第153話:「揺るがぬ城壁」
ペンが、止まった。
ゼノリスの手の下で、書きかけの文字がわずかに滲んだ。足音だった。廊下の石を踏む、速く、迷いのない足音。この音を持つ者は、一人しかいない。
扉が開いた。
カイロが、いつもと変わらない顔で入ってきた。感情を削ぎ落とした平坦な顔。だが、扉を閉める動作が、わずかに速い。
「教会連合圏の遠征軍が国境に迫っています」
短く、結論から言った。
「シルバー級とゴールド級の騎士団が大森林を抜け、再生地方面から進軍中です。このままであれば、日没前には国境境界帯に到達する見込みです」
ゼノリスは立ち上がった。
机の端に広げてある地図に目を落とした。大森林から伸びる街道。再生地を経て、生活圏の農地へ続く道筋。敵を入れさせてはいけない線が、地図の上に一本、はっきりと見えた。
「数は?」
「斥候の報告では、三百から四百。隊列の幅から見て、正規編成です。刺客とは違う。正面からぶつかるつもりでしょう」
ゼノリスは地図から顔を上げた。
「ガルムとセラには?」
「すでに連絡済みです」
ゼノリスは頷いた。
「カイロ」
「はい」
「守護隊と騎士団を、国境境界帯の内側に展開してください。民が農地にいる場合は、城下へ引き上げさせること。ただし、混乱させないように」
「承知しました」
カイロは一礼し、扉の向こうへ消えた。足音がなかった。廊下に出ても、気配が残らない。
ゼノリスは窓の外を見た。
晴れた朝だった。城下の屋根が光を受けている。市場の声が、かすかに届いてくる。祝祭から数日が経ち、民の生活は元に戻っていた。朝が来て、人が動いて、街が息をしている。
その外側で、何かが近づいてきている。
ゼノリスは、窓の縁に指を置いた。晴れた朝の光が、指先にかかった。
「この国には」
声は、静かだった。静かな声のまま、下は揺らがなかった。
「一歩も、入れさせない」
◇◇◇
再生地の平野は、風が強かった。
ガルムは布陣の最前列に立ち、南西の方角を見ていた。大森林の稜線が、地平の向こうに黒く連なっている。この線を、敵に越えさせない。国境境界帯と生活圏の境、緩衝地帯を抜けてすぐの平野に、守護隊と騎士団が展開していた。ガルムの足が踏んでいるのは、民の農地へ続く街道の、その一歩外側だった。
土煙が上がっていた。
一筋ではなかった。幅のある、横に広がった煙だった。大森林の向こうから、遠征軍が緩衝地帯へ入ってくる。人と馬と鉄が、まとまって地面を踏んでいる。あの煙の量は、百や二百ではない。
「ガルム」
声が、右から来た。
振り向くと、セラが砂塵を蹴って駆け寄ってきたところだった。軽装だった。鎧はない。手には何も持っていない。薄手の上着と動きやすい脚衣。それだけだった。
土煙が近づく。
その正面に、小柄な体がふわりと並んで立った。鉄の波と、素手の少女。絵として、釣り合っていなかった。
「多い!」
セラの声は、緊張を一切帯びていなかった。大森林の縁から溢れてくる人の塊を、まるで祭りの人混みでも眺めるように見ている。
「そうじゃな」
ガルムは正面を向いたまま言った。
「あちらは数で押してくる気だ。力でねじ開けるつもりでおる。……だが、この線から先へは、一歩も踏ません」
ガルムは、足元に視線を落とした。自分が立つ、この一点を。そして、自分の左右に延びる、見えない線を。
セラは腕を組んだ。土煙を見つめたまま、少し黙った。それから、口の端を上げた。
「私は、どんどん行っていいですか?」
「嬢ちゃんには、守りは頼まん。攻めは任せる」
「了解!」
セラはふっと息を吐いた。緊張で吐く息ではない。走り出す前の、弾みをつけるための呼吸だった。
背後の平野に、守護隊が横に広がっていた。バルカを先頭に、隊員たちが左右に散って陣形を敷いている。騎士団の一部が、その後方で控えていた。誰も城壁の内側にはいない。全員が、国境の線の上に立っていた。
