第152話:「闇からの刺客」
兵士の膝が震えていた。
廊下に駆け込んできた男は、胸当ての留め具が外れかけている。走りながら装備を整える余裕もなかったのだろう。額に汗が浮き、息が荒い。だが、それ以上にゼノリスの目を引いたのは、男の顔から血の気が引いていることだった。
「報告します。城壁の外、南東の森の際で不審な人影を複数確認しました。数は十から十五。装備は軽装、武器を帯びています」
声が上ずっている。だが、報告の手順は崩していない。訓練が体に入っている兵だった。
「確認した時刻は」
「先刻です。哨戒の交代時に、城壁上の見張りが動きを捉えました」
ゼノリスは頷いた。
隣にセレナがいた。さきほどまで篝火の灯りの中を歩いていた。窓から差し込む橙の光が、セレナの銀髪に残っている。藍色の瞳がこちらを見ていた。不安ではなかった。問いかけるような目だった。
「セレナさん、先に部屋へ戻っていてください」
声を落とした。セレナの肩に触れかけて、止めた。今は、指先に余計な感情を乗せるべきではなかった。
「……分かりました」
セレナは一度だけ頷いた。振り返らずに廊下を歩いていく。背筋が伸びていた。足音が静かに遠ざかる。
ゼノリスは兵士に向き直った。
「カイロに伝達を。執務室で待つ、と」
「はっ。……カイロ様は、すでに執務室におられます」
言葉が途切れた。兵士はきまり悪そうに、あるいは困惑したように視線を彷徨わせた。報告を受けるより先に、カイロが動いている。いつものことだった。
ゼノリスは廊下を歩き出した。窓の外で、まだ祝祭の音がしている。太鼓の低い響きと、誰かが歌う声。広場の篝火が夜空を焦がしている。その下で、民は笑い、酒を酌み交わしているはずだった。
足を速めた。
執務室の扉は開いていた。
中に入ると、灯りは卓上の燭台一つだけだった。炎が小さく揺れている。壁に影が這い、書架の背表紙がぼんやりと浮かんでいる。窓は閉じられていた。外の音が遠い。
カイロが机の前に立っていた。
外套を羽織ったままだった。祝祭の広場で城壁の陰に背を預けていた姿のまま、ここに来ている。
「魔王国宣言への反応ですか?」
「おそらくは。宣言から半日と経っていません。事前に潜伏していた連絡役が信号を出した可能性があります。待機していた部隊が動いたと見るのが自然です」
ゼノリスは椅子に座らなかった。机の縁に手を置き、燭台の炎を見ていた。
半日。祝祭の歓声がまだ残っている夜に、もう刃が向けられている。宣言を聞いてから派遣したのではない。宣言を見越して、あらかじめ配置していた。
「目的は?」
「混乱の最中の要人暗殺。最も効率が良い。祝祭で警備が緩むと踏んだのでしょう」
カイロの目がこちらを向いた。燭台の炎が切れ長の目元に影を落としている。
「ですが、緩んでいません」
ゼノリスは頷いた。カイロが祝祭の間も城壁の陰から動かなかった理由が、今になって繋がった。警備の確認、と言っていたのはセレナへの言い訳ではなかった。
「ガルムは?」
「守護隊に警戒を発令済みです。ガルムは城門脇の詰所から城壁へ上がっています。バルカが南面、ミレイナが東面の指揮に就きました」
すでに配置が終わっている。カイロが報告を受けた時点で、守護隊への伝達も済ませていたということだった。
「カイロ」
名前を呼んだ。カイロの肩がわずかに動いた。
「民には気づかせないでください。祝祭を止める必要はありません」
「承知しました」
返答は一言だった。短剣の柄から手が離れ、外套の裾が翻った。扉に向かう足音がない。影のように執務室を出ていく。
一人になった。
窓の向こうから、まだ歌が聞こえている。遠い。薄い硝子越しに届く音は、さっきまで隣で聴いていたものとは別のもののように感じられた。
ゼノリスは窓に近づき、留め金を外した。夜風が入ってきた。祝祭の煙と、篝火の熱を含んだ空気。風に乗って、民の笑い声が届く。
この音を守る。
拳が、机の上で握られた。
◇◇◇
城壁の上は、風が冷たかった。
ガルムは石の歩廊に立ち、外を見ていた。城壁の高さは人の背丈の五倍ほどある。そこから見下ろすと、城下の屋根が暗がりの中に並んでいた。その向こうに、城門前広場の篝火が揺れている。橙の光が煙と一緒に空へ昇り、風に流されて散っている。
笑い声が聞こえた。遠い。広場の音は城壁の上まで届くが、言葉の形を失っている。ただ、人が楽しんでいることだけが分かる音だった。
ガルムの背後に、守護隊の兵が整列していた。
誰も口を利いていなかった。祝祭の夜だったが、警戒が発令された瞬間に、全員が持ち場に就いている。松明の代わりに、壁際に小さな灯りが等間隔に置かれていた。城壁の外からは見えない位置に。
「隊長」
低い声が横から来た。バルカだった。獣人族の広い肩が、暗がりの中で城壁の石に並んでいる。
「南東の森の際、動きが増えています。十二。うち三が先行しています」
「速さは」
「走ってはいません。這うように前進しています。城壁の死角を縫おうとしていると思われます」
ガルムは頷いた。
城壁の死角は、わし自身が把握している。守護隊が配置についてから、全ての死角に兵を置いた。縫える隙間はない。
視線を城下に戻した。篝火の灯りの下で、まだ民が歩いている。子供の姿は減ったが、酒を手にした男たちが通りに溢れていた。笑い声が重なり、歌が途切れ途切れに聞こえる。
