第150話:「永遠の誓い」
花の匂いが、廊下の奥まで届いていた。
大広間の扉は開け放たれている。両開きの木の扉の向こうに、見慣れない景色が広がっていた。普段は催しの無い広い部屋だった。石の壁と高い天井。柱が等間隔に並び、左右の窓から朝の光が差し込んでいる。その柱の一本一本に、白と淡い黄の花が括りつけられていた。床には深紅の布が中央に一筋敷かれ、奥の壇まで続いている。
ゼノリスは扉の手前に立っていた。
正装の襟が、喉元を締めている。慣れない布地だった。普段の服より厚く、肩の縫い目が硬い。袖口に銀の刺繍が施されている。カイロが手配したものだった。「儀式に相応しいものを」と言って、三日前に執務室の机の上に置いてあった。
息を吸った。花の匂いと、石の冷えた空気が混ざっている。
大広間の中には、すでに招待客が待っていた。六代表の顔が見えた。前列にミレッタが立っている。隣にグローム。その後ろにオルド、ヴァイス、ヴァルド、エリオット。さらに後方に、主要な領民たちが並んでいる。鍛冶の親方、農地の年長者、市場の商人。見覚えのある顔がいくつもあった。全員が正面を向き、壇の方を見ている。
セラが大広間の奥に立っていた。壇の横、柱の陰に身を寄せている。正装の上に騎士団の外套を羽織っている。落ち着かないのだろう。足の位置が何度も変わっていた。
ガルムは壇の反対側にいた。壁を背にして直立している。正装の襟が首に食い込んでいるのか、顎の角度がいつもより高い。だが、姿勢は微動だにしない。大広間の入口と窓の両方が見える位置に立っている。
ノアが壇の脇に立っていた。手元に紙を持っている。宣言の文面だろう。目を落として最終確認をしている。
そして、大広間の奥――壇の正面に、セレナが立っていた。
純白のドレスだった。裾が床に触れ、布の端が深紅の敷布の上に広がっている。銀の髪が背中に流れ、肩の上で朝の光を受けていた。細い首筋から鎖骨にかけて、何も飾りがない。帯の跡も、もう見えなかった。
顔がこちらを向いた。
藍色の瞳が、扉の前のゼノリスを見ていた。
唇が動いた。言葉にはならなかった。だが、口の形が笑みを取っていた。
喉の奥が詰まりかけた。堪えた。今日は最後まで堪えなければならない。
ゼノリスは一歩を踏み出した。深紅の布の上を歩く。靴音が大広間の天井に届き、返ってくる。領民たちの視線が集まった。だが、声はない。静かだった。花の匂いと、布を踏む音だけが満ちている。
壇の前に立った。セレナとの距離が、二歩になった。
シルヴァが動いた。
壇の横から、一歩前に出た。帳面は持っていなかった。代わりに、両手が体の前で揃えられている。指先が微かに光を帯びていた。
床に線が走った。
シルヴァの足元から、青白い光の筋が広がっていく。石の床の上を這うように伸び、幾何学的な模様を描いていった。術式陣だった。だが、これまでゼノリスが見てきたどの術式陣とも規模が違う。線は大広間の床を覆い、壁際まで到達し、柱の根元を巡って壇の周囲を一周した。
光が、立ち上がった。
大広間の奥、招待客たちの頭上に、薄い光の膜が浮かんでいた。壇上の景色が映し出されている。ゼノリスとセレナの姿が、大広間の後方からでも見えるように。
窓の外から、声が聞こえた。
「見える! ゼノリス様が見える!」
外にも、同じものが届いているのだろう。声は広場の方角だけではなかった。遠くからも、かすかなざわめきが重なっている。
シルヴァは一歩下がった。表情は変わらない。だが、額にうっすらと汗が浮いていた。これだけの規模の術式を維持しながら、顔色を崩さない。術式の負荷を、姿勢の一つも乱さずに受け止めている。
カイロが壇の中央に立った。
黒い外套を脱いでいた。正装の下に、いつもの短剣の鞘だけが腰に残っている。背筋が伸び、顎が引かれている。視線が大広間の全員を一度だけ巡り、ゼノリスとセレナの間に戻った。
