第149話:「幸福の報せ」
机の上の書類を端に寄せた。
執務室の窓から午前の日差しが差し込んでいる。いつもの紙とインクの匂い。木の床に落ちる光の角度が、時刻を教えていた。
ゼノリスは椅子の背に手を置いたまま、扉の方を見た。
五つの足音が、廊下の石を踏んで近づいてくる。先頭は間隔の狭い、素早い足音。セラだろう。その後ろに、重く等間隔の靴音。ガルム。さらに二つの静かな足音と、一つの淡々とした足音が続いている。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
扉が開いた。
五人が入ってきた。カイロが先に部屋を一巡し、壁際に寄る。セラ、シルヴァ、ガルム、ノアが続いた。最後にノアが扉を閉めた。
普段は二人か三人で使う部屋に、七人が入っている。
窓からの風が、全員の間を通り抜けた。
五つの視線が、セレナに向いた。銀の髪が肩に流れ、藍色の瞳が開いている。帯は、もうない。セラの目が大きく見開き、ガルムの口が結ばれた。だが誰も、帯のことには触れなかった。
ゼノリスは姿勢を正した。
「皆さんに、報告があります」
五つの視線が、ゼノリスに向いた。
「セレナさんと、正式に婚姻することになりました」
一拍の間があった。
それを破ったのは、セラだった。
「おぉーーー! お、おめでとうございます、ゼノ様!」
声と同時に、体が動いていた。椅子の横をすり抜け、ゼノリスとセレナの前に駆け寄ってくる。両手を胸の前で握り、そのまま頭を下げた。
「ずっと……ずっと、こうなるって信じてました!」
語尾が上ずっていた。敬語が崩れかけている。だが、その崩れ方がセラだった。
ガルムが、一歩も動かずにいた。
動かない。顔も変わらない。強面の表情が、石のように固まっている。
だが、顎が震えていた。
唇が引き結ばれ、歯を噛みしめている。大きな拳が体の横で握り込まれ、肩が小さく上下していた。
「この日が……」
声が出た。低く、太い声だった。だが、途中で割れた。
「……来ましたか」
目の縁から、涙が一筋流れた。頬の傷跡の上を通り、顎に落ちた。拭わなかった。拭う気もないのだろう。そのまま背筋を伸ばしていた。泣いているのに、姿勢は崩れなかった。
カイロは壁際にいた。腕を組んだまま、動いていない。
「準備に取り掛かります」
結論だけだった。声に抑揚はない。いつもの淡白な報告口調だった。
だが、腕を組んでいた手が解かれた。外套の中で指が動いている。何かを数えているのか。段取りを組み始めているのか。カイロの中では、すでに婚姻の準備が始まっていた。
そして、口の端がわずかに持ち上がった。一瞬だけ。すぐに消えた。だが、ゼノリスはそれを見た。
シルヴァは帳面を開いていた。
いつの間にか開いていた。指がページの上を滑っている。何かを書き留めているのか、読み返しているのか。だが、視線は帳面の上にはなかった。窓の方を向いている。光を受けた横顔が、穏やかだった。
シルヴァがカイロの方を向いた。
「カイロ、相談があります」
声は静かだった。端的で、いつも通りの冷静な響き。だが、タイミングを計っていた。婚姻の報告が一段落したところを見極めて、口を開いている。
カイロが視線を向けた。
「……後ほど詳しく」
短いやり取りだった。二人の間で何かが通じている。だが、今はそれ以上は踏み込まなかった。
ノアが一歩前に出た。全員の視線が自然にノアに集まった。
「ゼノ様、提案があります」
声は落ち着いていた。論理的で、感情を排した響き。だが、目は笑っていた。口元は変わらないのに、目の奥が柔らかくなっている。
「婚姻の儀と同時に、この領地を『魔王国』として正式に宣言するのはどうでしょうか」
部屋の空気が変わった。
セラが振り返った。ガルムの涙が止まった。カイロの指が止まった。シルヴァの帳面が閉じられた。
全員の目が、ノアに向いていた。
ノアは続けた。
「領地としての基盤は整っています。六代表による統治体制、経済基盤、多種族共生、防衛力。国として名乗るだけの実態がすでにあります。婚姻の儀は、内外に向けた宣言の場として最も適切です」
ゼノリスは頷いた。
「良い案です」
声が自然に出た。考え込むまでもなかった。ノアの言葉は、ゼノリスがぼんやりと思い描いていたものに、明確な輪郭を与えていた。
「この国が、真の国家として歩み始める日にしましょう」
セラが拳を握った。
「やります! 何でもやります!」
ガルムがようやく涙を拭った。大きな掌で顔を一度だけ撫で、目を据えた。カイロが顎を引き、ノアと短く視線を交わした。何も言わなくても、段取りの組み立てが始まっている。
執務室の空気が変わっていた。驚きと喜びが、すでに行動に変わり始めている。五人がそれぞれの役割に向かって走り出す気配が、部屋の中に満ちていた。
ゼノリスはセレナを見た。
セレナは五人に目を向けていた。藍色の瞳が、一人ずつの顔を追っている。視力を取り戻して初めて映る仲間たちの顔だった。声だけで知っていた人たちの姿を、今、光の中で確かめている。
セレナの唇が動いた。言葉にはならなかった。だが、口の形は読めた。
「ありがとうございます」
