第159話:「加速する流れ」
扉が開き、閉まった。また開き、また閉まった。
ペンが走り、帳面が一枚めくられた。また走り、また一枚めくられた。
エリオットの手は、その間も止まっていなかった。試験紙を脇に寄せ、次の名を呼ぶ。審査室の椅子が入れ替わる速度が、昨日より上がっている。増員した評価員が隣の室で並行して動いているおかげだ。廊下の「次の方どうぞ」という職員の声が、一定のリズムで続いている。
今日で二日目になる。
昨日は一人ずつの手触りを確かめながら進めていた。今日は違う。受け入れる側が、受け入れることに慣れ始めている。それは手を抜くということではない。一人ひとりに向き合う時間の密度を保ちながら、流れる速度が上がっている。そういう状態だった。
七人目が席についた。三十代の女で、農地作業を十二年続けてきたという。指先に古い土の痕、指の付け根に胼胝が並んでいた。試験紙を渡すと、一行ずつ目で追ってから手を止めた。
「……読めない字が、あります」
「教えてくれてありがとう。読み書きは後から覚えられますし、評価にも影響しません。なので、気にしないでください」
女が顔を上げた。エリオットはすでに帳面に農地の欄を開いていた。
「どんな作物を、どんな畑で作っていましたか」
そこから女の声が変わった。粘土質の畑と砂壌土で水の抜け方がどう違うか、霜が降りる前の作物の見分け方。言葉は多くなかったが、一つひとつが具体的だった。文字よりも確かなものが、十二年分そこにあった。
「農業・農地管理の職能で適性級C。現時点で農地作業の即戦力として配属できます。廊下を出て左の仮窓口で書類を受け取ってください」
女は深く頭を下げた。頭を下げたとき、指の胼胝が帳面の端を一瞬かすめた。扉が閉まった。
エリオットは所見を書き終え、次の名前を確認した。女の胼胝の硬さが、ペンを握る自分の指にまだ残っている気がした。
午前だけで十四件。昨日の一日分を超えていた。
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃、エリオットは評価結果の束を抱えて隣棟に向かった。
行政省の仮執務室に入ると、帳面と書類の束が壁際の棚から机の上まで積み重なっていた。窓から差し込む光が紙の端を白く照らしている。
机の向こうで動いていた人物が顔を上げた。
ドワーフ族の男だった。肩幅が広く、体格に重みがある。椅子に座っていても、動じない重心の安定した座り方をしていた。エリオットより頭一つ分低い背丈だが、机の上に積まれた帳面の量と見合うだけの存在感があった。
「エリオットさんか。評価結果か?」
低く、短い声だった。机の端に積まれた帳面の山から顔だけ上げて、手を差し出している。ラガン行政長官だ。
「今日の午前分です。十四件あります」
ラガンは束を受け取った。紙のめくれる音が、一枚、また一枚、ほとんど間を置かずに続いた。途中で音が止まり、ペンが走った。それから、またすぐに紙の音に戻った。
「書式が昨日と変わっとる」
「午前中に修正しました。戸籍登録との照合がしやすいよう、出身地の欄を前に出しています」
「……悪いな。手間だったんだ」
ラガンが短く言い、次の帳面に移った。エリオットは棚を一度だけ見た。戸籍登録の処理束が積まれている。昨日より明らかに増えていた。
「午後分と合わせると、今日だけで三十件を超える見込みです。明日以降はさらに増えます」
「分かっとる」
ラガンが顔を上げずに返した。
「人を一名借りるぞ。カイロさんには通してある」
「承知しました」
それだけだった。余計な言葉が一つもなかった。エリオットは室を出た。
廊下に踏み出した瞬間、中庭の方角から槌音が届いてきた。復興院の方向だ。
◇◇◇
近づくほど、槌音は粒が分かれて聞こえた。打つ音、運ぶ足音、指示の声。中庭を抜けるころには、音は一つではなくなっていた。
エリオットは回廊の端で足を止めた。中庭越しに、復興院の作業区画が見える。資材が並び、人が動いていた。その中に、見覚えのある背格好があった。
昨日の午後に審査を終えた男だ。職能試験で石積みの経験を見せた者だった。配属が決まったのは昨日のことだ。それがもう、現場に立っている。
男は石を一つ持ち上げ、据える場所を二度確かめてから下ろした。手際が、昨日の審査室で見たものと同じだった。
エリオットは回廊を戻らず、そのまま作業区画の方へ歩いた。
