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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

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第145話:「誠実な告白」

 指先に、木目の筋が触れていた。


 扉の表面だった。乾いた木の繊維が、指の腹にかすかな凹凸を刻んでいる。節のある場所は少し盛り上がり、その周囲は滑らかに磨かれていた。何度も人の手が触れてきた扉なのだろう。角が丸い。


 その向こうに、音があった。


 紙をめくる音。薄い紙が空気を切り、机の上に置かれる。間を空けて、もう一枚。規則正しいが、速くはない。一枚ずつ、中身を確認しながらめくっている音だった。


 ゼノリス様がいる。


 セレナは指を扉から離した。離して、拳を作った。指の節々が軋み、腕全体が細かく震えるほど、きつく握りしめた。


 握りしめた拳を、扉に当てた。


 二度、叩いた。


 木を打つ硬い音が、廊下に跳ね返った。自分の心音と重なった。どちらが先に鳴ったのか、分からなかった。


 向こう側で、紙をめくる音が止まった。


 椅子が軋んだ。足が床を踏む音。一歩、二歩。扉に近づいてくる。


「はい」


 ゼノリス様の声だった。扉一枚を隔てて、すぐ向こうにある。穏やかで、構えのない声。朝の執務中に訪ねてきた者を迎える、いつもと変わらない声だった。


 セレナは息を吸った。肺の底まで空気を入れた。吐いた。


「ゼノリス様、お話があります」


 声は、震えなかった。


 扉が開いた。木が枠を離れる音がして、空気の層が動いた。執務室の匂いが、廊下に流れ出てきた。紙の繊維。蝋燭の残り香ではなく、朝のインクの匂い。書き物を始めたばかりの匂いだった。それから、窓の向こうの風。城下から吹き上がる、土と草の混じった朝の空気が、執務室の中を通り抜けている。


「セレナさん、どうぞ」


 声の位置が変わった。ゼノリス様が一歩退いたのだろう。扉の前から体を引き、道を空けている。


 セレナは一歩踏み出した。


 足裏の感触が変わった。廊下の石とは違う、木の板だった。執務室の床は木が敷いてある。靴底を通じて伝わる硬さが、石より柔らかい。


 二歩目で、室内の空気に包まれた。風の流れが変わる。廊下では左右に抜けていた風が、ここでは窓の一方向から入り、壁に当たって返ってくる。部屋の広さが、風の跳ね返り方で分かった。執務室は広くない。机と椅子と、書棚がある程度の空間。


 背後で、扉が閉まった。ゼノリス様が閉めたのだろう。蝶番の軋みは小さく、丁寧に押し込んだ音だった。


 廊下の音が断たれた。城下のざわめきも、石壁を伝う風の唸りも。残ったのは、窓から入る風の流れと、二人の呼吸だけだった。


「座りますか?」


 ゼノリス様の声が、右手の方角から聞こえた。椅子を示しているのだろう。


「……いえ」


 セレナは立ったまま答えた。


 膝が震えていた。かすかに、だが確かに。座ったら、立ち上がれなくなる。そう思った。今ここで膝を折れば、口にすべき言葉がどこかへ沈んでいってしまう。立っていなければ、声が出ない。


「このまま、お話しさせてください」


「分かりました」


 ゼノリス様はそれ以上、勧めなかった。椅子の軋む音がした。ゼノリス様が座ったのだろう。セレナに合わせて立ち続けるのではなく、座った。それが、この方のやり方だった。相手を見上げる位置に、自分を置く。


 沈黙が落ちた。


 窓の外から、城下の音がかすかに届いている。荷車が石畳を踏む振動。遠くで誰かが名前を呼んでいる。槌の音が、鍛冶場の方角から二つ、三つ。


 あの音だった。


 毎朝、窓辺で聴いてきた音。荒廃地に鍬が入り、市場が生まれ、種族の違う声が混じり合っていく──セレナが耳で追い続けてきた、この領地の音だった。


 あの音が、背中を押した。


 セレナは口を開いた。


「私は、ずっと……勇者様の言葉を信じていました」


 声が、執務室の壁に吸い込まれた。言葉が、部屋の空気に溶けていく。


 ゼノリス様は何も言わなかった。紙をめくる音も、椅子が動く音もしなかった。ただ、呼吸が聞こえた。深く、ゆっくりとした呼吸。聴いている。黙って、聴いている。


 その呼吸の音に支えられるようにして、セレナは続けた。


「魔王は残虐な魔族だと。父を殺した仇だと。……勇者様がそうおっしゃって、私は、それを疑ったことがありませんでした」


 唇が乾いていた。舌で一度なぞった。言葉を探しているのではなかった。もう、言葉は決まっている。ただ、口が追いつかないだけだった。胸の奥にあるものが大きすぎて、喉を通る時に引っかかる。


「勇者様の声には、嘘がありませんでした。少なくとも、私の耳にはそう聞こえていました。あの方の声は穏やかで、悲しみを含んでいて、私を守ろうとしてくれている声だと……そう信じていました」


