第157話:「国境の決断」
足が動かなくなりかけていた。
後ろを振り向くのを、もうずっとやめていた。夜の間も、昨日も、その前の日も、背後から足音が追ってくる気配は消えなかった。振り向いても意味はない。
老婆は石ころだらけの街道を、杖の先で探りながら歩いていた。正確には、歩いていたのかどうか、もう自分でも分からなかった。前に出ているのは足なのか、それとも倒れるのを堪えているだけなのか。草の根が靴底から突き上げるたびに、膝に鈍い痛みが走る。咽喉が干からびて、声を出せば砂が散りそうだった。
前を歩く人の背中が、揺れている。子供を抱えた男だった。子供はぐったりと肩に垂れ、男の歩き方も、膝がかくかくと折れそうだった。その横を、荷物を両手に提げた若い女が、唇を固く結んで歩いている。
誰も口を利かなかった。
最後に誰かが言葉を口にしたのは、昨夜、川を渡る前だったと思う。「もう少しだ」と誰かが言った。誰が言ったかは、もう思い出せない。
夜明け前の空気が、皮膚に刺さるように冷たかった。
老婆は足を止めずに、顔だけ上げた。
街道の先に、木の柵が見えた。
低い柵だった。背丈ほどもない。その向こうに松明の火が二つ、規則正しく並んでいる。柵の前に人影がいくつか、暗がりの中でじっと立っていた。動かない。ただ、そこにいる。
老婆の足が、少しだけ速くなった。
柵のそばまで来て、ようやく旗が見えた。夜明け前の薄明かりの中、旗の色は判別できない。だが、形は分かった。横に長い、単純な旗だ。教会連合圏の紋章ではなかった。
――あれが、魔王国の旗か。
老婆は歩きながら、その思いをただ胸の中に置いた。喜ぶ力も、安堵する力も、もう残っていなかった。ただ、あの旗の下まで行けばいい。それだけを、足の代わりに思い続けてきた。
後ろから、男の声が届いた。
「止まれ。どこへ行く」
老婆は振り向かなかった。
声には聞き覚えがあった。ここまでずっと後ろをついてきた声だ。教会連合圏の手の者が、距離を詰めてきた。足音が増えた。地面を踏む音が、近くなる。
老婆は止まらなかった。
前の男が子供を抱えたまま、半歩速めた。若い女が小走りになる。後ろの足音も速くなる。
老婆は息を絞り出すように吐きながら、それでも止まらなかった。柵まで、あと少し。……あと少しだ。
◇◇◇
同じ夜明け前。
ガルムは街道の正面に立っていた。夜明け前に守護隊を国境線に展開し、すでに一刻が過ぎていた。霜が降りた草の上に長く立ち続けても、膝も腰も、なんともなかった。寒さが骨に沁みるのはもう慣れた。それより、前から近づいてくる人の波に、目を向けていた。
数百人。
報告の通りだった。いや、報告より消耗が激しい。足を引きずっている者が多い。子を抱えている者、老いた者、荷物を両手で持ったまま肩を落として歩く者。全員の顔に、同じものが貼り付いていた。どこかで見た顔だ、とガルムは思った。
――戦場から逃げる民の顔だ。
ガルムは動かなかった。ただ立っていた。
「隊長」
隣に立っていた守護隊の隊員が、低い声で言った。
「難民の先鋒が街道に入りました。その後方から追討隊も来ています」
「見えておる」
ガルムは短く返した。目を細めて、人の流れの後方を確認した。街道の奥に、灯火がいくつか揺れている。追討隊の数は、先鋒だけで二十名ほどか。後ろにまだいるだろう。
難民の先頭が柵の手前まで来た。
老婆が一人、半ば倒れ込むように柵の前に手をついた。守護隊の一人が素早く支え、柵の内側へ引き入れた。続いて子供を抱えた男が来て、女が来て、また誰かが来た。次々と柵の内側へ流れていく。
そこへ、追討隊の先鋒が街道に姿を見せた。
