第148話:「永遠の誓い」
光が、瞼の裏を押していた。
重い。体が動かなかった。背中に硬いものが当たっている。石壁だった。肩が壁に預けられ、首が横に傾いている。いつの間にか眠っていた。
目を開けた。
視界が白かった。焦点が合うまでに数秒かかった。石の床が光を弾いている。窓から朝日が射し込み、部屋の半分を金色に染めていた。術式陣の線はまだ床に残っていたが、光は消えている。白い粉の幾何学模様が、朝日の下でただの落書きのように見えた。
体を起こそうとして、腕が軋んだ。三日間の疲労が、筋の一本一本に沈殿している。指先を動かした。感覚が戻るまでに、二度、三度と握り直す必要があった。
セレナが、窓の前に立っていた。
背中が見えた。銀の髪が朝日を受けて白く光っている。小さな肩。細い背中。折れそうなほど華奢な体が、窓枠に片手を添えて立っている。風が吹き込むたびに、髪の先が揺れていた。
帯は、もうなかった。
昨夜、あの絹を解いた。今はセレナの顔を覆うものは何もない。銀の髪の間から、耳が覗いていた。首筋が露わになっている。帯の跡が、こめかみにうっすらと赤い線を残している。
セレナが動いた。
右手が窓枠から離れ、前に伸びた。窓の外に向けて。指先が、朝日の中に差し出されている。光が指の腹に当たり、皮膚の薄い部分が透けるように赤く染まるのを、じっと見つめている。
指が、開いた。
五本の指が、光を掬うように広がっている。握っては、開く。もう一度、握っては、開く。光を確かめるように。手の中に収められるものかどうか、確かめるように。
ゼノリスは壁に背を預けたまま、動かなかった。
声をかけなかった。今、あの時間を壊してはならない。セレナが生まれて初めて――いや、奪われてから初めて、自分の目で光に触れている。その瞬間に、他者の声は要らない。
やがて、セレナの手が下がった。
手元から解放された視線が、窓の外へと向けられた。肩の角度が変わった。俯いていた首が持ち上がり、顔が正面を向いている。窓の向こうには城下の屋根が連なり、その先に農地の緑が広がっている。朝の靄がまだ地表に残っていて、緑の上を薄い白が流れていた。
セレナの肩が震えた。
泣いているのだと、分かった。嗚咽は聞こえない。だが、肩が小さく上下している。両手が体の前で重なった。指が絡み合い、きつく握り込まれている。
ゼノリスは立ち上がった。
壁から背中を離し、一歩踏み出した。石の床を踏む音が、静かな部屋に響いた。
セレナが振り返った。
藍色の瞳が、光の中にあった。涙で潤んでいた。睫毛の先に雫が一つ残り、頬には拭われていない涙の筋が二本、顎に向かって走っていた。
だが、笑っていた。
唇がわずかに歪みながらも笑みの形を取っている。濡れた藍色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「……こんなにも」
声が揺れていた。
「美しいのですね……ゼノリス様の領地は」
ゼノリスは足を止めた。セレナとの間に、二歩分の距離を残して。
「あなたが聴いていた音が、こうして形になっています」
自分の声が、予想より低く出た。喉が乾いていた。三日間の消耗が、声にも出ている。
セレナが頷いた。顎の先から雫が落ちた。
「音だけでは分からなかったものが、あります」
セレナの視線が、窓の外に戻った。
「屋根の色が、一つずつ違うのですね。畑の緑にも、濃い場所と薄い場所がある。朝の光が当たると、全部が……」
言葉が途切れた。
セレナの体が、変わった。
肩が強張った。笑みが消えた。それまで窓の外を映していた藍色の瞳が、急に焦点を失った。どこかを見ているのに、何も見ていない。視線が内側に向かっている。
手が、こめかみに触れた。
帯のあった場所だった。指先が、赤い跡をなぞるように這っている。瞼がきつく閉じられた。歯を噛みしめる音が、微かに聞こえた。
「セレナさん」
声をかけた。
セレナは答えなかった。閉じた瞼の下で、眼球が動いている気配があった。見えていないのではない。別のものが見えている。
呪毒の核が砕けた。それは視力を封じていた枷が外れたということだけではない。偽りの記憶が、消えたということでもある。
偽りの記憶が消えれば、本物の記憶が戻る。
セレナの唇が開いた。声は出なかった。唇だけが動いている。何かの言葉を、声にならずに繰り返している。
やがて、音になった。
「……思い出しました」
