第162話:「新たな時代の幕開け」
朝の鐘が鳴り終えても、広間のざわめきは戻らなかった。
大広間の高い天井から吊るされた灯は、今朝はどれも火勢を絞ってある。光を絞ったのはシルヴァの指示だった。段上の主役を絞り込むための、光の設計だった。
ノアは段上の脇に立ち、正面の人波を俯瞰していた。開演はまだ告げていない。にもかかわらず、ざわめきは自分から退いていく風のように、一度の波ごとに幅を狭めていた。
動員は魔王城内の広間に入れる限界まで絞ってある。入りきらない者は中庭と城下に振り分け、中継で受けることになっていた。数字は頭に入っている。広間に四百と少し。中庭に千。城下の各区画と近郊の町まで合わせれば、この瞬間に視線を向けてくる民の数は万を超す。
万、という単位を、ノアは日頃から扱う。作戦の兵員、補給の俵数、戦死想定の上限値。数字は情を含まない記号だから、扱いやすい。
だが今朝の万は、いつもの万と手触りが違った。
――数で掴めるものと、掴めないものがある。
ノアは胸のうちで一度だけそう置いた。理知で切り分けられるはずの重さが、切り分けきれずに胸の内側に残っている。その残り方を、ノアは珍しく嫌わなかった。
人波の前列には、着の身着のままで魔王国へたどり着いた者の列があった。縫い直した上着、擦り切れた袖口、足に合っていない靴。評価院を通り、各省庁の面談を経て、国民として受け入れられた者たちだ。服は新しくないが、背筋は新しかった。
その後ろに、昔から魔王領に暮らしていた者の列が続いた。自分の立ち位置を、今日まで言葉で確かめ続けてきた顔だった。
ノアは視線を段上に戻した。
中央の一段高い場に、玉座はない。今朝は意図的に外してある。代わりに低い台が据えられ、その前にカイロが、右にセラ、左にガルムが控えた。セラは明るい色の上衣の裾を軽く直し、ガルムは両腕を胸の前で組んだ姿勢を崩さない。カイロは書類を小脇に挟んだままだった。
「ノア」
小さく呼ばれて、振り向いた。シルヴァが、台の向こう側から一歩だけ近づいてきていた。
「配置、問題ありません」
「こちらも、問題ありません」
シルヴァは頷いて、元の位置に戻った。一礼の角度が浅く、足音が立たない。広間の空気がまた一段、静かになった。
◇◇◇
光が、上から降りてきたわけではなかった。
天井の梁に沿って、細い帯のような光が横に走った。一筋ではなく、何本かが同じ速度で並んだ。シルヴァが右手を胸の前に起こし、指先を軽く閉じたところだった。
映像を国内へ映し出す、遠映の術式だった。シルヴァはそれを、音を立てずに立ち上げていた。光の帯が広間の四隅に届くと、そのまま外の空気に染み出すように消えた。消えたあとも、広間の気圧がほんのわずかに変わっている感触が残った。
ノアは自分の頬に触れる空気の重さでそれを確かめた。
国内の、数万の視線が、今この広間に繋がったのだ。
「――皆さま」
低い声だった。
ゼノ様が、台の前に進み出ていた。歩幅は普段と変わらない。背丈も、佇まいも、いつものゼノ様のままだった。
ただ、視線の置き方だけが違った。
前列の難民の顔を、一人ひとりに留まるほど遅くはない速さで、順に見渡した。列の奥、靴の合っていない老人のところで、目が一度だけ止まった。それに気づいたのはおそらくノアだけだった。ゼノ様はすぐに全体へ視線を戻した。
「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」
言葉は、静かに広間に置かれた。大声ではなかった。だが、最後列の者の耳にも同じ形で届いているはずだ。声そのものが、広間の石壁に無理なくほどけていた。
難民の列の途中で、女が一人、両手を胸の前で組み直した。指の節が白くなるほどの力で、祈るような形に組み直した。
「私は、この国の王として、皆さまに一つの約束をお伝えするためにここに立っています」
ゼノ様は、そこで一度息を置いた。
広間が、息を置いた。