声にならない声で、五人に向けて。
◇◇◇
城門をくぐると、声が変わった。
石の壁に反響していた足音が消え、代わりに開けた空間の音が広がった。城門前広場だった。午後の陽が広場の石畳を照らし、熱を含んだ空気が足元から立ち上っている。
人が集まっていた。
広場を埋めるほどの人だかりだった。市場の商人が荷台の上に腰を下ろしている。工房から出てきたのだろう、腕に煤をつけたままの鍛冶職人。子供を肩に乗せた父親。頭巾を被った老婆。尖った耳の獣人族の若者が、人族の隣に自然に並んでいる。
カイロの手配だった。昨朝の報告から、わずか一日。翌日の午後には、広場に人を集めていた。触れ回り役が城下を走り、『ゼノリス様から発表がある』という一言だけを伝えたらしい。それだけで、これだけの民が集まった。
広場の奥、城門の壁を背にして、立派な演壇が据えられていた。急ぎ用意されたものとはいえ、厚みのある木材が組み上げられ、その上には深紅の布が整然と敷かれている。大人の腰を優に超える高さがあり、広場のどこからでもゼノリスの姿を仰ぎ見ることができるようになっていた。
ゼノリスは壇上に立った。
横に、セレナがいた。
銀の髪が午後の風に揺れている。帯のない顔が、陽の下にあった。藍色の瞳が、広場に集まった人々を映している。領民たちの視線がセレナに集まり、ざわめきが走った。歌姫の帯が外れていることに、気づいた者がいる。だが、それ以上の騒ぎにはならなかった。視線がゼノリスに戻る。待っている。何かが起きると、感じ取っている。
ゼノリスは息を吸った。
広場の空気は、執務室とは違った。壁に囲まれた室内の空気ではない。頭上に空がある。城壁が左右にそびえ、城門が背後に控えている。風は遮られることなく、ゼノリスの前を通り過ぎていく。
声を出した。
「皆さん、集まっていただきありがとうございます」
自分の声が、広場に広がっていく。石畳の上を滑り、壁に当たって返ってくる。反響が重なり合い、広場全体に行き渡る。
「本日、皆さんにお伝えしたいことがあります」
ざわめきが静まった。子供のはしゃぐ音が一つ残り、それも親に止められて消えた。広場が静かになった。風の音と、遠くの鍛冶場から届く槌の残響だけが聞こえている。
ゼノリスは隣を見た。セレナが頷いた。小さく、だが確かに。
「私は――セレナさんと、婚姻いたします」
一瞬の沈黙があった。
広場の空気が止まった。
それから、声が弾けた。
「本当か!」
最初に叫んだのは、前列にいた鍛冶職人だった。煤のついた腕を振り上げ、隣の男の肩を叩いている。
「婚姻だ! ゼノリス様が結婚されるぞ!」
叫びが広がった。前列から中列へ、中列から後列へ。波のように。一人が叫び、隣が応じ、その隣がさらに大きく返す。広場を埋めた人々の間を、祝福が伝播していった。
「おめでとうございます!」
「セレナ様! セレナ様が妃になるのか!」
「目が……セレナ様の目が開いている!」
帯のことに気づいた者のざわめきが混じった。驚きが走り、だがすぐに祝福に呑み込まれた。誰かが手を叩き始めた。拍手が一つ、二つと増え、やがて広場全体を覆う大きなうねりになった。
子供が父親の肩の上で手を叩いている。老婆が隣の女性と手を握り合い、頷いている。獣人族の若者が口笛を鳴らし、人族の商人が帽子を振っている。
ゼノリスは広場を見渡した。
この景色が見えている。この音が聞こえている。かつて荒廃した土地にいた人々が、今、笑っている。喜んでいる。拍手を送っている。自分たちの王の婚姻を、自分たちのことのように祝っている。
隣で、セレナが小さく息を呑んだ。
藍色の瞳が、広場を埋め尽くした人々に向けられていた。大きく開かれた目に、光が揺れている。この喜びの渦が、あの瞳にどう映っているのだろう。音だけで知っていた領民たちの姿を、今、光の中で受け止めている。
セレナの唇が開いた。
「……こんなに」
声は歓声に紛れて、ゼノリスの耳にだけ届いた。
「こんなに、たくさんの方が」
壇上から見える景色は、朝に最上階の窓から見た景色とは違っていた。屋根の色ではない。畑の緑でもない。人の顔だった。一つ一つの顔が、こちらを向いている。笑っている。手を叩いている。名前を呼んでいる。
喜びは止まなかった。広場から溢れた音が城下の通りに流れ出し、さらに遠くへ広がっている。市場の方角から新しいざわめきが聞こえた。広場に来られなかった者たちにも、伝わり始めている。
やがて、前列にいた女性が叫んだ。
「お祝いの準備をしなければ!」
その一言が、広場の空気を変えた。祝福が、行動に変わった。商人が荷台から飛び降りた。鍛冶職人が仲間を呼び集めている。女性たちが集まって何かを相談し始めた。子供たちが走り出し、路地の向こうへ消えていく。
「花を集めて!」
「樽を出すぞ!」
「飾りつけは誰がやる?」
広場が、祝祭の準備に向かって動き始めていた。
ゼノリスは壇上から、その景色を見ていた。
隣にセレナがいた。壇の下では、五人がすでに動き始めていた。カイロの声が飛び、セラが領民たちの間に駆け込んでいく。
広場の石畳の向こうで、最初の花が運ばれてきた。