声が、低かった。先ほどの感動で揺れていた声とは別のものだった。底の方から、絞り出されるように出てきた声だった。
「父を……殺したのは……」
セレナの手が、こめかみから離れた。両手が胸の前で重なった。指が強張っている。だが、膝は折れていない。立っている。自分の足で。
「勇者様、でした」
風が止まった。
窓の外から吹き込んでいた朝の風が、一瞬だけ途切れた。部屋の空気が動かなくなり、セレナの声だけが石壁に吸い込まれていった。
「父は……私を守ろうとして……。勇者様が、……勇者が歌声を寄越せと命じた時、父は拒んだ。それで……」
声が途切れた。唇が引き結ばれた。顎が上がった。涙が、閉じた瞼の隙間から滲み出している。先ほどの感動の涙とは質が違った。熱くはない。冷たい。頬の上を、音もなく滑り落ちていく。
「目を封じたのも……勇者でした。父の血を見たから。勇者の……返り血を、この目が見てしまったから」
セレナの目が開いた。
藍色の瞳が、ゼノリスを見た。頬の濡れた跡の向こうで、だが焦点は合っている。揺れていない。記憶を語る声は途切れがちだったが、瞳は定まっていた。
「全部……覚えています。勇者が父に剣を向けた音も。父が倒れた音も。その後で勇者が私に語った言葉も――『魔王がお前の父を殺した。私が家族になろう』と」
声が止まった。
セレナの手が下がった。体の横に戻り、拳が開いた。指先がまだ硬かったが、握り込まなかった。
「嘘でした。全部」
静かだった。
怒りの声ではなかった。慟哭でもなかった。ただ事実を確認するように、セレナは言った。長い年月をかけて信じ込まされていた嘘の輪郭が、記憶の中で一つずつ剥がれ落ちていく。その音を聴いているような声だった。
ゼノリスは何も言わなかった。
言葉を挟む隙間ではなかった。セレナが自分の記憶と向き合っている。その過程を、外から遮る権利は誰にもない。
風が戻ってきた。窓から吹き込んだ風が、セレナの銀髪を横に流した。濡れた頬に、冷たい空気が触れている。
セレナの背筋が、伸びた。
「……ゼノリス様」
名前を呼ぶ声に、先ほどまでの揺れはなかった。頬はまだ乾いていない。だが、声の芯が戻っていた。
「私は、覚えています。全部。勇者が私に歌わせた歌も。その歌詞の中にある嘘も。父が最後に私の名前を呼んだ声も。……全部、この耳が覚えています」
その言葉の重さを、ゼノリスは聴いていた。
【超記憶】は消せない。一度聴いた音、言葉、メロディを完璧に記憶する。セレナの中には、勇者の『嘘』が一つ残らず記録されている。父を殺した夜の音も。すべてが、消えない記録として。
ゼノリスは一歩、踏み出した。
セレナとの距離を詰めた。一歩分。手を伸ばせば届く距離に立った。
「聴いています」
それだけを言った。
◇◇◇
ゼノリスは窓枠に背を預け、壁の外を見ていた。
風が変わっていた。朝の湿った重さが消え、乾いた暖かい空気が窓から流れ込んでいる。日が高くなったのだろう。城下の屋根の影が短くなり、農地の緑が朝よりも鮮やかに光を弾いていた。
セレナは窓の反対側に座っていた。壁に背を預け、膝を揃えて石の床に腰を下ろしている。顔は窓の方を向いていた。目が開いている。泣いた跡はまだ頬に残っていたが、呼吸は落ち着いていた。
どれほどの時間が経ったのか、正確には分からなかった。セレナが記憶を語り終えた後、二人とも黙っていた。ゼノリスは何も訊かなかった。セレナも何も言わなかった。窓から入る風の音だけが、部屋を満たしていた。
その沈黙を、セレナが破った。
「……ゼノリス様」
声が、穏やかだった。先ほど記憶を語った時の、底から絞り出すような響きはもうない。喉が休んだのだろう。いつもの、歌うような抑揚が微かに戻っている。
「私は、歌いたいのです」
ゼノリスは視線を窓の外から戻した。セレナの横顔が、壁に預けた姿勢のまま、こちらを向いていた。藍色の瞳が光を受けている。朝とは違う光だった。柔らかく、暖かい。
「……歌ですか?」
「はい」
セレナの手が、膝の上で開いた。先ほどまで握り込んでいた指が、今は力を抜いて膝の布の上に置かれている。
「勇者のために歌わされていた歌ではなく。嘘を広めるための歌でもなく」
一拍、間が空いた。
「この領地の人たちのために、歌いたいのです。嘘のためではなく、真実のために」
ゼノリスは黙って聴いていた。
