第155話:「理と情の統治」
戦が終わってから、はじめて城の外を歩く朝だった。
石畳の継ぎ目が、足の裏を通して手のひらのように伝わってくる。数日前までは、この感触さえ届かなかった。踏みしめる地面が、こちらの怯えを吸って震えていたからだ。
セレナは城門をくぐり、広場を抜けて、城下へ向かって歩き始めた。
あの日まで、この道には息を詰めた空気が満ちていた。行き交う民の足が速く、声が低く、どの店の軒先も半分だけ開いていた。あれが戦時の音だったのだと、今になって気づく。
いまは違う。
荷車が石畳を転がる音。売り声が重なる音。子どもが走って転んで、それを笑う声。どれもが重なり合って、ただの雑音になっている。それが普通の城下の音だった。セレナは立ち止まることなく歩きながら、その音の層を、一枚ずつ確かめるように聞いていた。
市場に入ると、焼いたパンの匂いが鼻をついた。続いて、南方から入荷したらしい香辛料の鋭い香りが混じる。木桶を積んだ荷車が脇を通り過ぎ、セレナは一歩横へよけた。荷車を引いていた男が、振り返りもせず「失礼」と言った。謝りながら急いでいる者の音だ、とセレナは思った。それでいい。急ぐ理由が商いにあるなら、それは平和の音と同じだった。
遠くの方で鍛冶場の槌音が聞こえる。規則的な、休みのない音。こちらも数日前とは変わった。あのころは、槌が一打ち打たれるたびに、城下のどこかで声が止んだ。息を吸い込むような沈黙が、音のあいだに挟まっていた。今日の槌音には、その間がない。鍛冶師が怖がっていない証拠だった。
◇◇◇
「魔王妃様!」
声は路地の角から飛んできた。
振り向くより先に、足元に重みがかかった。子どもが二人、セレナの腰のあたりに腕を回している。もう一人が少し離れたところで止まり、恥ずかしそうに足先で石畳を蹴っていた。
「こら、いきなり抱きついちゃだめでしょ」
近くにいた母親が駆け寄ってくる。声に焦りと笑いが同時に混じっていた。セレナは首を振った。
「いいえ、大丈夫です」
膝を折り、子どもたちと目の高さを合わせる。腰に腕を回していた一人が、じっとセレナの顔を見た。
「ねぇ、歌ってくれますか?」
真剣な顔で言われた。セレナはすこし笑った。
「何がいいですか」
「知ってる歌がいい!」
「それだと、私が困ります」
「じゃあ、きれいな歌」
セレナは少し考えた。超記憶の中に積み重なった音の中から、一つを選ぶ。城下の民婦が市場で口ずさんでいた、春の収穫を祝う古い民謡。旋律だけなら、この城下で一番よく聞こえた歌だった。
一節だけ、声に出す。
路地の中の空気が変わった。荷を背負っていた男が足を止めた。隣の店の主人が、手を動かしたまま顔を上げた。離れたところにいた老人が、目を細めて、音の来る方向を向いた。
セレナは歌い終えると、静かに立ち上がった。
「もっと! もっと!」と子どもが言った。
「今日はここまでです」
「なんで?」
「もっと聴きたい人が、またここを通るかもしれないから」
子どもはしばらく考えた顔をしてから、
「……そっか」と言った。
母親が頭を下げた。隣の店の主人も、会釈をした。セレナは軽く頭を下げ返し、また歩き始めた。
◇◇◇
市場を抜けると、道がゆるやかに下る。城下の外縁に近づくほど、石畳の目が粗くなる。農地はその先にあった。
城壁の影が薄くなるあたりで、セレナは一度立ち止まった。
麦の穂が、風に揺れている。まだ青い。刈り入れには早い。ただ、揺れている。一方向に流れて、戻って、また流れる。その反復が、ずっと続いている。
土の匂いがする。城下の石と木の匂いとは違う、深くて重い匂い。セレナは目を細めてその匂いを吸い込んだ。
数日前まで、ここは戦場になるかもしれなかった。国境まで押し込まれた場合の退路として、農地は放棄される可能性があった。カイロさんからそう聞いていた。セレナは黙って聞いていた。黙っていたが、心の中では、この麦の穂の音を思い浮かべていた。風に押されて揺れる音は、すこしも変わらず、ただそこにあった。
