表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
154/175

第154話:「平和の宣言」

 耳の奥で、まだ昨日の声が鳴っていた。


 城壁の下から立ち上がった歓声。石の壁を伝って足元まで届いた、あの厚い震え。ゼノリスは執務机に肘をつき、指の腹で自分のこめかみを押した。音はもう、どこにもない。朝の鳥の声と、遠い城下のざわめきだけが、窓の外にある。


 朝の光が、執務室に差し込んでいた。


 石床を照らす細い筋が、書類の山をかすめて、机の端に落ちている。ゼノリスはその光の線をしばらく見ていた。光が、昨日までの光とは違って見えた。同じ角度、同じ明るさ、同じ時刻。違うのは、見ている自分の内側だった。


 終わった、という感覚は、不思議と静かだった。嵐の後の空に似ている。何かが来る前の緊張でも、何かが去った後の虚脱でもない。ただ、地面がある。足元に、確かな土がある。


 扉を叩く音がした。


「どうぞ」


 ノアだった。脇に書類を挟み、いつものように音もなく入室する。続いてカイロが入ってきた。手に羊皮紙の束を持っている。


「報告をお願いします」


 ゼノリスは言った。


「被害、ゼロです」


 ノアが先に口を開いた。感情のない声だった。ただし、その「ゼロ」という言葉の重さは、本人も理解している。


「教会連合圏の遠征軍、四百。対するこちらの展開兵数、守護隊四十、騎士団八十、合わせて百二十。軽傷者はいますが、ほぼ全員が無傷です。また、敵が国境の線を越えた記録、一件もありません」


「ゼロ、か」


 ゼノリスは言葉を繰り返した。数字として聞いていながら、それが現実として腹に落ちるまでに、少しだけ間があった。


 一人も、欠けなかった。


 四百の軍勢が国境に押し寄せて、それを百二十で受けて、誰も死ななかった。誰の家族にも、知らせなくてよかった。誰の帳面にも、新しい名前を書き加えなくてよかった。


 ゼノリスは、一度だけ目を閉じた。


 それから、机の上の羊皮紙に視線を戻した。


「通知は?」


「こちらです」


 カイロが羊皮紙の束を机に置いた。


「周辺諸国への通知文、全十二通。昨夜のうちに草案を上げました。内容は、教会連合圏の侵攻の事実と、その完全な撃退。被害ゼロの結果。以上の三点を、事実のみで記述しています」


 ゼノリスは束を手に取った。一枚ずつ、視線を走らせる。


 文面は簡潔だった。余計な言葉がない。装飾も誇張もなく、起きたことだけが並んでいる。カイロらしい仕事だった。


「ここを、一か所だけ」


 ゼノリスは三枚目を机に置き、文中の一行を指で示した。


「『撃退した』ではなく、『侵入を許さなかった』に変えてください。意味は同じですが、受け取る側の印象が変わります。この国が攻撃的に動いたのではなく、守ったという事実が伝わるように」


 カイロは一拍置いて、「了解です」と言った。


 ノアが手元の別紙に、音もなく書き留めている。


「送る段取りは?」


「本日中に早馬で送ることができます」


 カイロが答えた。


「ただ」


 一瞬、間があった。


「……想定より、早かったですね」


 淡い声だった。感嘆でも称賛でもない。だが、カイロが『想定』という言葉を使うとき、それは計算の外に出た何かへの、静かな確認だ。


「早かった」


 ゼノリスは繰り返した。


 カイロの『想定』には、敵の数、兵力差、地形、天候、あらゆる数字が入っている。その全部を足し算しても出てこない余りが、昨日の戦場にはあった。


「ガルムとセラが、そうしたんでしょう」


 それだけ言って、書類を閉じた。


◇◇◇


 ノアとカイロが退室して、しばらくが経った頃、もう一度扉を叩く音がした。


 今度は違う。軽い。二回、間を置いて、また二回。


「セレナさん、どうぞ」


 扉が開いた。


 セレナが入ってきた。白い長衣の裾が、石床を静かに擦る。藍色の瞳がゼノリスを見つけ、扉の縁からそっと手を離した。室内の空気を確かめるように、少し間を置いてから歩み出す。