あの中の誰一人、城壁の外で何が動いているか知らない。知る必要もない。
「バルカ。東面のミレイナに伝えろ。動くな、と。こちらが引き受ける」
「了解」
バルカの姿が城壁の闇に溶けた。
ガルムは盾を左手に取った。
ひび割れた巨大な盾だった。何度も叩かれ、削られ、欠けた縁が夜の灯りを鈍く反射している。この盾は飾りだった。飾りというのは語弊がある。戦場で何百という刃を受け止めてきた本物だが、今のガルムにとっては、もう盾の硬さで守る段階にはいなかった。
それでも、持つ。
形から入る。老いた騎士の癖だった。
風が変わった。
南東の方角から、夜気の匂いに混じるものがあった。革と油。武具に塗る油の匂いだった。近い。
城壁の縁に歩み寄った。胸壁の隙間から、外の地面を覗き込む。
暗かった。月明かりが雲に遮られている。だが、地面の色が一か所だけ違う。草の上を何かが動いていた。低い。城壁の根元に向かって這い寄っている。
一人ではなかった。その後方に、さらに影が続いている。三つ、四つ。闇に紛れようとしているが、動きの質が揃いすぎていた。訓練された集団だった。
ガルムは城壁の上で姿勢を正した。
盾を左手に構え、右足を半歩前に出した。城壁の石が、靴底の下で軋む。
息を吐いた。
意識を集めた。城壁の石ではなく、その下の空間。城壁と地面の間。刺客が這い上がろうとする、その一帯。
――ここは、通さない。
ガルムの足元から、空気の質が変わった。見えるものではなかった。色も光もない。だが、ガルムの前方の空間が、固まった。目に見えない、だが確かにそこにある壁が、城壁の表面を覆っている。
最初の一人が、城壁に取り付いた。
手が石を掴もうとした瞬間、弾かれた。指が石の表面に触れる前に、何もない空間に叩き返されている。男が地面に転がった。声は出さなかった。だが、体勢を崩した。
二人目が短剣を突き立てようとした。三人目が鉤縄を投げた。どちらも同じだった。刃も鉤も、城壁に届く前に空中で弾かれている。
動きが止まった。
城壁の下で、刺客たちが這いつくばったまま動けなくなっていた。壁に触れられない。刃が通らない。道具が届かない。登る手段が、すべて潰されている。
「……何だ、これは」
声が漏れた。刺客の一人だった。闇の中で、困惑が滲んでいる。
ガルムは城壁の上から見下ろしていた。
「この国には」
声を落とした。城壁の下に届く程度の、低い声だった。
「誰も、手を出させん」
刺客たちの顔が上がった。城壁の上に立つ巨大な影を見た。月が雲間から覗き、鉄灰色の鎧が鈍く光った。
後方の刺客たちが動いた。撤退ではなかった。複数が同時に立ち上がり、城壁の別の箇所に向かって散った。包囲を変えようとしている。
無駄だった。
ガルムは城壁の歩廊を歩き出した。盾を構えたまま、刺客が散った方角へ向かう。足が止まるたびに、その前方の空間が固まった。一か所、また一か所。ガルムが立った場所だけが、壁になる。
散った刺客たちが、それぞれの場所で同じ結果に行き当たった。触れられない。登れない。
守護隊が動いた。
城門が静かに開いた。城壁の下へ、守護隊の兵が左右から回り込む。バルカが先頭だった。声を出さず、手信号だけで部下を導いている。刺客たちが振り返った時には、背後を塞がれていた。
抵抗する者がいた。短剣を振るった。バルカの腕が短剣ごと相手の手首を掴み、ねじり上げた。骨が軋む音がした。別の刺客が逃走を試みたが、脚を払われて地面に叩きつけられた。
一人、また一人と、地面に組み伏せられていく。
声はほとんど上がらなかった。守護隊も刺客も、互いに口を開かなかった。城下の祝祭の音だけが、遠くで鳴り続けている。
終わった。
バルカが城壁の上を見上げた。右手を挙げた。制圧完了の合図だった。
ガルムは盾を下ろした。左腕の筋が熱い。権能の維持は、体に負荷を残す。だが、この程度ならば、明日には消える。
城下の方を見た。
広場の篝火が、まだ燃えている。祝祭の音は途切れていなかった。誰も気づいていない。
それでいい。
この壁の外で何があろうと、あの灯りを消させはしない。
足音が城壁の階段を上がってきた。
ゼノリス様だった。
正装のままだった。祝祭の衣服に剣は帯びていない。それでも、歩く姿には乱れがなかった。城壁の歩廊に立ち、ガルムの横に並んだ。
「終わりましたか」
「終わりましたぞ。一人も通しておりませぬ」
ゼノリスが頷いた。城壁の外を見ている。森の際に、もう動く影はなかった。
「ガルム」
「はっ」
「ありがとうございます」
ガルムは答えなかった。
答える必要がなかった。この王が礼を言うのは、いつものことだった。そして、その礼が本心であることも、いつものことだった。
ゼノリス様は城下を見ていた。篝火の灯りの中で、まだ酒を酌み交わしている民がいる。歌が聞こえる。笑い声が聞こえる。
しばらくして、ゼノリス様が口を開いた。
「教会連合圏は、まだ諦めないでしょう」
声は穏やかだった。だが、穏やかさの奥に、揺るがないものがあった。
ガルムは頷いた。
「来るならば、何度でも止めますぞ」
「ええ。お願いします」
風が吹いた。城壁の上を抜けていく風が、祝祭の煙を運んでいた。
ガルムは盾を肩に立てかけた。ひび割れた盾の表面に、篝火の橙が映っていた。