今も、ここにある。
セレナは麦の穂をじっと見た。押されて曲がり、戻って、また曲がる。揺れるたびに葉が擦れて、ひそやかな音を立てる。その音が、今日の市場の声と重なって、城下に帰る間のどの音とも重なって、積み重なっていく。
守られた音だ、とセレナは思った。
戦の前も、麦は同じように揺れていた。同じ風に、同じ葉擦れの音で。セレナの中には、その日の音が一つ残らず残っている。あの日の音と、今日の音――旋律は同じなのに、聴こえ方が違う。
地面が違うのだ、と気づいた。怯えのない地面の上で鳴っている音は、同じ音でも重さが違う。セレナにはその違いが、言葉よりもずっとはっきりと、わかった。
これを、守ったのだ。
城に戻る時間だった。
セレナは農地に背を向け、城壁の方向へ歩き始めた。また、石畳の継ぎ目の感触が足の裏を伝ってくる。
今日聞こえた音が、すべて、まだ内側に残っていた。
◇◇◇
執務室の机の上に、書類が三列に並んでいた。
ゼノリスは一枚を手に取り、内容を確かめてから次へ移る。向かいにカイロが立っている。その隣にノアが座り、帳面を開いていた。壁際にセラが腕を組んで立ち、シルヴァが外套の裾を整えながら書架の前にいる。ガルムは扉の近くで、背を壁に預けて静かに目を閉じていた。
「まず経済から」
ゼノリスが口を開いた。
「黒門街クロムントの取引量が、先月比で三割増えています。周辺国からの商人が、正規の街道を使い始めました。しばらく前まではみな遠回りをしていましたが」
カイロが事実だけを並べた。感情がない。ただし正確だった。
「取引の内訳は」
「食料と建材が中心です。武具はほとんどありません。こちらから買いに来たのではなく、向こうから売りに来ています」
ゼノリスは頷いた。向こうから来る。それは、この国が『危険でない』と判断されたという意味だった。敵ではなく、顧客として見られ始めたということでもある。
――昨日まで、こちらは殺戮対象だった。
「教育について」
「城下の識字率、現在で六割を超えました」
ノアが帳面を一枚めくった。
「六割、か」
「遠征軍撃退後、問い合わせが増えています。親御さんが子を連れてくる件数が、先月の倍になりました。……安全だと分かったんでしょうね」
ノアの声は抑揚を欠いていた。ただ、「だから良かった」という判断が、数字の後ろに静かに貼り付いていた。
親が、子を連れてくる。その一文の裏で、何十組の親が数日前まで子を抱えて隠れていたかを、ゼノリスは想像しないようにした。
「医療は」
今度はシルヴァが口を開いた。
「城下の東棟に、術式補助の施療所を設けたいと考えています。今は魔術兵団の者が交代で対応していますが、専門の体制を作る方が損失が少ないです」
「損失、か」
「病気で働けない民が増えれば、国の生産力が下がります。感情論ではなく、効率の問題です」
セラが口を挟んだ。
「……シルヴァって、たまに言い方がひどいよね」
「事実を言っています」
「言い方の話をしてるんだよ」
セラとシルヴァが顔を見合わせた。ガルムが目を開けて、穏やかに言った。
「まあ、どちらも間違っておらんよ。嬢ちゃんも、嬢ちゃんも」
二人とも『嬢ちゃん』だった。シルヴァが微かに眉を寄せたが、黙った。
ゼノリスは手元の書類に目を落とした。
「施療所の件、進めてください。人員と場所の案を明後日までに」
「承知しました」
シルヴァが一礼した。
「それと」
カイロが一呼吸置いた。報告を並べる時には出さなかった、わずかな溜めだった。
「周辺国のいくつかが、使節の打診をしています。正式な交渉ではなく、まだ打診の段階ですが」
部屋の空気が変わった。
ノアが帳面を持つ手を止めた。セラが腕を解いて、一歩だけ机に近づいた。シルヴァが書架から離れ、ガルムは閉じていた目を開けた。五人の視線が、ゼノリスに集まる。
「どこからですか?」
「北の二国と、東の一国。いずれも、聖教会の影響圏の外縁にある国です。このタイミングで打診が来ているということは、遠征軍の失敗を見て判断を切り替えた、と見ていいかと」