「本日」
声が通った。淡白な声だった。だが、大広間の天井に届き、壁に当たって返ってくるだけの張りがあった。
「ゼノリス・ヴォルガデス様と、セレナ・エクリール様が、永遠の誓いを交わします」
大広間が静まった。花の匂いが、一段濃くなった気がした。
ゼノリスはセレナは、向かい合った。二歩の距離が、一歩になっていた。いつ詰めたのか、自分でも分からなかった。
セレナの瞳が、近い。朝の光を受けた藍色の中に、ゼノリスの姿が映っている。純白のドレスの襟元が、呼吸に合わせてわずかに動いていた。
口を開いた。
「セレナさん」
自分の声が聞こえた。思ったより落ち着いていた。喉の奥に溜まっていたものが、言葉になって出てきている。
「あなたと共に、この国を築いていきたい。あなたの歌が民に安らぎを与えるように。……私はあなたを守ります」
言い終えた。短かった。もっと長い言葉を用意していたはずだった。だが、目の前のセレナの顔を見た瞬間に、飾りが全部落ちた。残ったのは、これだけだった。
セレナの睫毛が震えた。
瞳の縁に光が溜まっている。だが、溢れなかった。唇が開いた。
「ゼノ様」
初めてだった。
婚姻の誓いの場で、その呼び方が出た。「ゼノリス様」ではない。「ゼノ様」。声は揺れていなかった。歌うような抑揚が、静かに響いた。
「私はあなたの隣に立ち、この国の民のために歌います。あなたと共に、永遠に」
指輪を取り出した。カイロが壇の横から差し出した小さな箱の中に、二つの銀の環が並んでいた。
ゼノリスがセレナの左手を取った。
指先に、わずかに力がこもる。
細い薬指に、環を通した。銀が肌の上で光を弾いた。
セレナの手が伸びた。ゼノリスの左手を取り、同じように環を通した。指先がわずかに冷たかった。だが、震えてはいなかった。
手が離れなかった。
顔を近づけた。
セレナの瞳が、すぐそこにあった。藍色の中に映る自分の顔が、笑っていた。堪えられなかったらしい。もう、いい。
唇が触れた。
壇の足元で、何かが動いた。
花だった。深紅の布から白い花が咲いている。それが一つ、二つと増え、足元が、白い花で埋め尽くされた。
シルヴァの指先が震え、目が足元の花に向いている。唇が引き結ばれていた。
大広間が、揺れた。
歓声だった。招待客の拍手と声が、天井を叩いて返ってくる。同時に、窓の外からも波が押し寄せてきた。城門前広場の歓声。その向こうからも、さらに遠い場所からも。シルヴァの術式が映し出した映像を見ていた領民たちの声が、重なり合って届いている。
大広間の中と外で、歓声が一つになっていた。
◇◇◇
ゼノリスは廊下を歩いていた。
大広間を出て、城門に向かっている。隣にセレナがいた。半歩後ろを五人が続いている。
廊下の窓を通り過ぎるたびに、外の声が大きくなった。シルヴァの指先が、まだ光を灯している。術式が途切れていない。
城門を抜けた。
光が変わった。屋根の下から、空の下へ。目が慣れるまでの一瞬、視界が白くなった。
色が飛び込んできた。
城門前広場は、数週間前とは別の場所になっていた。柱という柱に布が巻かれ、赤と白の旗が頭上を渡っている。広場の縁に沿って花が並べられ、通路の両脇に木の枝を組んだ飾りが立てられていた。領民たちの手で作られたものだった。揃ってはいない。旗の大きさも、花の種類も、飾りの形もばらばらだった。だが、その不揃いが広場を埋めている。
民がいた。
広場の隅まで。通りの入口まで。屋根の上にまで、民がいた。数週間前に婚姻を告げた時よりも多い。城門前広場だけでは収まりきらず、通りの奥にまで人が溢れている。
拍手が起きた。