 セレナの両手が、体の前で重なった。右手が左手を包んだ。指先が冷たかった。握ったまま、力を入れた。爪が掌の皮膚に食い込んだ。


 ここから先は、今までの自分を壊す言葉だった。


「でも……この耳が聴いた音は、違いました」


 声が変わった。自分でも分かった。さっきまでの、喉に引っかかるような声ではなかった。腹の底から、まっすぐに出てきた声だった。


「この城に来てから、私はずっと音を聴いていました」


 セレナは言葉を切った。窓の外から、城下の音が流れ込んでいる。槌の音。荷車の振動。呼びかけ合う声。セレナが言葉にするより先に、音そのものが部屋に入ってきていた。


「……今、聞こえているこの音です」


 セレナの声が、一段低くなった。


「苦しみの音が、どこにもありませんでした」


 セレナの声が、一段低くなった。


「勇者様は、魔王は残虐な魔族だとおっしゃいました。でも、残虐な魔族が治める土地から、あんな音は聞こえません」


 ゼノリス様の呼吸が、変わらなかった。深く、ゆっくりと。聴いている。急かさない。遮らない。ただそこにいて、セレナの言葉を受け取っている。


「ゼノリス様の音は……誰よりも温かかった」


 喉が詰まりかけた。言葉を押し出した。


「領民に才能を告げる声も。廊下ですれ違った時の声も。嘘がなかった。どの言葉にも、同じ温度がありました。上から降ってくる声ではなく、隣に置かれた声でした」


 セレナの手が、さらに強く握られた。爪の先が、掌の肉に沈んでいる。痛い。だが、その痛みが言葉の綱だった。手放せば、声が途切れる。


「勇者様は……」


 一度、息が止まった。


 喉の奥で、何かが詰まった。飲み込もうとした。飲み込めなかった。


「……私の窓を、塞いでいました」


 声が細くなった。


「外の音が、届かないように。勇者様の声だけが聞こえる場所に、私を閉じ込めていました」


 言った。


 口にした。ずっと胸の奥に沈めていた言葉を、声にした。


 その瞬間、何かが壊れた。胸の内側で張り詰めていた糸が、音もなく切れた。


 目が熱くなった。見えない目が、熱を持った。帯の布の内側に、湿りが広がっていく。頬には伝わらなかった。帯が吸い取っている。絹の繊維が、溢れ出るものを受け止めている。


 声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ、呼吸が浅くなった。吸って、吐いて。吸って、吐いて。それだけを繰り返した。


 ゼノリス様は、何も言わなかった。


 椅子が動く音もしなかった。手を差し伸べる衣擦れも、立ち上がる足音も。ただ、そこにいた。同じ場所で、同じ姿勢のまま。セレナの呼吸が戻るのを、待っていた。


 どれほど経ったのか。


 呼吸が、深くなった。吸える空気が増えた。胸の詰まりが、少しずつ解けていく。帯の内側はまだ湿っている。だが、新しい涙は出なくなっていた。出し切ったのではない。必要な分だけが流れて、止まった。


「……セレナさん」


 ゼノリス様の声が、沈黙を破った。


 静かだった。いつもと変わらない声の温度だった。だが、そこに何かが加わっている。ほんのわずかに、声の輪郭が柔らかくなっていた。


「あなたは、何も間違っていません」


 短い言葉だった。


「騙されていたのです。あなたの耳が聴いた音は、正しい」


 その声が、セレナの耳に触れた。言葉の意味より先に、声の質が届いた。否定がない。責めがない。セレナの勇気を量ることも、試すこともしない。ただ、セレナが辿り着いた場所を肯定している。


――あなたの耳が聴いた音は、正しい。


 その一言が、胸の奥に落ちた。重かった。だが、苦しい重さではなかった。足元に据えられる石のような、確かな重さだった。


 セレナは握り込んでいた手を、ゆっくりと開いた。痺れが指先に広がっていく。


「私は……もう迷いません」


 声が出た。


 さっきまでとは違う声だった。細くもない。震えてもいない。澄んでいた。胸の奥から、まっすぐに出てきた声だった。


「あなたを、信じます」


 言い終えた後、沈黙が落ちた。


 だが、重い沈黙ではなかった。窓の外から城下の音が流れ込んでいる。風が執務室を通り抜け、セレナの頬の湿りをさらっていく。帯の絹が、乾き始めている。


 ゼノリス様の呼吸が聞こえた。深く、長く吸い込む音。それから、吐く。いつもより、わずかに間が長かった。


 椅子が軋んだ。


 ゼノリス様が、立ち上がったのだろう。足が床を踏む音が鳴る。


 だが、空気が変わった。立ち上がったゼノリス様の気配が、さっきまでと違う。呼吸の深さが変わっている。何かを決めた人の呼吸だった。


「セレナさん」


 声が、まっすぐにこちらへ向けられていた。


「……私に、付いてきてください」


 穏やかな声だった。だが、その奥に硬いものがあった。決意の音だった。何かを始めようとしている。セレナのために、この人が何かを動かそうとしている。


 セレナの耳が、その声の中にある温度を拾った。いつもの穏やかさの下に、静かな怒りが混じっていた。セレナに向けたものではない。セレナの窓を塞いだ者に向けた、静かで深い怒りだった。


 セレナは頷いた。


「はい」


 一言だった。それだけで十分だった。


 窓の外から、風が吹き込んだ。城下の音を載せた風が、二人の間を通り過ぎていった。



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