ゼノリスは、しばらく書類を見ていた。指先で紙の端をなぞる。それから顔を上げた。
「受けましょう」
「ただし、こちらから動かないように。来るのは拒みません、という姿勢で。条件を整えておいてください」
「了解しました」
カイロが短く返した。ノアが帳面に何かを書き加えた。
ゼノリスは窓の外へ目を向けた。午後の光が、城壁の端にかかっている。街の音が、ここまでは届かない。だがその静けさが、今は悪くなかった。
平和は状態ではない、とゼノリスは思った。積み上げ続けることだ。経済も、教育も、医療も、外交も——どれ一つとして、勝手に続くものはない。続けることを選び続けた先にだけ、今日のこの光がある。
◇◇◇
扉がノックされた。
「どうぞ」
セレナが入ってきた。
城下の外に出ていたためか、ドレスの裾に少し埃がついている。髪が、歩いてきた風に少し乱れていた。それに気づいた様子はなく、まっすぐゼノリスを見て、一度深く息をした。
「ゼノ様、報告があります」
「どうぞ」
セレナは部屋を見回した。五人がいるのを確かめてから、静かに口を開いた。
「城下の民が、とても穏やかでした」
それだけだった。
セラが目をぱちぱちさせた。何か言おうとして、口を半分開けたまま止まった。
カイロは表情を変えなかった。ただ、書類に落としていた視線がほんの一瞬、セレナの顔に上がって、また戻った。
シルヴァが何かを考えるような顔をした。外套の裾を直す手が、いつもより緩慢だった。
ノアは帳面に目を落としたまま、口元を少しだけ動かした。音にはならなかった。
「市場では荷を急ぐ者も、呼び合う声も、みなふつうにありました。農地の麦がまだ青くて、もう少し先まで青いままでいてほしいと思いました」
ゼノリスは黙って聞いていた。
「鍛冶師さんの槌音が、怖がっていない音でした」
「……怖がっていない音」
ガルムが静かに繰り返した。感心しているのか、問いかけているのか、判別のつかない声だった。
「はい。音には、その方の気持ちが出ます。戦の前はみな、少し音が固かった」
セレナは言葉を選ぶように一度止まった。
「今日の音は、柔らかかったです。それだけ、ゼノ様と皆さんが守ってくださったということだと思って」
セラが口を開きかけて、閉じた。
カイロが書類へ視線を落とした。指先が、机の端に軽く触れた。
ゼノリスは少しだけ間を置いてから、言った。
「あなたが聞いてくれたから、私たちはそれを知ることができます」
セレナが顔を上げた。
「五人でこの部屋にいる限り、城下の音は届かない。あなたが歩いて、耳を傾けて、持ち帰ってくれる。その仕事を、今日もしてくれた」
セレナはすこし考えた。それから、静かに言った。
「私の役割は、ゼノ様の『理』を支える『情』だと思っています」
「ええ」
「ゼノ様が国を設計してくださるなら、私は民の声を運びます。それがあっての設計だと、思うから」
ゼノリスは答えなかった。かわりに、窓の外へ目を向けた。セレナも同じ方向を見た。
城下の向こうに、農地が広がっている。その先に街道があり、街道の先に国境があり、国境の向こうに世界がある。夕方の光の中で、地平線の端がかすかに揺らいでいた。
セレナが耳を澄ますような仕草をした。目を細め、首をわずかに傾けた。
「……ゼノ様」
「何ですか」
「遠くの方で、何かが動き始めている気がします」
ゼノリスは窓の外を見たまま、答えた。
「ええ」
それだけ言った。しかしセレナには分かった。ゼノ様は、既に知っている。使節の打診も、その向こうで蠢くものも、たぶん自分が市場を歩く前から。それでもこの人は、自分の耳が持ち帰る音を待っていてくれたのだ。
二人は並んで、窓の外の光を見ていた。日が傾き、城壁の影が城下に伸びてくる。城下の音が、遠くで静かに続いている。
その音の層の、さらに遠く——国境の向こうで、別の音が立ち上がろうとしていた。まだ耳には届かない。だが確かに、始まっている。
今日が終わっていく。
そして、明日が始まる。