「邪魔でしたか?」


「いいえ。ちょうど一段落したところです」


 セレナは扉の近くで立ち止まった。中に踏み込む前に、いつも少し間を置く。部屋の空気を確かめる癖は、目が見えなかった頃のままだ、とゼノリスは思った。


「音を聞いて、来ました」


 セレナは言った。


「朝の、広場の音です。何かが、変わっていました」


「……どう変わりましたか」


 セレナは少し考えるように、首をかたむけた。


「昨日までの音は、ずっと張っていました。水を張った器みたいに。何かが一滴落ちれば、揺れて、広がって、端まで届いてしまう。そういう音でした」


 ゼノリスは黙って聞いた。


「でも、今朝は違います。同じ数の人がいても、声の立ち方が違う。落ち着いています。底が深くなった感じがします」


「底が深い」


「はい。揺れても、端まで届かない。器が大きくなったような音です」


 ゼノリスは窓の外へ視線を向けた。


 朝の城下から、低い話し声と、荷車の軋む音が届いてくる。聞けば確かに、昨日とは違うかもしれない。だが自分には、セレナほど細かくは聞き取れない。それは彼女だけが持つ耳で、昨日の防衛が民にもたらしたものを、音として受け取っているのだった。


「確かに」


 ゼノリスは言った。


「終わりました。昨日、教会連合圏の遠征軍を完全に撃退しました。被害は一切ありませんでした」


 セレナの表情が、わずかに動いた。目が伏せられ、唇がかすかに開く。声は出なかった。かわりに、ゆっくりと息を吐いた。


「そうですか」


 静かな声だった。


「……よかった」


 ただそれだけだった。余分な言葉はなかった。セレナの『よかった』は、何かを飾る言葉ではない。長く沈めていたものが、静かに浮き上がってきた言葉だ、とゼノリスは思った。


「セレナさん」


「はい」


「少し、後で時間が取れますか? 広場に出ようと思っているのですが」


 セレナは一拍置いてから、頷いた。


「一緒に、行ってもいいですか?」


「むしろ、そのつもりで声をかけました」


 セレナの口元が、静かに動いた。笑ったのだとわかったのは、その後に声が出なかったからだ。音にならない分だけ、確かなものに見えた。


◇◇◇


 午後の日差しは、柔らかかった。


 城門をくぐると、広場の石畳に人影が散らばっていた。荷を下ろして一息ついている者、子どもを連れて歩いている者、石の縁台に腰かけて隣の人と話している者。誰も急いでいない。誰も、空を見上げていない。昨日まで、民の顔は無意識に上を向いていた。国境の方角を探すように、遠くの音を拾おうとするように。


 今日は違った。


 ゼノリスは広場の端に立ち、人の流れをしばらく見ていた。隣にセレナがいる。白い長衣の裾が、石畳の上でわずかに揺れている。


 そこへ、足音が二つ重なって近づいてきた。


「来ましたよ」


 セラだった。軽装のまま、腕を組んで、ゼノリスの隣に並ぶ。その後ろから、ガルムが静かに続いた。鎧を脱いで平服に着替えているが、立ち姿の重さは変わらない。


「どうしたんですか、二人とも」


「どうしたも何も。ゼノ様が広場に出ると聞けば」


 セラは肩をすくめた。


「来ますよ、普通」


 ガルムが一歩前に出て、広場を見渡した。


「昨日と、空気が違うな」


 低く、独り言のように言った。セラが「そうですか?」と首を傾けて、ガルムの視線の先を追う。


「昨日は皆、どこかに力が入っておった。足の踏み方、声の出し方。それが今日は……」


 ガルムは言葉を止めた。続きは出てこなかった。だが、止めた場所に、意味があった。


 セレナが、静かに口を開いた。


「抜けたんです」


 三人の視線が、セレナに向いた。


「張っていたものが、抜けました。昨日の朝まで、皆さんの足音には硬さがありました。今朝は、それがもうありません」


 ガルムが、ゆっくりと頷いた。何も言わなかった。


 セラは広場の人々を見て、それからゼノリスを見た。


「ゼノ様」


「はい」


「今日、何か言うつもりですか?」


 ゼノリスは少し考えた。


「言うつもりで来たわけではありませんでした……」


「でも、来た」


「ええ。ここが見たかった」


 セラは視線を広場に戻した。


「だったら、言った方がいいと思います。ゼノ様の声で。今日だから意味がある言葉があると思う」


 ゼノリスは返事をしなかった。かわりに、広場の中央へ向けて、ゆっくりと歩き始めた。


◇◇◇


 足音に気づいた者が、最初に振り返った。


 それが隣に伝わり、また隣へと伝わった。荷を持っていた手が止まり、話の途中で顔が上を向いた。子どもが母親の袖を引いた。波紋のように静けさが広がって、広場の中央に人の視線が集まった。


