第158話:「国家の再評価」
窓の外、中庭の石畳に列が伸びていた。
三十人を超えている。朝靄がまだ薄く残る時刻から、すでに並んでいたのだろう。外套の裾が汚れた者、腕に包帯を巻いた者、子供の手を引いたまま列を離れられない者。立ち方はまちまちだったが、共通しているものがあった。誰も、正面を向いていなかった。視線が床か足元か、あるいはどこでもない虚空に落ちている。
評価院の廊下に、朝の光が斜めに差し込んでいた。床石の継ぎ目に沿って薄く埃が溜まっている。エリオットはそれを横目に見ながら、受付棟の扉の前に立った。鍵は昨夜のうちに確認してある。帳面も、試験紙も、採点基準の写しも、すべて揃えてある。
残りは、扉の向こうにいる者たちだ。
扉を開けた。中庭に向けて、はっきりと声を出した。
「お待たせしました。魔王国評価院のエリオットです。本日より、受付を開始します」
列が、わずかに揺れた。顔を上げた者が数人いた。エリオットはそちらに視線を向けたまま、続けた。
「ここでは、聖教会の鑑定結果は参照しません。ペーパー試験と、技能の確認と、みなさんご自身との面談によって、魔王国としての評価を行います。以前の評価がどのようなものであっても、それはここでの判断に影響しません」
誰も声を出さなかった。ただ、さっきより多くの顔が上がっていた。
「魔王国では、あなた方の本当の価値を正当に評価します」
エリオットは言い終えてから、受付棟の中へ戻った。審査室の椅子を引き、帳面を開いた。インクが乾いているか指先で確認して、一番目の名を呼ぶための準備をした。
受付棟の壁に、新しく木札が掛かっていた。『評価院長室』。昨日まで『評価代表』だった肩書が、建国宣言と同じ日に書き換えられた。各組織の『代表』は『長官』や『院長』と呼ばれるようになった。エリオットは一度、その文字を横目で確かめた。肩書が変わっても、やることは変わらない。ただ、制度の重みが一段、増した。
◇◇◇
最初に審査室に入ってきたのは、四十がらみの男だった。
背が高く、肩幅がある。だが歩き方に力がなかった。体格と動作が合っていない、消耗した者特有の歩き方だった。椅子を示すと、ゆっくりと座った。背もたれに体を預けず、膝の上で両手を合わせて、じっとエリオットを見た。警戒しているというより、何かを測っているような目だった。
「名前と、以前どこにいたかを教えてください」
「……ハルト。教会連合圏のヴォルク市にいました」
「ヴォルクから、ここまでどのぐらいかかりましたか?」
「三日かかりました」
エリオットは帳面に名前と出身地を書き込んだ。それから、試験紙の束を一枚、机の上に置いた。
「まず、ペーパー試験をお願いします。基礎の読み書きと計算です。難しく考えなくていい。分からなければ空欄で構いません。もし、読み書きが難しい場合は、仰っていただければ代筆もあります」
ハルトが試験紙を手に取った。少し間があった。紙を眺めて、それから視線をエリオットに戻した。
「……これで、何が分かるんですか」
「あなたが何を知っているか、が分かります。試験の点数で合否を決めるわけではありません。次の技能確認と面談と合わせて、あなたに向いている仕事を探します」
ハルトは試験紙に視線を落とした。
「向いている仕事……」
「そうです」
短い沈黙があった。ハルトは机の上に試験紙を置き、机の上のペンを持った。エリオットは新しい帳面のページを開いて、待った。
ハルトがペンを走らせる音が、静かな審査室に続いた。
◇◇◇
ハルトの書き終えた試験紙を、エリオットは脇に寄せた。
代わりに机の上に置いたのは、木材の端材と組み継ぎの見本、縄の結び方の図解、それから簡単な計算問題の続きだった。「何でも触っていい」と伝えると、ハルトはしばらく端材を眺めていた。それから、組み継ぎの見本を手に取った。指先が、継ぎ目をゆっくりと辿る。
手の動かし方が変わった。
さっきまでの、力の抜けた動作ではなかった。指が木の合わせ目を確かめる時だけ、別人のように動いた。
「木工に、心当たりがあるのですか?」
ハルトが顔を上げた。
「……親父が大工でした。子供の頃から手伝わされていた」
「ヴォルクでは何の仕事を」
「荷運びです。ずっと」
エリオットは帳面に『木工素地あり。手先の精度、要確認』と書いた。
「鑑定石の結果は、どうでしたか?」
ハルトの指が、木材の上で止まった。
「……少ししか光りませんでした」
声が平坦だった。怒りではなかった。怒りはとうに使い切ったような、乾いた平坦さだった。
「魔力適性が低かったから、ということですか」
「そうです……」
エリオットはペンを置かなかった。帳面に書き続けた。
「分かりました。最後に、少し話を聞かせてください」
◇◇◇
面談は短かった。
エリオットが聞いたのは、どんな仕事をしたいか、体の状態、家族の有無、魔王国に来た理由。ハルトは問いに対して過不足なく答えた。長く話す者ではなかった。だが、答えに噓はなかった。
エリオットは帳面を閉じた。
「結果をお伝えします」
ハルトが、少しだけ身を固くした。体格があるのに、その動作は小さかった。
「魔王国の制度では、適性級という基準で評価します。Eからはじまり、Aまで五段階です。ハルトさんの今回の結果は、木工・建設系の職能で適性級C、改善の余地ありと判定します」
