第146話:「光への誓い」
廊下に出ると、セレナの足音が半歩後ろで鳴った。
ゼノリスは振り返らなかった。手も差し伸べなかった。彼女の足が、ゼノリスの歩幅に合わせて石の床を刻んでいる。靴底が踏む間隔が、一歩ごとに正確だった。壁に手を添えている気配もない。空気の流れだけで廊下の幅を測り、背中を追っている。
【心眼】の精度が、この距離でも分かる。
角を曲がった。廊下の先に、階段の入口があった。石壁の切れ目から、上階の空気が降りてきている。湿り気の薄い、乾いた風だった。
足を止めた。
「階段です。段差は高めで、手すりはありません」
振り返った。
セレナが立っていた。銀髪が廊下の採光窓から差す朝の光を受けて、白く浮いている。帯に覆われた瞳の下で、唇がわずかに引き結ばれていた。先ほど執務室で泣いた跡は、もう見えない。帯の絹が吸い取ったのだろう。だが、頬の上にかすかな赤みが残っていた。
「大丈夫です」
セレナが答えた。声は澄んでいた。
ゼノリスは階段に足をかけた。
一段目。石の角が靴底を押し返す。古い石段だった。城の最上階へ続くこの階段は、日常の動線から外れている。使う者がほとんどいないため、埃が薄く積もり、足を踏むたびにかすかに滑る。
二段目。セレナの足音が続いた。ゼノリスが踏んだ段を、同じ間隔で踏んでいる。一段目で段差の高さを把握し、二段目でもう適応していた。
三段目で、ゼノリスは気づいた。
彼女の足音が変わっている。一段目はわずかに探るような間があった。二段目でそれが消え、三段目から先は、ゼノリスと同じ速さで刻まれている。視覚なしで、足裏の感触だけで段差の規則性を掴み取った。
背筋が伸びた足音だった。
階段を上がるにつれ、空気が変わっていった。石壁が薄くなり、外の風が隙間から吹き込んでくる。城下の音は遠ざかり、代わりに風そのものの音が近くなった。壁を叩く風の振動が、頬に触れるほどに強まっている。
光も変わった。階段の途中に設けられた狭い採光口から、朝の日差しが斜めに射し込んでいる。壁に当たった光が石の表面で散り、階段全体が薄い金色に染まっていた。
足を進めながら、ゼノリスは胸の内にある熱を押さえていた。
あの告白を受けた時――セレナが『あなたを信じます』と言った時――喉の奥に込み上げてきたものがあった。嬉しさではなかった。怒りだった。勇者に対する、深く、静かな怒り。
あの男は、この人の窓を塞いだ。
声だけの世界に閉じ込め、嘘で編んだ壁で外界を遮断した。それだけではない。目を奪った。光を奪った。真実を見る手段そのものを、……呪毒で封じた。
ゼノリスが【至極の理】でセレナを視た時のことを、覚えている。
彼女の星は眩いほどの黄金だった。だが、その輝きの奥に異物があった。星の光を内側から蝕む、黒い靄のようなもの。呪毒だった。勇者の術式が、彼女の瞳の奥に根を張っている。精密で、巧妙で、解こうとした者を逆に蝕む仕掛けまで施されていた。
あれは、才能ある術者の仕事ではなかった。才能ある者に命じて作らせた、支配のための道具だった。
階段の最後の段を踏んだ。
風が、正面から吹きつけた。
最上階の廊下は短かった。両側に壁はあるが、左手に大きな窓が二つ並んでいる。硝子は嵌まっておらず、風がそのまま吹き抜けていた。窓の外に、空が広がっている。城下の屋根が遥か下に見えた。朝の光が屋根の瓦を一枚ずつ照らし、その向こうに農地の緑が地平まで続いていた。
セレナの髪が、風に攫われた。銀の糸が横に流れ、頬に一筋かかる。彼女は払わなかった。風の方角に顔を向け、一瞬だけ立ち止まった。
風を聴いているのだろう。
この高さから聴こえる城下の音は、地上で聴くそれとは違う。個別の声や足音は溶けて、ひとつの低いうねりになっている。領地全体の鼓動のような音。セレナの耳には、それがどう届いているのだろうか。
だが、今は問わなかった。
「こちらです」
廊下の突き当たりに、扉があった。
◇◇◇
扉を開けた。
蝶番が、長く使われていなかった金属特有の、渋い音を立てた。押し込むと、内側の空気が一気に動いた。
部屋は広くなかった。城の最上階にある一室。四方の壁は石だが、正面の壁だけが違っていた。壁の半分以上を占める大きな窓が、外に向かって開いている。窓枠は木製で、風雨に晒されて色が褪せていた。
朝の光が、窓から床一面に流れ込んでいる。石の床が白く照らされ、埃の粒子が光の中で緩やかに舞っていた。
風が強かった。窓に硝子はなく、外の空気がそのまま部屋の中を通り抜けている。セレナの髪が再び横に流れた。帯の端が、肩の上で揺れている。