 ゼノリスは石畳の上に立った。


 衣は平服のままだ。騎士団も守護隊も呼んでいない。壇もない。ただ、昼の光の中に立っている。


 ゼノリスは、広場の端から端までをゆっくりと視線でなぞった。石畳の継ぎ目、子どもを抱え直す母親の腕、荷車の車輪を押さえる老人の指。一人ずつの暮らしが、そこにあった。守ったのはこれだ、と思った。


「昨日、教会連合圏の遠征軍が国境に侵攻しました」


 静かな声だった。広場に響かせようとしたわけではない。だが、静けさの中では十分に届いた。


「守護隊とガルム隊長が、国境の線で完全に防ぎました。騎士団のセラ団長が、敵の前衛を単独で瓦解させました。この国の土を、一歩も踏ませませんでした」


 誰かが息を呑んだ。


「被害はゼロです。国民に、一人の負傷者もいません。守護隊にも、騎士団にも」


 言葉が、石畳に落ちていった。


「今後、同様の侵攻があった場合も、同じように防ぎます。この国が続く限り、皆さんの暮らしを脅かすものは、ここを通しません」


 返事は、すぐには来なかった。


 広場が、静止していた。一拍、二拍。それから誰かが声を上げた。一つの声が呼び水になって、また一つ、また一つ。それが束になって、広場の石畳から空へ向かって上がっていった。


 歓声ではなかった。正確には。


 高揚した叫びではなく、長く閉じていたものが開く音に近かった。安堵と、確信と、それまで飲み込んでいた何かが、一度に外へ出てくる音。


 ゼノリスはその場に立ったまま、声が上がりきるのを待った。


◇◇◇


 人が少しずつ散け、広場に空白が戻ってきた頃、セレナがゼノリスの隣に立った。


 セラとガルムは少し離れた場所にいる。セラが石畳の上で爪先を動かしながら宙を見ている。ガルムは腕を組んで、広場の出口の方を向いている。


「ゼノ様」


 セレナが言った。


「さっきの声。あれは昨日と、また違いました」


「どう違いましたか」


「昨日は、外に向かう声でした。城壁に向かって、遠くに向かって、打ち上げるような。でも今日は……」


 セレナは少し間を置いた。


「内側に向かっていました。自分たちの中に、帰ってくる声」


 ゼノリスは、広場の端に残った人影を見た。石の縁台で話し込んでいる二人がいる。子どもが広場を走り回っている。それを呼び止めようとした母親が、途中で手を止めて、笑っている。


 内側に帰る声、とゼノリスは思った。


 それが平和の音なのかもしれない。外を警戒することをやめて、内側の日常に戻っていく音。昨日の歓声より、今日の声の方が、ずっと深いところから来ている。


「セレナさん」


「はい」


「あなたがそれを聞き取れるのは、あなたがずっと、この国の音を聞いていたからですね」


 セレナは少し沈黙した。


「……私には、聞かなければわからないことが多いので」


 それだけ言った。言い訳でも謙遜でもなく、自分の歩いてきた道を確かめるような言葉だった。


「だから、聞くことをやめられないのです。でも」


 セレナの声が、かすかに変わった。


「聞いていてよかったと、今日は思いました」


 ゼノリスは前を向いたまま、答えた。


「私も、同じです」


 広場に、荷車の音が戻ってきた。石畳の上を、鉄の車輪が転がっていく規則的な音。遠く城下の方から、鍛冶場の槌音が聞こえる。鳥が一羽、城壁の上を横切った。


 日常が、戻ってきている。


 ゼノリスはセレナの隣に立ち、広場を眺めた。


「これから、真の国造りが始まります」


 声は小さかった。セレナにだけ届く、それだけの大きさで言った。


 セレナは返事をしなかった。かわりに、ゆっくりと、ゼノリスの隣で顔を上げた。


 広場の向こうで、セラが伸びをした。ガルムが短く何か言った。セラが笑い返した。二人の声が、石畳の上を転がって、ゼノリスのいる場所まで届いてきた。


 それで十分だった。


――今日までが、守ることだった。


 明日からは、築くことが始まる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