「止まれ! そこの者、立ち止まれ! 魔王国への侵入を許可しない!」
声が飛んだ。難民の後ろの方にいた者たちが、足を止めかけた。子供が泣き声を上げる。
ガルムは一歩、前に出た。
守護隊が音もなく横へ広がった。十名が横一列、街道の幅をぴたりと塞ぐ形に収まった。隙間はない。全員の足が地に根を張るように止まり、盾が前に出た。
ガルムは追討隊の先鋒を正面に見据えた。
「止まれい」
先に言った。低く、静かな声だった。
追討隊の先鋒が足を止めた。隊列の先頭に立った騎士が、ガルムを見た。視線が一度、守護隊の横一列の陣形を舐めるように動いた。
「魔王国の兵か。我々は教会連合圏の追討隊だ。そこにいる者たちは国法に違反した逃亡者だ。引き渡せ。――教会の裁きを逃れた者を匿うことの意味、分かっておろうな」
「できんな」
ガルムは動かなかった。
「彼らは今、魔王国の国境内におる。この線から先は、魔王国じゃ。貴殿らに権限はない」
「国境などと――」
「線を越えるなら、わしが止める」
ガルムは一言で断ち切った。
先鋒の騎士が、視線を隣の者に向けた。何か短く言葉を交わす。それから、ガルムを正面に見て、剣の柄に手をかけた。
「……ならば実力で通る」
ガルムは返事をしなかった。
剣を抜く音が聞こえる前に、身体が動いていた。
右足を半歩引いて重心を落とす。盾を水平に構える。それだけだった。大きな動作ではない。だが、それだけで街道の幅を塞いでいた壁が、一段厚くなった。
先鋒の騎士が剣を抜いた。踏み込んで、横に薙いだ。
ガルムの盾がそれを受けた。金属が弾ける音が鳴り、剣が弾かれて空を向いた。騎士の体軸が崩れる。ガルムは盾を押し返さなかった。ただ、受けた。それで十分だった。
押し返す力を使わずに、相手の剣だけが跳ね上がった。受け損なったのではない。受け切った上で、返さなかった。騎士の目がそれに気づくまで、一拍あった。気づいた時には、もう体軸は戻らなかった。
崩れた騎士の側面に、守護隊の隊員が回り込んだ。腕を取り、地に伏せた。
体軸
残りの先鋒が動いた。三人が同時に踏み込む。
守護隊の陣形が乱れなかった。隣の者が踏み出す、盾で受ける、もう一人が内側から腕を取る。――三手、四手、五手。
流れるように三人が地に伏した。
追討隊の後方から矢が来た。
ガルムは盾を立てた。矢が二本、盾の表面に刺さった。三本目は隣の隊員の盾が受けた。それだけだった。
追討隊の動きが止まった。
静かになった。街道に倒れた先鋒の騎士たちが身じろぎする音と、後方の追討隊が足踏みする音だけが残った。誰も前に出なかった。
「……何だ、この連中は」
後方の誰かが、低く呟いた。
ガルムは動かなかった。陣形を崩さなかった。先鋒の騎士が地に伏したまま、ガルムを見上げていた。ガルムはそちらを見なかった。追討隊の後方を、ただ見ていた。
しばらく、沈黙が続いた。
追討隊が退いた。足音が遠ざかっていく。前に出る気配はなかった。
ガルムは盾を下ろした。
「捕縛した者の身柄を確保せい。負傷者がおれば手当てを」
守護隊に短く告げた。それだけだった。
◇◇◇
ゼノリスは夜明け前に城を出ていた。
ガルムから「展開完了」の報が届いた時点で馬を走らせ、守護隊が陣形を組む前には国境に着いていた。難民の者が柵に手をつくのも、ガルムが追討隊の先鋒を一言で止めるのも、その背後から見ていた。
追討隊が引いた。柵の内側は、しんと静まった。
難民たちが地面に座り込んでいた。膝に顔を埋めた者、ただぼんやりと立っている者。声がなかった。泣いている者もいたが、声にならなかった。肩が揺れているだけだった。
どこかで、誰かが地面に手をついた。ただそれだけの音が、朝の冷気の中で妙に長く響いた。