ノアは瞬きを止めていた自分に気づいた。
「この国では、生まれを問いません」
最初の一言が、置かれた。
「過去を問いません」
二つ目が、続いた。
「今の力だけで、その人の価値を決めません」
三つ目で、列の後方が崩れた。小さく、しかし確かに崩れた。誰かが膝から力を抜き、隣の者の袖を掴んで支え直した。息を呑む音が、その周りにいくつも重なった。一つひとつは小さい音だったが、広間の石床はそれを丁寧に集めた。
靴の合っていない老人が、口元に手を当てた。声を押し戻そうとして、押し戻しきれなかった音が、指の隙間から漏れた。
「この国が見るのは、その人の本質です。何を為そうとしているか。何を為してきたか。そして――何を為せるか。それを、正当に見ます。正当に、報います」
老人が、顔を伏せた。肩が、一度だけ上下した。泣いたというほど派手な動きではない。ただ、長く持ち歩いてきた荷物を、今この瞬間に足元へ下ろした、そういう肩の動きだった。
ノアは、胸のうちで数字を一つ足した。万の中の、一人。今、目の前で荷物を下ろした、あの老人一人。
全体を数字で数えるのか、一人ひとりとして数えるのか。自分の立ち位置が、いま、変わろうとしている気がした。
ゼノ様が、もう一度息を置いた。
広間が、息をしたまま止まっていた。吸ったきり、吐くのを忘れている、そういう止まり方だった。
◇◇◇
セレナは、段上の左側に控えていた。
藍色の瞳に、ゼノ様の背中が映っていた。台の手前に立って、広間の奥まで視線を届かせている後ろ姿。袖口の銀の刺繍が、灯の弱い光でも微かに輝いて見える。セレナは視力が戻ってからも、人を見るときに一度は目を閉じたくなる癖が残っていて、今もそれをこらえて、目を開けたまま見ていた。
ゼノ様の声は、広間の石を震わせるのではなく、石にしみ込ませるようにしてほどけていく。その感じ方を、セレナは音としても受け取っていた。楽器ではない声が、それでも音階のように整って運ばれてくる。【超記憶】で、かつて耳にした音はすべて記憶している。だから、今朝の声が、これまでのどの日の声とも違う、ということも、比べずに分かった。
演説の最後の一節が、ゆっくりと置かれた。
「――皆さまと、この国を、共に築いていきたいのです」
広間の誰も、すぐには動かなかった。拍手で応じる習慣を、この国はまだ持たない。ただ、一人、また一人と、伏せていた顔を上げていった。顔を上げるという動作が、この朝の最初の返答だった。
置いたあと、ゼノ様が半歩だけ下がった。視線が、こちらへ向いた。
「セレナさん」
呼ばれた。今日の段取りの中で、ここで呼ばれると、前日のうちに決めてあった。
「はい」
セレナは、一歩前へ出た。裾が軽く擦れる音が、自分の耳にだけ届いた。
前列の難民の女が、顔を上げていた。擦り切れた袖口の下で、白くなるほど握り合わされた指が見える。その隣の老人は、まだ肩を落としたままで、伏せた白髪に朝の光が触れていた。セレナは一人ひとりの姿を目で拾ってから、誰か一人に歌うのでも、全員に歌うのでもなく、誰でもない一人の胸の底に手を置きにいく、と決めた。
広間の空気が、息を吸うほうにそろった。
セレナは、歌い始めた。
最初の一音は、自分でも思うより低く出た。高い音から入るのをやめ、地面に近い音から入った。その高さなら、泣いている者の肩に触れられる気がした。足元から空気を押し上げていく音だった。
二節目で、少しだけ上がった。
三節目で、旋律が広間の天井に届いた。届くと、シルヴァさんの術式の光の帯に触れた。光の帯が一度だけゆるく揺れて、その揺れが国内各地へ持ち出されていくのが分かった。
歌の骨子は、春の収穫を祝う古い民謡だった。城下の市場で民婦が口ずさむのを、聴いた日があった。旋律の形はそのままに、そこへ、この国へ逃げてきた者の足音と、受け入れた者の呼吸と、婚姻の日に広場で聞いた祝いのざわめきと、さらに古い日々の断片を、記憶の底から選び取って重ねた。この国がこれまでに呑み込んできた音が、勝手に並び始めて歌の形になっていく、そんな感覚だった。
