第147話:「解呪の刻」
指の感覚が、遠かった。
三日目の夜だった。窓の外は暗い。星も月も雲に隠れ、部屋を照らしているのは床の術式陣が放つ青白い光だけだった。光は一定の間隔で脈を打つように明滅し、石の壁に揺れる影を落としている。
ゼノリスはセレナの前に座っていた。膝を折り、正面に向き合っている。手は膝の上に置いていた。動かそうと思えば動くが、指先の触覚が鈍い。三日間、【至極の理】を維持し続けた代償だった。
視界も滲んでいる。焦点を結ぶのに、以前より一拍かかるようになっていた。まばたきをすると、視界の端が暗く翳る。翳りが消えるまでに、数秒。
だが、瞳の奥にある力は途切れていなかった。【至極の理】は、意志がある限り消えない。三日間かけて外層を剥がし、中間層を解いた。暗示の糸を一本ずつ断ち、セレナの記憶に絡みついた嘘の根を引き抜いた。
残っているのは、最深層の核だけだった。
セレナは目の前にいた。
部屋の中央、術式陣の円の中に座っている。三日間、この姿勢を崩さなかった。両手は膝の上に置かれ、背筋が伸びている。帯に覆われた顔は正面を向いたまま、微動だにしない。
だが、細い肩がかすかに上下していた。呼吸だった。浅くはない。深く、意識して保っている呼吸。痛みに耐える者の息遣いだった。
この三日間、セレナは一度も声を上げなかった。呪毒の層を剥がすたびに、彼女の体は強張り、額に汗が浮かんだ。唇を噛みしめ、拳を握り込み、それでも声を殺し続けた。耐えていた。ゼノリスが解くと決めたものに対して、彼女は自分の意志で向き合い続けていた。
術式陣の向こう側で、シルヴァが座っていた。
壁に背を預け、両足を投げ出している。三日前の凛とした姿勢とは別人だった。帳面は膝の上に開いたまま、ページの端が折れ曲がっている。インクの染みた指先は帳面の上に載せられているが、力が入っていない。
だが、目は開いていた。
術式陣の光の揺らぎを、瞬きもせずに見つめている。陣の脈動に合わせて、唇がかすかに動いていた。詠唱ではない。術式の状態を、声にならない言葉で数えている。三日間、この陣を途切れさせなかった。シルヴァの意地だった。
扉の向こうに、もう一つの気配があった。
カイロだった。三日間、あの扉の前から動いていない。食事を運び、水を差し入れ、それ以外の時間は扉の外に立っていた。誰も近づけさせないために。この部屋で何が行われているかを知る者を、限定するために。
風が、窓から入ってきた。夜の空気は冷たかった。三日前の朝の風とは質が違う。湿り気を含んだ重い風が、術式陣の光を揺らした。
ゼノリスは目を閉じた。
一度だけ、深く息を吸った。肺に冷たい空気が入る。吐いた。指先に、ほんのわずかだけ感覚が戻った。
目を開けた。
【至極の理】の視界が、重なった。
セレナの姿が変わる。通常の視界の上に、もう一枚の層が被さるように、彼女の本質が透けて見える。頭上に浮かぶ黄金の星。その輝きは三日前と変わらない。眩いほどの光。だが、星の奥――瞳の奥深くに、黒い塊が蟠っていた。
核だった。
三日前は三層の靄に覆われて形が見えなかった。外層と中間層を剥がした今、核の輪郭がはっきりと浮かんでいる。黒く、硬く、セレナの瞳の神経に根を食い込ませている。小さい。だが、密度が違う。この一点に、勇者が込めた呪毒のすべてが凝縮されている。
「見えました」
声を出した。自分の声が、三日前より掠れていることに気づいた。
「呪いの核は、あなたの瞳の奥深くにあります」
セレナの唇が、わずかに動いた。
「……はい」
短い返事だった。声も掠れていた。三日間、水以外ほとんど口にしていない。だが、声の芯は折れていなかった。
「セレナさん」
ゼノリスは姿勢を正した。膝の上の手を持ち上げた。指先の感覚が鈍い。だが、動く。まだ動く。
「今から、呪いを解きます。少し痛むかもしれません」
セレナが頷いた。
「大丈夫です」
声が、静かだった。
「……ゼノリス様を信じています」
三日間、何度も聴いた言葉だった。外層を剥がす時も。中間層の暗示を断つ時も。痛みが走るたびに、セレナはこの言葉を繰り返した。呪文のように。自分を支える柱のように。
同じ言葉なのに、聴くたびに重みが増していく。
ゼノリスは手を伸ばした。
セレナの顔に向けて。帯の――絹の帯の、端に。
指が触れた。
絹の表面は、三日間の汗と涙を吸って、最初に触れた時より重くなっていた。繊維の一本一本が湿りを含み、こめかみの肌に貼りついている。
帯の下に、呪毒の核がある。
指先に、【至極の理】の力を集中させた。瞳だけではない。触れている指先から、セレナの呪毒へ直接干渉する。核の構造を読み、繋がりを視、根を一本ずつ見極める。
術式陣の光が、一段強まった。シルヴァが察したのだろう。陣の出力を上げている。
核に、触れた。
衝撃が、指先から腕を駆け上がった。肘まで痺れが走り、肩の筋が引き攣る。核が異物の接触を感じ取り、拒絶したのだ。
セレナの体が、びくりと跳ねた。肩が持ち上がり、握り込んでいた拳が一瞬、開いて、すぐにまた閉じた。唇の隙間から、短い息が漏れた。声ではない。声にすまいとして堪えた、息の欠片だった。