守護隊が難民を後方へ誘導し始めた。一人ずつ、順に。声をかけながら、押さず急かさず、歩ける速さで。
ゼノリスは動かなかった。
先頭に近い位置で座り込んでいた老婆が、誘導されずに残っていた。守護隊が声をかけたが、立ち上がれないようだった。ゼノリスは老婆のそばへ歩いた。
膝をついた。地面は冷たかった。霜が草の葉に白く残っている。
老婆がゼノリスを見た。目が乾いていた。泣く水分も残っていないような目だった。
「……本当に、入れてくれるのかい?」
声が砂のようにかすれていた。
ゼノリスは老婆の目を見た。乾いた目だった。泣く水分も残っていない目だった。
「はい」
一度、答えた。
「あなたも、あなたの隣を歩いてきた方も、その後ろから来る方も。全員、この国の民です」
老婆の唇が、小さく震えた。
ゼノリスはそれ以上、何も足さなかった。
老婆はしばらくゼノリスを見ていた。何かを確かめるように、じっと見ていた。それから、ゆっくり目を伏せた。
声が出ていなかった。ただ、唇が小さく動いた。
ゼノリスは何も言わなかった。老婆の手のそばに掌を置き、立つ時に支えられるようにした。それだけだった。
◇◇◇
城に戻ったのは、陽が城壁の上端を越えた頃だった。
馬の背で揺られる間、老婆の乾いた目が、ゼノリスの視界の端に残り続けていた。振り払う必要はなかった。ただ、置いたままにしておいた。
執務室の扉を開けると、ノアがすでに机についていた。帳面ではなく、羊皮紙に数字を書き並べている。ゼノリスが入ると、顔を上げた。
「お帰りなさい。受け入れた人数は、守護隊からの報告で三百を超えています」
「想定内ですか?」
「はい」
ノアは羊皮紙の端に何かを書き足した。
「評価院と復興院には昨夜のうちに連絡を入れました。今日中に仮の受け入れ窓口が設置できます。住居の割り当ては明後日から」
「ガルムのところで捕縛した者がいます。先鋒が数名」
「引き渡し先の調整も含めて処理します」
ゼノリスは椅子を引いて座った。
「ノア」
「はい」
「今朝の件は、外に伝わりますか?」
ノアがペンを止めた。顔を上げた。
「伝わります。早ければ、数日以内に教会連合圏の支配下の各地に届くと思います。難民が保護された、追討隊が止められた、という話として」
ゼノリスは机の上で指先を揃えた。
「それが、また人を動かす」
「そうです」
ノアは羊皮紙を一枚めくった。その下の紙にも、数字が並んでいた。
「これは序章に過ぎません。今朝の一件が伝わった後に来る集団は、今日より多い。規模も、速度も、上がります。受け入れ体制を段階的に拡張しないと、窓口が詰まります」
ゼノリスはノアの手元の数字を見た。
「どのくらいの規模を想定していますか?」
「現時点では、……出しません」
ノアが言った。
「出すと、その数字に引っ張られる。今は設計の土台を固める方が先です。一週間、実績を見てから修正します」
ゼノリスは頷いた。
ノアは羊皮紙に視線を戻し、また書き始めた。ペン先が細かく動く。急いでいるわけではない。ただ、止まらない。
ゼノリスは窓の外を見た。
陽が上がり、城壁の影が城下に落ちていた。街道の向こうに広がる生活圏に、今朝まで別の国にいた者たちが入ってくる。名前も、経緯も、どんな評価をつけられてきたかも、まだ何も分からない。
それでも、来た。
ゼノリスは窓から目を離した。机の上に両手を置き、次にやることを頭の中に並べた。評価院への確認。住居の手配。捕縛した追討隊員の処遇。ノアの設計を待ちながら動かせるものを、今日中に動かす。
やることは、ある。
今朝の数百人は、最初の一滴に過ぎない。