段上の右側で、シルヴァさんが目を伏せていた。
術式を支えながら、音の通り道を広げている。伏せた横顔のあたりに、白い花弁のひらめきが一度だけよぎり、すぐに引っ込んだのが、セレナの目にも見えた。感情を出さないと決めている人が、一瞬だけ許した。そんな揺れだった。
中央の低い台の前で、ガルムが胸の前に組んでいた腕を、静かに解いた。
「……今日の歌は、違うのう」
誰に言うでもなく、ガルムが言った。いつもセレナの歌に黙って耳を傾ける男が、今朝は一言だけ、外に出した。
その横で、セラが一度だけ小さく足踏みした。
「うん。今日のは、下まで落ちてる」
セラが、誰にともなく呟いた。いつもの明るい声の幅を抑えた言い方だった。いつもより低いところから入った、という意味で、セラはそれを言った。
カイロは、小脇に挟んでいた書類を、台の端にそっと置いた。書類を手から離しただけのことが、カイロにしては珍しい動作だった。
「……一曲ではない」
カイロが、低く言った。セレナが旋律を選ぶ癖をいちばん近くで見てきた男の、重なりを指した評だった。
段上の端で、ノアが視線を下ろさずに立ち続けていた。全体を数字で数えているのか、一人ひとりを数えているのか、こちらからは読み取れない。ただ、さっきまで真っ直ぐだった肩の線に、ほんのわずかな傾きが加わっているのが見えた。
セレナは、歌を細く絞った。
最後の一節は、始めたときと同じ高さに戻した。始めたところに戻すことで、輪が閉じる。閉じた輪の中に、今朝の広間と、国内のどこかの町の窓辺と、中庭で膝をついた者と、城下の路地で立ち止まった者とが、一緒に収まった。
歌い終えて、一拍だけ、空気が留まった。
光の帯が、歌の残響を最後まで運び切って、それからゆっくりと細くなった。
広間のどこかで、息が洩れた。洩れたきり戻せない種類の息だった。誰が洩らしたかは分からない。分からないことが、今はかえって正しかった。
セレナは半歩下がり、ゼノ様に場を返した。
ゼノ様が、もう一度前へ進み出た。
視線が、今度は真っ直ぐ正面へ据えられた。段上から広間の奥へ、広間の奥から中庭へ、中庭から城下へ、そして、遠映の術式を通って、国内のすべての町へ。視線が届く場所ではなかったが、届いているつもりで置かれた視線だった。
「――皆さまに、一つ、お伝えしなければならないことがあります」
声の置き方が変わっていた。約束を語る声から、道を示す声へ。
「これより、我々は、世界の真実を取り戻す戦いに出ます」
広間が、止まった。
止まったあと、前列のどこかから、先に声が上がった。どの声でもなかった。誰か一人の声ではなく、何人かの声が同じ瞬間に重なって、それが広間の石壁に吸われずに天井まで届いた。
中庭の遠い歓声が、広間にまで回り込んで聞こえてきた。遠い分だけ、輪郭が柔らかかった。
セレナは、ゼノ様の横顔を見ていた。
歓声に押し上げられる顔ではなかった。歓声を受け止めて、そのぶんだけ自分の背を低くする顔だった。受け止めたものの重さを、確かめている顔だった。
その顔を知っているのは、この広間でたぶんセレナだけだった。
ゼノ様が、ほんのわずかに息を吐いた。
セレナも、合わせて息を吐いた。
広間の光が、少しだけ明るくなったように思えた。灯の火勢は朝のままで変わっていないはずだったが、それでも明るくなったように見えた。新しい時代が、どこか別の場所から運ばれてくるのではなく、この広間で今、立ち上がってきたのだ、とセレナは知った。
次に歌うのは、祝いの歌ではない。
セレナは、そのことをもう分かっていた。これから先、誰かを送り出す歌も、帰ってこなかった者の名を呼ぶ歌も、自分の喉を通ることになる。逃げない、と決めた。ゼノ様の宣言の隣に立てる声を、自分は持っていなければならない。
セレナは、一度だけ目を閉じた。閉じた瞼の奥で、次の一音が、もう鳴り始めていた。