土煙が、さらに近づく。
稜線の手前に、黒い塊が滲み出した。点ではなかった。横に広がった、分厚い壁のような塊だった。先頭の旗が光を受けて翻った。金と白。教会連合圏の紋章だった。
足音が届いてきた。
一人の足音ではない。百の、二百の、それ以上の足音が重なって、低い振動になっていた。地面が揺れているというより、空気が揺れている。ガルムの足元の草が、かすかに鳴った。
ガルムは盾を持ち直した。
左腕が、盾の重さを受け止めた。ひび割れた盾の縁を、指が確かめるように握る。何度も繰り返してきた動作だった。
「来るぞ」
声は低く、静かだった。
バルカの右手が上がった。守護隊全員の視線が、正面に揃った。
遠征軍の先頭が、緩衝地帯を抜けた。大森林の陰から、陽光の下へ踏み出した。旗が増えた。馬が増えた。隊列の後方まで見渡せないほどの、分厚い人の塊が、国境の線に向かって動いてくる。
指揮官らしき騎馬の人物が、先頭で剣を掲げた。
遠征軍が、動いた。
矢が来た。
先頭の弓兵が一斉に引き絞り、布陣に向けて放った。数十本が束になって弧を描く。風を切る音が、波になった。
届かなかった。
守護隊の前方、空気の継ぎ目のような線に当たって、矢が折れた。先端が潰れ、軸がひしゃげ、草地に落ちた。一本も、ガルムの隊にも、後方の騎士団にも届いていない。
遠征軍の動きが、一瞬止まった。
次に魔術が来た。後方の術師たちが詠唱を揃え、炎の塊を布陣へ叩きつけた。轟音が空気を揺らした。煙が上がった。だが、煙が晴れた後、守護隊の前の草は焦げてもいなかった。火は線に届く前に、空中で散っていた。
「何だ、これは!」
指揮官の怒声が届いた。遠征軍の隊列が揺れた。術師が再び詠唱を始め、別の一隊が布陣の正面へ向けて走り出した。破城槌を担いでいた。十数人がかりの、鉄を巻いた丸太だった。
ガルムは動かなかった。
盾を構えたまま、国境の線の上に立っていた。左腕の筋が熱い。権能の維持は、体への負荷を伴う。だが、この程度ならば問題ない。自分の足元から左右へ、見えない線が引かれている。その線の上に、『ここを通さない』という理が刻まれている。
破城槌が、線に届いた。
音がした。鉄が、何もない空気に叩きつけられる、鈍い衝突音だった。丸太は進まなかった。破城槌を担いだ兵たちが、反動で後ろへ弾かれた。数人が地面に転がった。
二度、三度。同じことが繰り返された。結果は変わらなかった。
遠征軍の指揮官が、馬上で何かを叫んでいた。隊列が組み替えられ、別の角度から攻撃を仕掛けようとしている。布陣の左右に散開し、迂回路を探している。
無駄だった。
ガルムは布陣の線の上を移動した。散開した遠征軍の動きを見ながら、先回りして立ち位置を変える。ガルムが立った場所だけが、壁になる。国境の線の全面が、ガルム一人で覆われている。
バルカの声が、右手から飛んだ。
「隊長! 右翼が回り込もうとしています!」
「見えておる」
ガルムはすでに右翼の端に移動していた。線の上を、静かに、しかし一切の遅れなく。
◇◇◇
ガルムの盾が、一瞬だけ揺らいだ。
揺らいだのではない。一点だけ、わざと『通した』のだった。
セラが、線を越えた。
軽装のまま、布陣の最前から歩み出した。遠征軍の先頭から、百歩も離れていない、国境の線のすぐ外側。
遠征軍の前列が、動きを止めた。
小柄な体が、一人で線の外に立っている。鎧もなく、武器もない。それがかえって、遠征軍の兵たちの動きを狂わせた。何をしてくる気か、読めない。
「この国は」
セラは言った。
「私たちが守ります!」
体が、怒号と共に消えた。
いや、消えたのではない。速すぎて、見えなかった。音速を超えた突進が、空気を引き裂いた。遠征軍の先頭が反応する前に、セラはすでに先鋒の真ん中にいた。