ゼノリスはセレナより先に部屋に入り、足元を確かめた。
床に、薄い線が走っていた。
石の表面に、白い粉で細い幾何学模様が描かれている。円弧。直線。交差する線。術式陣の下地だった。完成したものではない。骨格だけが、部屋の中央を囲むように敷かれている。
シルヴァの仕事だった。
あの指先のインク染みが、ここにも残っている。線の引き方に迷いがない。一本一本が正確に、必要な角度と間隔で刻まれている。いつ描いたのかは知らない。だが、セレナの呪毒の事を話した日から――あるいは、もっと前から――シルヴァは準備を進めていたのかもしれない。
カイロも、知っている。あの者が何も知らずにいるはずがなかった。
「セレナさん、中へ」
声をかけた。セレナは一歩踏み出し、部屋の空気の中に入った。
彼女は立ち止まった。窓からの風を正面に受けて、背筋を伸ばしたまま立っている。帯の下の表情は読めない。だが、両手が体の横に下ろされていた。握り込んではいない。指が開いている。
ゼノリスは彼女の正面に立った。
窓からの光が、彼女の横顔を照らしていた。陶器のように滑らかな肌が、朝の光を受けて淡く輝いている。帯の絹が、こめかみから後頭部にかけて巻かれている。その下に――あの呪毒が、根を張っている。
今から、彼女の世界を一つ壊す。
勇者が作り上げた嘘の中で、最も残酷な嘘を暴く。
「セレナさん」
名前を呼んだ。声が、部屋の石壁に吸われて消えた。風の音だけが、二人の間を通っている。
セレナが顔をこちらに向けた。帯の下で、微かに瞼が動いた気配があった。聴いている。ゼノリスの声の方角に、意識を集中させている。
「あなたの目のことです」
一拍、置いた。
「あなたの目は――勇者の呪毒によって、封じられています」
風が、窓から吹き込んだ。セレナの髪が揺れた。
それ以外、何も動かなかった。
セレナの体が、石のように静止していた。呼吸すら止まっている。両手が――先ほどまで開いていた指が――ゆっくりと、拳の形に閉じていくのが見えた。
「呪毒……ですか」
声が、細かった。
「私は……父を亡くしたショックで、目が見えなくなったと……」
「それは、勇者があなたに信じ込ませた嘘です」
ゼノリスの声が、自分でも分かるほど低くなっていた。抑えている。怒りを、声に乗せないように。この怒りはセレナに向けるものではない。
「あなたの目は、勇者が意図的に封じました。真実を――勇者の行いの真実を、あなたに見せないために」
セレナの唇が開いた。言葉が出かけて、止まった。喉が詰まったのだろう。唇が震えている。小さく、だが確かに。
「そんな……」
声が途切れた。
「なぜ、勇者様が……」
その問いに、ゼノリスは目を逸らさなかった。帯の向こうに目があることを知っていた。見えていなくても、そこにある瞳に向けて、答えた。
「あなたを、道具として扱うためです。真実を見せず、嘘だけを聴かせて、自分のために歌わせ続けるために」
セレナの肩が、一度だけ跳ねた。
それから、震えが来た。肩から腕へ、腕から指先へ。細い体が、風に揺れる草のように震えている。膝が折れかける気配があった。
手を伸ばしかけ――止めた。
今、触れてはいけない。彼女が立っているのは、自分の足で立っているからだ。支えれば、この方は自分の足で立ち直る機会を失う。
セレナの膝が、震えながらも踏みとどまった。
両手が体の前で重なった。右手が左手を包み、きつく握り込んでいる。さっきまで開いていた指が、今は白くなるほど力が入っていた。
風が、窓から吹き抜けた。
セレナの銀髪が乱れ、帯の端が肩から滑り落ちかけて、すぐに戻った。
震えが、止まった。
唐突だった。肩から指先まで走っていた細かい振動が、波が引くように消えた。握り込んでいた手の力が、ほんのわずかだけ緩んだ。白くなっていた指に、血の色が戻り始めている。
「……本当に」
セレナの声が、風の隙間から聞こえた。
「私の目が、見えるようになるのですか」
問いだった。だが、取り乱した声ではなかった。震えの底を潜り抜けた後の、静かな声だった。
ゼノリスは答えた。
「ええ。ただし、呪いを解くには時間がかかります。そして――あなたの強い意志が必要です」
呪毒は、ただ壊せば済むものではない。勇者の術式は彼女の瞳の奥に根を張り、神経の一本一本に絡みついている。力任せに引き剥がせば、感覚そのものを損なう。構造を見極め、一つずつ解いていかなければならない。
その間、痛みが伴う。術式が抵抗する。呪毒が暴れる。それに耐える意志が――彼女自身の意志が、なければ成らない。