指を離さなかった。
核の表面が震えている。【至極の理】の視界の中で、黒い塊がざわめくように蠢いていた。根が締まる。セレナの神経に食い込んだ根の一本一本が、引き剥がされまいとして、さらに深く潜ろうとしている。
「シルヴァ」
名を呼び、続け言った。
「核が根を締めています。外殻を押さえてください」
シルヴァの返事はなかった。代わりに、術式陣の光が変質した。青白い光の中に、銀の筋が一本、二本と走り始める。陣の模様が組み替わっていく。シルヴァが術式の構造を即座に書き換えたのだ。銀の光がセレナを囲む円に沿って流れ、呪毒の外殻を包み込むように収束していく。
根の動きが、鈍った。
シルヴァの術式が、呪毒の外殻を固定している。根がこれ以上深く潜れない。逃げ場を塞いだ。
今だった。
ゼノリスは指先の力を研ぎ澄ませた。【至極の理】が核の構造を暴いていく。根が一本、浮き上がる。黒い糸のような細い根だった。セレナの視神経に絡みついている。
視た。構造を視た。この根がどこから伸び、何に繋がり、どう巻きついているか。すべてが見える。見えれば、解ける。
根を、一本断った。
セレナの肩が揺れた。息を呑む音が聞こえた。だが、声は出さなかった。
二本目。三本目。根を断つたびに、核の塊が小さくなっていく。黒い表面に亀裂が走る。中から、黒い靄が漏れ出した。勇者が込めた呪毒の残滓だった。靄はシルヴァの術式陣に触れた瞬間、銀の光に焼かれて消えた。
四本目の根は、最も太かった。瞳の奥の、最も深い場所に突き刺さっている。
ゼノリスの指先が、震えた。疲労ではない。この根を断てば、呪毒は消える。セレナの瞳が、光を取り戻す。三日間かけて辿り着いた、最後の一本だった。
断った。
そして、核が砕けた。
音はなかった。だが、【至極の理】の視界の中で、黒い塊が内側から崩壊していくのが見えた。亀裂が走り、欠片が散り、靄になって溶けていく。術式陣の銀の光が残滓を一つ残らず焼き尽くし、やがて靄は消えた。
セレナの頭上で、黄金の星が輝いていた。
三日前と同じ星だった。だが、奥にあった黒い影が消えている。純粋な黄金の光だけが、静かに瞬いていた。
指先から、力が抜けた。【至極の理】の視界が薄れ、通常の視界に戻っていく。
「……これで、終わりです」
声が掠れていた。自分の声が、こんなにも細くなっていることに驚いた。
◇◇◇
ゼノリスは、帯に手をかけた。
結び目が硬かった。三日間の汗が絹を締めている。爪の先で端を起こし、引いた。
絹が解けていく。一巻き、一巻き。セレナの額から滑り落ちるたびに、帯の圧で赤くなった肌が現れた。こめかみ。頬の縁。鼻の付け根。
最後の一巻きが落ちた。
瞼が、現れた。
閉じていた。薄い瞼が、長い睫毛ごと伏せられている。陶器のような白い肌の中で、瞼だけがわずかに赤みを帯びていた。泣いた跡だった。
帯が指の間を滑り、床に落ちた。湿った絹が石の上で小さな音を立てた。
セレナの顔が、帯なしでそこにあった。
初めて見る顔だった。丸みを帯びた輪郭。陶器のように滑らかな肌。銀の髪が額にかかり、頬に一筋垂れている。
瞼が、動いた。
ゆっくりと。本当にゆっくりと。長い睫毛が震え、薄い瞼が持ち上がっていく。
光が差し込んだのだろう。セレナの眉がかすかに寄った。眩しさに耐えるように、瞼が一度閉じかけた。だが、閉じなかった。もう一度、力を込めて開いていく。
瞳が、見えた。
深い藍色だった。
術式陣の青白い光を映して、その藍色は底の見えない湖のように澄んでいた。長い闇の中にあった瞳が、初めて光を受けている。潤んでいた。涙が、瞳の表面に薄い膜を作っている。
その瞳が、動いた。
焦点を探すように、揺れた。左右に。上下に。見えているのに、何を見ているのか分からない。光の洪水の中で、視覚という感覚を取り戻したばかりの瞳が、世界の形を掴もうとしている。
そして――ゼノリスの顔で、止まった。
「……見える」
セレナの唇が、震えながら動いた。
「光が……見える」
声が裂けた。三日間耐え続けた声が、最後の一言で壊れた。涙が、藍色の瞳から溢れ出した。頬を伝い、顎を伝い、膝の上の拳に落ちた。
帯はもうない。涙を吸い取る絹はない。溢れたものが、そのままセレナの顔を濡らしていく。
セレナの瞳が、ゼノリスを見つめていた。涙の膜の向こうで、藍色の瞳がまっすぐにこちらを捉えている。初めて見る顔を、初めて得た光で、見つめている。
「ゼノリス様……」
名前を呼ぶ声が、震えていた。
泣きながら、笑っていた。涙で歪んだ顔が、それでも笑みの形を作っている。初めて見る笑みだった。帯の下に隠されていた笑みが、初めて光の中に晒されている。
胸の奥で、何かが軋んだ。
顔に出すな。ここで崩れるな。
だが、唇が震えた。一瞬だけ。噛みしめて、止めた。
セレナの瞳が、涙の向こうで揺れた。何かを探しているように。声を探しているように。
そして、唇が開いた。
「あなたが……」
声は細かった。だが、一言ずつ、確かに紡がれた。
「……私の、音の主」
風が、二人の間を吹き抜けた。




