第151話:「祝祭の歌」
音が、溢れていた。
太鼓を叩く音。弦を弾く音。木の皿が重なる音。子供が走る足音。笑い声。怒鳴り声。歌っている声。全部が混ざって、城門前広場を埋め尽くしている。
セレナは壇を降り、石畳の上に立っていた。
ゼノ様が隣にいる。半歩前、左側。その距離が、いつの間にか決まっていた。近すぎず、手を伸ばせば届く位置。
広場の景色が、目に入ってくる。
見える。全部が、見える。音だけで知っていた世界に、色がついていた。旗の赤。花の白。石畳の灰色。空の青。夕方に近づいた光が、広場全体を橙に染め始めている。
匂いも変わった。大広間の花の香りとは違う。焼いた肉。煮込んだ果実。木が燃える煙。甘いものと辛いものと煙が混ざった、雑多な匂い。
屋台が並んでいた。
通りの両脇には、急ごしらえの台が据えられている。鍛冶職人が組んだらしい木枠の上に布を敷き、皿を並べただけの簡素なものだが、そこから湯気が上がっている。隣の屋台では、串に刺した肉が炭火の上で弾けている。脂が落ちるたびに、紅い炎が小さく跳ねた。
足が止まった。
団子の屋台の前だった。黄金色の汁の表面に、細かい泡が浮かんでいる。湯気が顔にかかった。甘い匂いがした。果実を煮詰めたものだろう。見たことがなかった。
「セレナさん?」
ゼノ様の声が横から届いた。足が止まったことに気づいたのだろう。
「これは……何ですか?」
自分の声が、少し上ずっていた。屋台の女性が笑った。
「蜜煮の団子だよ、魔王妃様。果実の蜜で煮込んだの。甘いよ」
蜜煮の団子。名前を聞いたことがない。庭園には、決まった食事しか届かなかった。勇者が選んだもの。それ以外は知らない。
目がゼノ様に向いた。
「食べてみますか?」
ゼノ様が穏やかに言った。屋台の女性が木の器に団子を二つ掬い上げ、差し出した。
受け取った。指先が熱い。器の縁から蜜が垂れた。団子を口に運んだ。
甘かった。舌の上で蜜が広がり、団子の中から果実の酸味が追いかけてくる。こんな味は、知らなかった。頬が緩んだ。止められなかった。
「おいしい……」
声が漏れた。ゼノ様がこちらを見ていた。口元が動いている。笑おうとして、堪えている。堪えきれていなかった。
その顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。目を閉じたくなった。この人の鼓動を聴きたくなった。いつもの癖だった。音で確かめたくなる。この温かさが本物だと、耳で確かめたくなる。
だが、今は目を開けている。見える。この人の顔が、光の中にある。
隣の屋台で、樽の蓋が勢いよく開いた。木が弾ける音が広場に響いた。
「ひゃっ」
声が出た。体が動いていた。ゼノ様の腕の後ろに、半歩下がって隠れていた。心臓が跳ねている。
ゼノ様が振り返った。目が合った。
「……大丈夫ですよ。樽の音です」
分かっている。分かっているのに、体が先に動いた。ゼノ様の袖を掴んでいた指を、慌てて離した。頬が熱い。
樽の前では、獣人族の若者が酒を注いでいた。こちらを見て、にやりと笑った。気づかれた。
ゼノ様は何も言わなかった。ただ、隣に戻ったセレナの歩幅に合わせて、少しだけ歩く速度を落とした。
◇◇◇
広場の奥に進むと、人の密度が変わった。
壇の周りに集まっていた民たちが散り、それぞれの場所で祝祭を楽しんでいる。踊っている者。食べている者。酒を交わしている者。子供たちが石畳の隙間を飛び越えながら駆け抜けていく。
遠くから、セラさんの声が聞こえた。
声の方を向いた。見えた。広場の左手、屋台と屋台の間の空間で、セラさんが女性たちと手をつないで回っていた。踊りだった。輪になって、足を踏み鳴らしている。セラさんの騎士団の外套が翻るたびに、周りの女性たちが笑い声を上げている。
「セレナさまぁぁ! こっち来てください!」
セラさんが輪の中から手を振った。顔が上気して赤い。汗が額に光っている。
この人の声は、ずっと聴いていた。元気で、真っ直ぐで、遠くからでもすぐに分かる声。その声に、初めて顔がついた。丸い目。日に焼けた頬。笑うと口が大きく開く。音で想像していた通りの、いや、想像よりもずっと眩しい顔だった。
思わず、手を振り返していた。
視線を動かした。広場の右手。甘味の屋台の前に、大きな影が立っていた。
ガルムさんだった。
城門前広場の石畳にどっしりと立っている。周囲の領民の頭を優に超える体躯。強面の顔が、屋台の上の皿を睨みつけている。いや、睨んでいるのではなかった。見つめていた。皿の上には、蜜を絡めたパンが並んでいる。