「……C」
「平均より上です。技能試験での手の動かし方を見れば、幼少期からの素地がある。あとは現場での経験を積めば、Bには届く」
ハルトはしばらく、何も言わなかった。
窓の外で列が動く気配があった。エリオットはそちらを見なかった。ハルトの、膝の上の両手だけを見ていた。拳が、まだ握られたままだった。
「……『荷役以外は不適』だと、言われていたんですが」
「それは、聖教会の評価です。ここではありません」
短く言った。
ハルトが、ゆっくりと息を吐いた。肺の底からゆっくりと、時間をかけて。両手が、膝の上で静かに開いた。拳を握っていたのだろう。指の跡が、掌に白く残っていた。
声は出なかった。ただ、視線がエリオットの顔を一度まっすぐに見て、それから机の上に落ちた。
エリオットは帳面を再び開いた。
「復興院に配属の打診を出します。住居整備の現場で、木工の経験を活かせる職があります。詳細は行政省の窓口で確認してください」
「……はい」
「次の評価は三か月後です。その時点での仕事の実績と合わせて、再評価します」
ハルトが椅子から立った。一度、深く頭を下げた。エリオットは頷いた。
扉が閉まった。
エリオットは帳面に所見を書き終え、次の名前を確認した。廊下の向こうで、職員の声が「次の方どうぞ」と呼ぶのが聞こえた。
審査室の外、列はまだ続いている。
◇◇◇
ゼノリスは評価院の外廊下に立っていた。日中になっても、風が通らなかった。窓枠に片手を置き、ガラス越しに審査室の様子を眺める。
エリオットが机の向こうに座り、難民と向き合っている。声は届かない。だが、エリオットの姿勢は変わらなかった。背を真っ直ぐに保ち、相手の方へ少し身を傾けて、帳面にペンを走らせる。その繰り返しが、午前中ずっと続いていた。
扉が開き、一人が出てきた。
中年の女だった。肩に古い布袋を掛け、足元は長旅で傷んだ靴だった。廊下に出てきてすぐ、立ち止まった。ゼノリスの方を見るわけでもなく、壁を見るわけでもなく、ただ前を向いて、しばらく動かなかった。
やがて、両手で顔を覆った。声は出なかった。肩が小さく揺れただけだった。
ゼノリスは窓から目を離さなかった。
声をかける必要はないと思った。あの沈黙には、触れるべきではない種類のものが含まれていた。長い時間をかけて圧縮されてきた何かが、ようやく少し緩んだ瞬間の、静かな崩れ方だった。
女はしばらくそうしていて、それから顔を上げた。袖で目元を押さえ、廊下の先へ歩いていった。足取りは来た時より、わずかに軽かった。
ゼノリスは窓から手を離した。
廊下の向こう、中庭への出口付近では、行政省の仮窓口が設けられていた。行政省の職員が二名、机を並べて配属先の案内を行っている。審査を終えた者が順に立ち寄り、書類を受け取って、中庭の方へ出ていく。流れが詰まっていない。評価院の審査結果が行政省の窓口へ届き、配属が決まり、復興院へ繋がっていく。どこかで止まった様子はなかった。
ゼノリスは回廊をゆっくりと歩いた。
城に戻る道すがら、石畳の上に短い影が伸びていた。陽が真上に近くなっている。列の最後尾は、午前の開院時より後ろへ伸びていた。審査が進んでも、新しく来る者が補充されていく。
――今日だけで、何人になるか。
声に出さなかった。数字は夕方にノアから上がってくる。今はただ、制度が回っていることを確かめれば十分だった。
前日の朝、国境で膝をついた時、老婆の目が乾いていた。泣く水分も残っていない目だった。あの目が、今ここにいる者たちの中に幾つあるかは分からない。分からなくていい。評価院の審査室で、エリオットが一人ずつ向き合っている。それで十分だった。
◇◇◇
執務室に戻ると、カイロが扉の脇に立っていた。
ゼノリスが椅子を引く前に、口を開いた。
「報告があります」
「どうぞ」
「難民の流入が止まりません。今朝時点での諜報省の観測では、教会連合圏の複数の国から、数千人規模の移動が始まっています。昨日の国境での一件が、すでに伝わっています」
ゼノリスは椅子に座った。机の上に両手を置いた。
「……複数の国から、同時に」
「はい」
カイロは淡々と続けた。
「数千というのは、現時点での観測です。移動が本格化すれば、その数倍になる可能性があります」
ゼノリスはすぐには答えなかった。
窓の外、城壁の向こうに評価院の屋根が見える。今この瞬間も、エリオットが誰かと向き合っているはずだ。行政省の仮窓口は、夕方までに何枚の書類を処理するか。復興院のオルドは、住居の割り当てをどこまで伸ばせるか。
今日の体制で受け止められる数と、来週の体制で受け止められる数は、違う。
「ノアに伝えてください。受け入れ規模の段階的拡張について、今週中に設計案を出してほしいと」
「承知しました」
「評価院と行政省にも。現状の人員で回せる上限を、今日中に上げてもらいます」
「はい」
カイロが踵を返しかけた。ゼノリスは続けた。
「カイロ」
「……はい」
「数が増えることは、想定の内です」
カイロは扉の前で、ゼノリスを見た。返事はせず、ただ頷いた。
扉が閉まった。
執務室に静けさが戻った。ゼノリスは机の上の手を見た。
今朝、老婆が立てるように支えた手だった。霜の冷たさが、まだ指の腹に残っている気がした。
数千人が来る。
この手で、全員を迎える。