セレナの声には、先ほどの記憶を語る時の冷たさも、朝の感動の熱さもなかった。その間にあるものだった。静かで、だが確かな温度を持った声。自分の足で立った者が、自分の言葉で語っている声だった。
「私の歌は、道具でした。勇者がそう使ったから」
セレナの瞳が、窓の外に向いた。城下の屋根を見ている。初めて目で見る景色を、もう一度、噛みしめるように。
「でも、ここでなら――この領地でなら、私の歌は私のものになれる気がします」
ゼノリスは壁から背を離した。
言葉を探していた。この人の決意に応える言葉を。だが、見つかったのは、飾りのない一文だけだった。
「あなたは、自分の意志で真実を選びました」
声が出た。低く、だが掠れてはいなかった。
「それは――誰にも奪えない強さです」
セレナの瞳が、ゼノリスに戻った。まっすぐに。窓からの光を受けた藍色が、わずかに潤んでいた。だが、崩れはしなかった。唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
ゼノリスは一歩、踏み出した。窓枠から離れ、セレナの前に立った。
セレナが顔を上げた。座ったままの彼女と、立っているゼノリスの間に、大きな高低差がある。藍色の瞳が、下からゼノリスの顔を見上げていた。
手を差し出した。
「立てますか」
セレナの手が伸びた。指先が、ゼノリスの掌に触れた。冷たかった。石の床に座っていた間に、体温が奪われていたのだろう。だが、握り返す力はあった。細い指が、ゼノリスの手の中に収まった。
引き上げた。
セレナが立ち上がった。小柄な体が、ゼノリスの前に立っている。頭の頂が、ゼノリスの肩にも届かない。だが、背筋は伸びていた。
手を、離さなかった。
セレナの指が、ゼノリスの掌の中にある。冷たかった指先が、少しずつ温まり始めていた。
「セレナさん」
名前を呼んだ。
声が、自分の意志とは別の場所から出てきた。考えて組み立てた言葉ではなかった。三日間、この人の呪毒と向き合い続けた。記憶を語る声を聴いた。朝の光に手を伸ばす姿を見た。その全部が、喉の奥に溜まっていた。
「……私の妃に、なっていただけませんか」
風が止まった。
セレナの瞳が、大きくなった。藍色の中に、ゼノリスの顔が映っている。口が開きかけて、閉じた。もう一度開いた。言葉が出てこないのだろう。唇だけが動いて、音にならない。
「私が……?」
やっと出た声は、細く裏返っていた。
ゼノリスは手を握ったまま、続けた。
「あなたは、この国に必要な人です。あなたの歌は、民に安らぎを届ける力がある。あなたの耳は、嘘と真実を聴き分ける。……私の人生に、あなたが必要です。他の誰でもない、あなたでなければ……。私の隣で、共に歩いてほしい」
声が、途切れた。
最後の一語が、自分でも予想しなかった熱を帯びていた。
セレナの瞳から、雫がこぼれた。
一滴。頬を伝って、顎に落ちた。だが、顔は崩れなかった。泣いているのに、笑っていた。唇が弧を描いている。涙の中で、あの笑みが浮かんでいた。昨夜、帯を解いた時に見た笑み。だが、昨夜より、深かった。
「はい」
声は、静かだった。
「……喜んで」
セレナの手が、握り返してきた。細い指に力が込められた。冷たかった指先が、もう冷たくなかった。
ゼノリスの喉の奥が詰まった。
顔を保て。ここで崩れるな。
だが、唇の端が動いた。自分の意志ではなかった。頬の筋肉が勝手に引き上がり、目の奥が熱くなった。堪えた。歯を噛みしめて、堪えた。だが、完全には戻せなかった。
セレナは見ていた。
初めて得た目で、ゼノリスの顔を、見ていた。崩れかけた表情を、藍色の瞳がまっすぐに映していた。
「……ゼノリス様」
セレナの声が、柔らかかった。
「笑っても、いいのですよ」
堪えきれなかった。
唇が緩んだ。目の奥の熱が、頬を伝うところまでは行かなかった。だが、笑みは隠せなかった。穏やかで、不器用で、王としての威厳とは程遠い笑みが、ゼノリスの顔に浮かんでいた。
窓の外から、風が吹き込んだ。
昼前の、暖かい風だった。セレナの銀髪とゼノリスの髪を同時に揺らし、繋いだ手の間を通り抜けていった。
城下の屋根が光を弾いていた。農地の緑が地平線まで続いている。遠くで、誰かの声が聞こえた。槌の音。荷車の車輪。暮らしの音が、下から昇ってきている。
ゼノリスはセレナの手を握ったまま、窓の外に目を向けた。
「……みんなに。……領民たちに、伝えましょう」
セレナが頷いた。
手は、まだ繋がれていた。窓の外から、昼の鐘の音が昇ってきた。