足が動かないのだろう。屋台の店主が困惑した顔で見上げている。ガルムさんの大きな手が、腰の横で拳を作り、また開いている。欲しいのだ。だが、手が出ない。
セレナは歩いた。ガルムさんの隣まで行き、屋台のパンの皿を二つ取った。一つをガルムさんの掌に載せた。
「ガルムさん、一緒に食べましょう」
ガルムさんの顔が動いた。強面の眉が上がり、目が見開かれた。口が開きかけ、閉じた。もう一度開いた。
「……かたじけない」
低い声だった。蜜がたっぷり絡まったパンを口に運んだ。
顔が、……変わった。
強面の頬が緩み、目尻が下がり、眉間の皺が消えた。子供が見たら泣きそうな凄みのある顔が、蕩けるように崩れた。屋台の店主が目を丸くしている。隣にいた女性が、小さく悲鳴を上げた。
セレナは笑った。この人の声は、いつも硬くて重かった。でも今、口元に蜜の欠片がついている。それだけで、声の奥にあった温かさが全部見えた。
気配がした。
近い。けれど、決して近づいてこない気配。城壁の陰に、一つの影があった。カイロさんだった。壁に背を預けて、腕を組んでいる。祝祭の輪には入らず、少し離れた場所から広場全体を見渡している。いつもそうだった。この人の気配はいつも少し遠かった。
セレナは近づいた。
「カイロさん、何か召し上がりましたか?」
カイロさんの視線がこちらに来た。一瞬、動きが止まった。
「……問題ありません」
声は平坦だった。だが、顔が逸れた。視線が広場の方に戻る。耳の先が、わずかに色を変えていた。
セレナは一歩近づいた。
「屋台の団子、とてもおいしかったですよ。カイロさんも、ぜひ」
「……俺は、警備の確認が」
カイロさんの足が動いた。壁から背を離し、半歩、横にずれた。逃げようとしている? 試しにもう一度近づくと、また半歩、横にずれた。距離を取ろうとする気配は分かっていた。でも今、見える。耳の赤さが、見える。
逃げられても気にしない。どれだけ離されようと、必ず距離を縮める。その確信だけが、胸の奥で熱く燃えていた。
広場の隅、壇の脇に敷かれた布の上に、シルヴァさんが座っていた。
術式の光は、もう消えている。指先に灯っていた青白い光も。肩の力が抜けて、背中が壁にもたれている。帳面は閉じたまま、膝の上に置かれていた。横顔に、夕暮れの光が当たっている。
セレナはシルヴァさんの隣に腰を下ろした。
何も言わなかった。シルヴァさんも、何も言わなかった。
偽りの世界で真実を持ち続けた人。言葉が少なくても、隣にいるだけで分かることがある。セレナにとって、音だけの世界で『静かさ』は最も近い感覚だった。シルヴァさんの隣は、その静かさに似ていた。
しばらくして、シルヴァさんが口を開いた。
「……花、勝手に咲きました」
声は小さかった。端的だった。だが、その一言に、壇の足元を白く染めた花の記憶が詰まっていた。
「きれいでしたよ」
セレナが答えた。シルヴァさんの唇がわずかに動いた。笑みとは違う。でも、硬さが一つ解けた顔だった。
広場の中央で、セラさんの声が上がった。
「ノアさん! 踊りましょう!」
振り返ると、セラさんがノアさんの腕を両手で掴んでいた。ノアさんが片手に紙を持ったまま、引きずられている。
「セラさん、今は記録を……」
「記録は後!」
ノアさんの体が、輪の中に引き込まれた。紙が宙を舞った。ノアさんの顔は困惑していたが、足は意外と動いていた。セラさんが笑い、隣の民が手を叩いている。
セレナは、その光景を見ていた。
音だけで知っていた人たち。声だけで分かっていた人たち。その全員に、今は顔がある。表情がある。汗がある。皺がある。動く手がある。赤くなる耳がある。蕩ける頬がある。解ける肩がある。
全部が、光の中にあった。
◇◇◇
ゼノ様が、壇の近くに立っていた。
民の一人一人に頭を下げている。握手を求められれば応じ、子供が駆け寄れば腰を落として目線を合わせている。その度に、周囲から笑い声が起きていた。
セレナはその背中を見ていた。
――歌いたい。
胸の奥から、音が上がってくる。抑えようとしても止まらなかった。この広場の音を、この人たちの笑い声を、全部抱えて歌にしたいと思った。
勇者のためではない。
――民の為に。みんなの為に。
セレナはゼノ様のもとへ歩いた。
「ゼノ様」
振り返った顔が、こちらを見た。
「……歌ってもいいですか?」
ゼノ様の目がわずかに開いた。
「この国の民のために」
ゼノ様は一瞬だけ黙った。目の奥が揺れている。それから、口元が緩んだ。堪えようとして、堪えきれなかった顔だった。