復興院の作業区画は、前日より広がっていた。新しく整地された区画に杭が打たれ、縄が張られている。住居の割り当て予定地だ。区画の端で地図を広げていたオルドが、足音に気づいて顔を上げた。ドワーフ族らしい頑丈な体格、作業着の袖が肘まで捲られている。手に土がついていた。
「エリオットさん」
「午前に配属した者が、もう現場に入っていますね」
「当たり前だ。使える者はすぐ使う」
オルドが地図に視線を戻しながら答えた。
「昨日より区画を三つ増やした。明日はさらに増える。人手が要る」
オルドが地図から顔を上げ、作業区画の方へ顎をしゃくった。
「ただな、エリオットさん。数だけ寄越されても困る。鋸を握ったことのない者に柱は立てさせられん。昨日回ってきた者の中に二人、半日で手を引かせた」
声に荒さはなかった。ただ、地図の上に置かれた指が、一点を強く押さえていた。
「明日の午前分は、農地・建設系の適性者を優先して回します。試験で道具を持たせた手応えのある者から」
エリオットが答えると、オルドは一度だけ頷いた。
「助かる」
短くそれだけ言い、オルドはまた地図に向かった。エリオットは作業区画を一度だけ見渡した。杭を打つ音、木材を運ぶ足音、指示の声。昨日まで列に並んでいた者たちが、今日はここで動いている。評価院の審査が現場の人手に変わるまでの時間が、一日ごとに縮まっていた。
◇◇◇
作業区画を離れ、倉庫の方へ向かうと、荷の動く音が聞こえてきた。
ミレッタの商務省が管轄する搬入口だ。荷台から下ろされた木材と食糧の袋が、手際よく仕分けられて倉庫へ運ばれていく。指示を飛ばしているのは、狐の耳を持つ獣人族の女だった。台帳を片手に、荷の流れを目で追いながら、滞りが出そうな箇所へ先回りして声をかけている。荷台から下ろされた麦袋が、指先の合図ひとつで倉庫側へ流れを変えた。
荷が止まっていない。
エリオットが近づくと、ミレッタが台帳から目を上げた。
「エリオットさん。評価院の方は順調ですか」
「午前で十四件。明日以降も増えそうです。住居整備の資材は足りていますか」
「今日は足りてますよ。明日の分は夕方に追加が入る予定です」
台帳を開いたまま、淀みなく返ってきた。数字が頭に入っている。
「数が読めれば早めに手を打てます」
「明日の午前に評価院の今日の確定数を届けます」
「助かります」
ミレッタが頷き、すぐに視線を荷の流れに戻した。エリオットも倉庫を出た。
評価院が数を出し、行政省が戸籍を動かし、復興院が住居を作り、商務省が物資を流す。どこかで詰まれば全体が遅れる。詰まっていなかった。
◇◇◇
夕刻、執務室の机に各省庁からの報告書が並んでいた。
ゼノリスは一枚ずつ手に取り、数字を確かめた。評価院、行政省、復興院、商務省。どの報告にも滞留の報告がない。受け入れた人数、配属が決まった人数、住居の割り当て数、物資の残量。数字が連動している。
扉が開いた。
「報告があります」
カイロが入ってきた。手に薄い書類を持っている。
「今日の受け入れ完了数は三百十二名です。昨日の二倍を超えました。現時点で各省庁に問題は出ていません」
ゼノリスは報告書の束に目を落とした。昨日の束の、倍の厚さがあった。
「分かりました」
ゼノリスは報告書を机に置いた。
「明日以降の規模の見通しは」
「ノアの試算では、今週中に一日あたり五百名を超える可能性があります。来週には千名規模になるかもしれません」
ゼノリスは窓の外に目を向けた。城下に灯りが点き始めている。評価院の棟にも、行政省の仮執務室にも、まだ明かりがある。
「もう一点」
カイロが続けた。
「諜報省から入りました。教会連合圏の三か国で、国民の反乱が始まっています」
執務室が静かになった。
ゼノリスは窓の外に視線を置いたまま動かなかった。城下の灯りが、さっきより増えている。評価院の棟、行政省の仮執務室、それから倉庫の方にも。魔王国の内側に点った灯りが、国境の外側で別の火を起こし始めている。
「……私たちが受け入れたから、あちらが揺れた」
声に出したのは確認のためではなかった。
カイロが一度頷き、扉の前で待った。ゼノリスは机に視線を戻した。
「ノアに伝えてください。今週中に、千名規模を前提とした拡張設計を上げてもらいます」
「承知しました」
扉が閉まった。
机の上の報告書が、灯りの中に並んでいる。評価院、行政省、復興院、商務省。今日一日で動いた数字が、紙の上に静かに積まれていた。紙の外側で、別の数字が動き始めている。