セレナの唇が動いた。
「……怖いです」
正直な声だった。震えを通り抜けた後に残った、剥き出しの声だった。
「怖いです。でも――」
帯の下で、頬が持ち上がった。涙の跡が残っている頬が、それでも笑みの形を作っていた。
「――見たいのです。この領地を、この世界を、自分の目で」
胸の奥が、熱くなった。
喉の奥で何かがせり上がり、顎の筋肉が勝手に強張った。ゼノリスは唇を引き結んだ。一つ、長く息を吐いた。吐き切るまでの間に、熱を喉の下に押し戻した。
声に怒りも、動揺も、滲ませてはならない。
「ありがとうございます」
それだけを言った。
◇◇◇
扉が、二度叩かれた。
短く、正確な音だった。間隔に迷いがない。この叩き方を、ゼノリスは知っていた。
「入ってください」
扉が開いた。
最初に入ってきたのはカイロだった。黒い外套が風を受けて揺れている。部屋の中を一瞬で見渡し、セレナの位置とゼノリスの位置を確認した。それだけで状況を把握したのだろう。表情は変わらなかった。
「準備が整いました」
結論だけを告げた。
カイロの後ろから、シルヴァが入ってきた。手に薄い帳面を抱えている。インクで汚れた指先が、帳面の角を押さえていた。部屋に入ると、視線が床の術式陣に落ちた。自分が描いた線を一巡して確かめるように、目が動いている。
「構造の解析は完了しています」
シルヴァが言った。帳面を開き、指で一箇所を示した。
「呪毒の構造は三層です。最外層は感覚遮断――視神経の信号を塞ぎ、視覚そのものを封じる呪いの層です。中間層は記憶改竄の補助――視力喪失の原因を『ショック』に置き換える暗示。最深層が核です。瞳の奥に根を張り、他の二層を繋ぎ止めている。核を砕かなければ、外の層を剥がしても再び呪毒が広がります」
端的だった。必要な情報だけを、必要な順序で並べている。シルヴァの報告はいつもそうだった。
「核は、通常の【解呪】では突破できません」
シルヴァの視線が、ゼノリスに向けられた。
「ですが――ゼノ様の【至極の理】であれば、核の構造を直接視ることができます。構造が見えれば、私の術式で分解できます」
カイロが一歩前に出た。
「術式陣の素材は揃えてあります。陣の展開と維持は俺が担当します。シルヴァが術式を制御し、ゼノリス様が核を視る。三人で分担すれば、崩れません」
セレナの方を見た。
彼女は二人の声を聴いていた。顔はカイロの方角に向けられ、次にシルヴァの声が聞こえた方角へ動いた。二人の声を、耳で追っている。
「……三日三晩はかかります」
セレナに向けて、ゼノリスは言った。
「呪毒の核は深い。一息に砕けば、あなたの体に負荷がかかりすぎます。時間をかけて解いていきます」
セレナが頷いた。小さく、だが迷いのない動きだった。
「分かりました」
カイロが腕を組んだ。外套の袖の中で指が動いている。何かを数えているのか、あるいは段取りを頭の中で確認しているのか。視線はセレナに向けられていたが、すぐに逸らされた。
シルヴァが帳面を閉じた。
「準備は万全です。あとは――ゼノ様が、始めるだけです」
ゼノリスは頷いた。カイロとシルヴァに視線を送った。二人がここにいる。この二人は、頼む前から動いていた。呪毒の構造を解析し、術式陣の素材を揃え、術式を組み上げていた。
言葉にはしなかった。礼も、感謝も、今は口にしない。この二人は、そういうものを必要としない。結果で返す。それが、ゼノリスたちの形だった。
ゼノリスはセレナの前に歩み出た。
片膝をついた。
石の床が、膝を通じて冷たさを伝えてくる。セレナの足元に、自分の目線を下ろした。彼女を見上げる形になった。帯に覆われた顔を、下から仰いでいる。
「セレナさん」
声が、低く出た。
「怖くはありませんか」
セレナの唇が、ほんのわずかに綻んだ。
笑みだった。先ほどの、涙の跡の上に浮かんだ笑みとは違っていた。穏やかで、静かで、芯のある笑みだった。
「ゼノリス様が一緒なら、怖くありません」
声に、嘘がなかった。
【至極の理】で視るまでもなく、分かった。この声には何の混じり気もない。恐怖を押し殺しているのでもなく、虚勢を張っているのでもない。ただ信じている。その声が、ゼノリスの耳に届いていた。
膝の冷たさが、意識を引き戻した。
立ち上がった。窓からの光が、正面から差し込んだ。
ゼノリスはセレナに向き直った。
「では、始めましょう」
風が、四人の間を吹き抜けた。
「セレナさん――あなたの光を、取り戻します」