右の拳が、先頭の騎馬兵の胸当てを打った。
金属が、内側から弾けた。鎧ごと、騎馬兵が吹き飛んだ。馬から離れ、後方の兵列に突っ込んで、数人をまとめて地面に叩きつけた。
魔力感知が、鳴らなかった。
術師たちが術式を構えたまま、対象を見失っていた。魔力がない。感知に引っかからない。どこにいるか、追えない。
左の肘が、横から来た兵の顎を跳ね上げた。続けて足払い。地面に落ちた兵の上を踏み越えて、次の一人の胴を掴み、そのまま後方へ投げた。飛んだ体が、密集した兵列に突っ込んだ。
崩れた。
一点が崩れると、周囲が連鎖した。押し合っていた隊列が、内側から瓦解していく。前の列が後ろに倒れ、後ろの列がそれに巻き込まれる。指揮官の怒声が飛んだが、届かなかった。
術師が詠唱を完成させた。炎の槍が、セラに向かって放たれた。
セラは横に動いた。炎の槍が空を切った。次の詠唱が始まる前に、セラは術師の前に立っていた。術師の肩を両手で掴んで、後ろへ押し倒した。術式の光が、空中で霧散した。
後方の指揮官が、後退の号令を出した。
◇◇◇
撤退の合図が、かすかに聞こえていた。
ゼノリスは、城壁の歩廊の端に立っていた。
執務室を出てから、気づけば足は自然と階段を上がっていた。城壁の上が、一番よく見える場所だったからだ。
ゼノリスは、歩廊の胸壁に据え付けられた遠見の魔導具に手をかけた。シルヴァの魔術研究室で作られたそれは、遠くの光を拾い、レンズの向こうに鮮明な像を映し出す。
視界の先、遠征軍の旗が大森林へ吸い込まれていくのが見えた。平野には、退き遅れた兵が散らばって転がっている。だが、国境の線の内側には、一人も踏み込めていない。
レンズを動かし、布陣の最前線に焦点を合わせた。
そこには、土埃を払う様子もなくこちらを見上げるセラの姿があった。肉眼では、ほとんど見えない距離だが、レンズ越しに見るその口元は、はっきりと弧を描いている。
――終わった!
セラが、そう叫んでいるようだった。レンズの向こう側を確信したように大きく手を振った。
その隣で、ガルムが布陣の線の上で盾を下ろした。左腕をさすり、固まっていた筋を解く仕草までが克明に映し出される。彼はひとつ、深く息をついた。
ゼノリスは魔導具から指を離した。
眼下では、生活圏の平野を覆っていた目に見えない緊張の糸が、ようやくほどけていった。
「数時間で、こうなりますか」
カイロが、ゼノリスの隣に立っていた。足音も気配もなかった。
「ええ。ここは、そういう国ですから」
ゼノリスは視線を城壁の下へ向けた。
城門前広場には、いつの間にか民が集まっていた。農地から引き上げてきた人々が、城壁のこちら側で何かを囁き合っている。
ゼノリスは城壁の縁に近づいた。
民たちの顔が、上を向いた。帯が解けるように、静寂が広がった。それから、誰かが叫んだ。
「魔王様!」
一人ではなかった。
「この国は無敵だ!」
別の声が続き、また別の声が重なった。広場のあちこちから、声が上がり、渦になった。
ゼノリスは城壁の上に立ち、民の方を向いた。
晴れた空の下、国境の向こうでは敵の旗が地平へ吸い込まれていく。城壁の内側では、民の声が渦を巻いている。祝祭の夜に篝火が灯っていた広場が、今は昼の光の中で、顔と顔で埋まっていた。
平野の布陣から、ガルムとセラが城壁を見上げていた。二人の影が、草地に長く落ちている。
「この国は」
声が、自然に出た。城壁の上から、民たちに届く声で言った。
「誰にも侵させません。皆さんは安心して暮らしてください」
歓声が、波になって城壁を打った。
カイロが、一歩後ろで静かに立っていた。ゼノリスは前を向いたまま、誰にも聞こえない声で言った。
「もはや、この国を脅かす者はいない」
言葉が、風に溶けた。溶けて、民の歓声の中に紛れていった。