「ぜひ、お願いします」
声が、柔らかかった。
壇に上がった。
広場全体が見えた。
壇から見る広場は、音の形が変わる。声が上に来る。足音が下に沈む。風が横を抜ける。
広場が、静まり始めた。
セレナが壇上に立ったことに、気づいた者がいたのだろう。声が一つ止まり、もう一つ止まり、静けさが波のように広がっていった。食べかけの串を持ったまま動きを止めた男がいた。子供を抱いた母親が、子供の口に手を当てている。セラさんが踊りの輪から足を止め、こちらを見上げていた。
静寂が、広場を包んだ。
風の音だけが残っている。旗がはためく布の音。遠くの篝火が爆ぜる音。
息を吸った。
空気が、肺の底まで入ってきた。花と煙と土の匂いがする空気。大広間の冷えた空気とも、庭園の閉じた空気とも違う。開けた場所の、生きている空気だった。
歌った。
最初の一音が出た瞬間、耳鳴りがしないことを確かめた。鳴らなかった。喉が震えているだけだった。声が、自分の体から出て、広場の空に上がっていく。
歌の言葉は、誰かが書いたものではなかった。
この耳が聴いた音と、この目で見たものを、歌にした。
城下の朝の音と穏やかな光。
鍛冶場の槌の音と弾ける橙の火花。
市場のざわめきと笑顔。
子供が走る音と舞い上がる砂。
水が流れる音と広がる波紋。
全部、この耳が、この目が覚えている。音と光の一つ一つが、旋律になって溢れていく。
声が、広場の端まで届いている。壁に当たって返ってくる反響が、耳に入ってきた。かつての庭園とは違い、ここでは返ってくる。広場の石が、壁が、空気が、声を受け止めて、送り返してくる。
目を開けたまま歌っていた。
民の顔が見える。泣いている顔があった。口を押さえている者がいた。子供が母親の膝に顔を埋めている。老人が空を仰いでいた。鍛冶の親方が、煤のついた腕で目元を拭った。
歌の終わりが近づいた。
最後の音を、長く伸ばした。声が細く、高く、広場の上空に昇っていく。夕暮れの空に吸い込まれるように、音が消えていった。
静寂が落ちた。
誰も動かなかった。広場を埋めた全員が、壇上を見上げたまま、止まっていた。
拍手が、一つ鳴った。
広場の奥の方だった。誰が最初に手を叩いたのかは分からなかった。だが、一つが弾けると、止まらなかった。拍手が広場を這うように広がり、やがて壁に当たって返ってきた。歓声が混じった。
「魔王妃様!」
「セレナ様!」
名前を呼ぶ声が重なった。拍手と声が溶け合って、広場全体が振動していた。足の裏から、壇の石を通して、その震えが伝わってくる。
頬が濡れていた。
いつから流れていたのか、分からなかった。拭わなかった。拭う必要がなかった。この涙は、隠すものではない。
壇の下で、ゼノ様がこちらを見ていた。
笑っていた。もう堪えていなかった。目の縁が光っている。
ゼノ様の手が伸びた。壇の縁に立ったセレナの手を取った。指が絡んだ。掌が温かかった。
「ありがとう、セレナさん」
その声は、歓声の中でも聞こえた。嘘のない音だった。ずっと聴いていた、この人だけの音。
「あなたの歌が、この国の心になりました」
◇◇◇
篝火の灯りが、広場を橙に染めていた。
空に星が出ている。祝祭はまだ続いていた。酒を酌み交わす声。遠くで歌い直している者がいる。子供たちはさすがに減った。母親に連れられて帰っていく姿が、通りの奥に見えた。
セレナは城内の廊下を歩いていた。ゼノ様が隣にいる。広場から戻ったばかりだった。窓の外から、まだ祝祭の音が届いている。
足を止めた。
窓から、広場が見えた。篝火の灯りの中で、まだ踊っている人がいた。その光景を、目で見ている。
今日、初めて知ったものがたくさんあった。屋台の味。みんなの笑顔。みんなの仕草。色の付いた、この世界。
全部、音だけでは分からなかったものだった。
目を閉じた。
ゼノ様の鼓動が聞こえた。隣に立っているだけで、聞こえる。規則正しく、穏やかで、嘘のない音。この音が、ずっとそばにある。
目を開けた。見えた。ゼノ様の横顔が、窓からの篝火の灯りを受けている。
音も、光も、両方ある。
廊下の奥から、足音が響いた。
速かった。石の床を蹴る、硬い靴音。
胸の奥が、わずかに引き締まった。この音は、さっきまで広場にあったものと違う。
足音が、こちらに近づいてくる。
ゼノ様の体が動いた。セレナの前に、半歩出た。
廊下の角から、兵士が姿を現した。息が上がっている。顔が強張っていた。
「ゼノリス様――」
声が、廊下に響いた。