城門から出てきたゼノリスとセレナの姿を見て、最初に手を叩いたのが誰だったのかは分からなかった。だが、一つの拍手が二つになり、十になり、百になった。声が混ざった。名前を呼ぶ声。祝いの言葉。口笛。子供の甲高い叫び。それらが全部重なって、一つの音になった。
壇が、広場の奥に据えられていた。告げた時と同じ場所だった。だが、壇の上にも花が飾られ、深紅の布が新しく張り直されている。
ゼノリスはセレナと共に壇に上がった。
広場が見渡せた。
人の顔が並んでいる。笑っている顔。泣いている顔。手を振っている腕。肩車された子供。獣人族の尖った耳。エルフの長い髪。ドワーフの太い腕。人族の日焼けした顔。全部が混ざって、一つの広場に収まっている。
シルヴァの術式が、まだ映し出している。壇の周囲に薄い光が漂っている。ゼノリスとセレナの姿が、今も領地全域に届いているのだろう。
ゼノリスは息を吸った。
空の下の空気だった。大広間の花の匂いとは違う。土と、煙と、木の匂い。暮らしの匂いだった。
声を出した。
「皆さん」
広場が静まった。拍手が止まり、声が引いていく。遠くでまだ騒いでいる声も、やがて収まった。
「本日より」
自分の声が、広場の空に上がっていく。壁に囲まれた大広間とは違った。天井がない。声が返ってこない。代わりに、上へ、横へ、遠くへと広がっていく。
「この領地は『魔王国』として、正式に国家となります」
間を取った。
「私、ゼノリス・ヴォルガデスは魔王として、セレナ・ヴォルガデスは魔王妃として、この国を統治します」
沈黙が降りた。
広場を埋めた全員が、動きを止めていた。拍手も声もない。ただ、壇の上を見上げている。
最初に動いたのは、前列にいたミレッタだった。
膝を折った。広場の石の上に、片膝をついた。頭が下がった。
隣のグロームが続いた。その隣のオルドが。ヴァイスが。ヴァルドが。エリオットが。六代表が、壇の前に並んで跪いた。
後ろの列が続いた。
商人が膝をついた。鍛冶の親方が。農夫が。工房の職人が。母親が子供の肩に手を置き、共に頭を下げた。獣人族の若者が地面に拳をつき、額を伏せた。
広場の端まで。通りの入口まで。見える限りの全員が、跪いていた。
声が上がった。
一つではなかった。広場のどこかから、誰かが口を開いた。別の場所でも、同じ言葉が出た。それが伝播して、広場全体に広がっていった。
「魔王陛下」
初めて聞く呼び方だった。
「魔王妃陛下」
広場を埋めた声が、壇上に届いている。統一された号令ではなかった。それぞれが、自分の声で、自分の間で、同じ言葉を発していた。
空に、光が弾けた。
壇の横で、シルヴァの頭上から小さい火花が散っていた。術式の光とは色が違う。赤、橙、金。小さな炎の粒が空中に飛び出し、広場の上空で破裂した。花火だった。一つ、また一つ。光の華が空に咲き、色のついた粒が領民たちの上に降り注ぎ、歓声が上がる。
シルヴァの顔が強張っていた。片膝をついたまま、自分の指先を見ている。止められないのだろう。術式を維持しながら感情が漏れている。
ゼノリスの喉が動いた。
セレナの左手の薬指で、銀の環が光を受けていた。
壇の下で、五人が跪いていた。カイロは片膝をつき、拳を地面に置いている。セラが両膝をついて頭を下げている。肩が震えていた。泣いているのだろう。シルヴァの唇が引き結ばれているが、片膝をつきながらも、頭上と指先の光を消していなかった。ガルムは直立したまま、一歩も動いていなかった。だが、大きな体が微かに揺れている。ノアが静かに片膝をついていた。顔を上げ、壇上のゼノリスを見ていた。目が、笑っていた。
ゼノリスはセレナを見た。
セレナが壇の縁に立っていた。跪く領民たちを見下ろしている。口が開いていた。何かを言おうとしている。だが、声にはなっていなかった。目の縁が光っていた。
ゼノリスは前を向いた。
「さあ」
声が、自然に出た。
「祝祭を、始めましょう」
広場が弾けた。




