えれば、話し合いの枠組みが変わります」
ゼノリスは少し考えた。
「リュネさん、今日の対応で問題はありましたか」
「特にありません」
一言だった。付け足しがなかった。
「引き続きお願いします」
「承知しました」
◇◇◇
執務室に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
机の上に、午後の報告書が積まれていた。朝より高い。ゼノリスは椅子に座り、一枚ずつ手に取った。どの報告にも滞留の記載はない。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
ノアが入ってきた。脇に帳面を抱えている。
「拡張設計の初稿です」
机の上に帳面を置いた。ゼノリスは受け取り、表紙を開いた。
「千名規模を前提として、評価院・行政省・施療省の三省を優先拡張します。復興院と商務省は現行体制の延長で対応できます。ただし、来週中に住居の割り当て区画を現在の倍に拡張しないと、二週間後に詰まります」
ゼノリスはページをめくりながら聞いた。数字と配置が、表として整理されている。ノアらしい仕事だった。
「問題はありますか?」
「人員です。今の魔王国の人口規模では、各省に回せる人数に上限があります。ただ、評価院で能力が確認された難民を即日配属すれば補えます。エリオット長官とは確認済みです」
「では、その方向で進めてください」
ノアが帳面を受け取り、一礼した。扉に向かい、取っ手に手をかけ――そこで、止まった。
「もう一点」
振り返り、続けた。
「今日の受け入れ数は、最終的に千百四十名になる見込みです。昨日の千名超えから、一日で一割」
一拍、置いた。
「増えています」
ゼノリスは机の上の報告書に目を落とした。
「明日以降も同じ割合で増えると仮定すると」
「来週末には二千名を超えます」
ペンを置く音もしなかった。ノアは扉の前で動かずに待った。
「分かりました。引き続きお願いします」
「承知しました」
扉が閉まった。
ゼノリスは報告書を机に置いた。窓の外に目を向けた。城下に灯りが点き始めている。施療所の天幕の方にも、まだ明かりがある。
再び扉を叩く音がした。今度は速い。
「入ってください」
入ってきたのはカイロではなかった。見覚えのある職員が、薄い書状を手に持って立っていた。諜報省の封蝋だった。
「ノクティス長官からです。緊急とのことで」
ゼノリスは書状を受け取った。封を開いた。
短い文だった。
『教会連合圏の五か国で、国民の反乱が同時多発的に激化している。うち二か国では、地方の統治機構が機能を失い始めている。貴族の一部が国外への逃亡を図っている』
ゼノリスは書状を机の上に置いた。
指先が、わずかに紙の端を押していた。自覚してから、力を抜いた。
窓の外を見た。
城下に灯りが点き始めている。城門前広場の施療所の天幕にも、まだ明かりがある。評価院の窓にも、外務院の仮庁舎にも、点々と灯りが続いていた。魔王国の内側で、今日増えた灯りだった。
その灯りの先、国境の向こうに、目には見えない五つの国があった。
ゼノリスには、見えない夜が見えた。灯りが消え始めている家。逃げ出す蹄の音。石畳の上で倒れる松明。
受け入れた。ただ、受け入れただけだ。煽ったわけでも、弾圧を命じたわけでもない。それでも、魔王国の城門前広場に灯った施療所の明かりは、国境の外で別の火を起こしていた。
「……流れが、変わり始めた」
低い声だった。
諜報省の書状が、机の上にあった。五か国。同時多発。貴族の逃亡。
ゼノリスはもう一度、その短い文を読んだ。




