第144話:「信じる決意」
鳥の声が、鎖骨の上に落ちてきた。
そう感じた。実際には、窓の隙間から入り込んだ朝の音だった。小さな鳥が、城壁の縁で鳴いている。短く、二度。間を置いて、もう一度。その音が空気を伝い、閉じた窓の隙間を通り、寝台の上に横たわるセレナの体に触れた。
目を開けた。見えない目を、それでも開けた。
暗闇は変わらない。だが、暗闇の質が違っていた。夜の暗闇には重さがある。朝の暗闇は、薄い。肌に触れる空気の温度が、夜と朝の境を教えていた。
頬に、何かが残っていた。
指を当てた。乾いた跡だった。涙が流れた道筋が、肌の上に細い線を引いている。帯に触れた。絹がわずかに硬くなっていた。湿りが乾いて、繊維が固まった感触。昨夜の涙の名残が、そのまま残っている。
拭わずに寝台の上で、仰向けのまま天井の方を向いた。
鳥がまた鳴いた。今度は三度。さっきより高い位置にいる。城壁の縁から、屋根の上へ移ったのだろう。
体が重かった。一晩中、眠れたのか、眠れなかったのか。その境界さえ曖昧だった。目を閉じるたびに、【超記憶】が音を蘇らせた。消すことのできない二つの声が、交互に再生された。何度目か分からない反復の果てに、朝が来た。
だが、今朝は違うものが残っていた。
疲労ではなかった。むしろ、疲労の底を突き抜けた先にある、妙な静けさだった。嵐の後に水面が凪ぐように、一晩かき回された思考が、沈殿して底に落ちていた。
二つの声が、まだ耳の中にある。
勇者様の声。
『すべて、私が守ってやる』
ゼノリス様の声。
『すべて、あなたが決めていい』
似た形をした言葉だった。『すべて』という同じ重みを持った言葉だった。だが、響きが違う。勇者様の声は、セレナの上から降ってきた。ゼノリス様の声は、セレナの隣に置かれた。
一晩かけて、ようやくその差に名前がつきかけていた。
勇者様の言葉は――支配だった。
セレナの指が、掛け布の端を掴んだ。固く、きつく。だが、昨夜のように震えてはいなかった。
――支配。
その言葉を、自分の中で口にした。声には出さなかった。口の中で、舌が動いただけだった。
勇者様は、セレナを守っていたのではない。閉じ込めていたのだ。庭園の花と鳥と歌だけの世界に。窓を塞ぎ、外の音を断ち、勇者様の声だけが届く場所に。
あの庭園は、美しい檻だった。
胃の底が冷たくなった。認めたくない言葉が、もう認めるしかない形で、体の中に沈んでいく。重い。だが、昨夜のような苦しさとは違っていた。苦しさの向こう側に、足がつく場所があった。
セレナは掛け布を剥いだ。
素足が床に触れた。床板の冷たさが、足の裏から脛へ昇っていく。その感覚が、頭の中の霧を薄くした。体が冷えている。一晩、掛け布の中で丸まっていた体が、朝の空気に触れて目を覚ましていく。
立ち上がった。
自室の空気は、まだ夜の名残を含んでいる。壁の石が冷気を溜め込み、窓の隙間から入る朝の風と混じり合って、ぬるい層を作っていた。
ここにいてはいけない、と思った。
この部屋は狭い。壁と天井が近く、空気が動かない。考え続けると、壁が迫ってくる。昨夜、同じ感覚に追われて廊下へ出た。今朝は、もっと遠くへ行きたかった。
もっと広い場所へ。音がある場所へ。
セレナは扉に手をかけた。木の表面が指の腹に食い込む。引いた。廊下の空気が、顔に当たった。自室より冷たく、わずかに動いている。どこかの窓が、昨夜から開いたままなのだろう。
足を踏み出した。
◇◇◇
廊下を抜けた先に、外への出口があった。
城の東側。厚い木の扉が、そこにあった。セレナの指がその蝶番に触れた時、鉄の冷たさと、表面のざらつきが指に伝わった。錆が浮いている。長い間、使われていない扉なのだろう。
押した。
蝶番が軋んだ。高い音が廊下に跳ね返り、すぐに消えた。扉の向こうから、空気が変わった。
風だった。
廊下の空気とは、まるで別のものが頬を撫でた。冷たさの質が違う。石壁に閉じ込められた冷気ではなく、空を渡ってきた風の冷たさだった。鼻先に、草の匂いが混じっていた。朝露に濡れた土の匂い。それから、木の葉がこすれ合う微かな衣擦れのような音。
一歩、踏み出した。
足裏の感触が変わった。
石の平らな面が消え、代わりに粒の粗い土が指の間に入り込んできた。小さな石が、足の裏にめり込む。その不揃いな感触が、屋内と屋外の境界を伝えていた。
二歩目で、草を踏んだ。短い草が、足の甲に触れて折れた。青い匂いがかすかに立ち上った。
石壁に反射する自分の足音が、今までより少し高く、硬く響いた。
城壁の内側。訓練場とは違う湿った土と古い石の匂いが立ち込めている。
ここは、誰の気配もしない静かな一角だった。
木が何本か植わっている気配がある。風が木の葉を揺らすたびに、頭上でさらさらと音が鳴った。枝の太さは分からないが、葉の量から察するに、背の高い木が二、三本はあるようだった。
セレナは歩いた。草の上を、ゆっくりと。足が地面の傾斜を拾い、木の根が土を持ち上げた段差を越えた。
三歩目で、手が幹に触れた。
樹皮だった。指の腹に、深い溝が刻まれた表面の凹凸が伝わる。乾いていて、温かくはない。だが、石壁とは違う温度だった。石には体温が返ってこない。木には、ほんのわずかに、触れた指の熱を留める柔らかさがあった。
セレナはそこで足を止めた。
幹に掌を当てたまま、立っていた。
風が、木の葉を揺らした。
頭上のさらさらという音に混じって、別の音が届いた。城壁の向こう側から。城下の音だった。
遠い。だが、朝の空気は音をよく運ぶ。風に乗って、一つずつ、セレナの耳に触れてきた。
最初に届いたのは、槌の音だった。鍛冶場が仕事を始めたのだろう。金属を打つ音が一定の間隔で繰り返されている。次に、荷車の車輪が石畳を踏む低い振動。続いて、水を汲み上げる音。桶が井戸の縁に当たる硬い響き。
声が混じり始めた。
呼びかけ合う声。荷を受け渡す時の短いやり取り。笑い声が一つ、高く弾けて、すぐに別の声に紛れた。子供の足音が走り、追いかける声が続いた。
セレナは幹に掌を当てたまま、耳を傾けていた。
一つひとつの音は、別々の場所から来ていた。鍛冶場から。市場から。街道から。井戸端から。方角も距離もばらばらだった。
だが、どの音にも、同じものが流れていた。
帰る場所がある人たちの音だった。
朝、仕事に出る。声を交わす。荷を運び、鉄を打ち、水を汲む。日が暮れれば、家に帰る。その営みが、毎日繰り返されている。途切れない。奪われない。誰かに怯えながらではなく、自分の足で、自分の声で、この場所に根を下ろしている人たちの音だった。
庭園には、こんな音はなかった。
その一言で、十分だった。勇者様の声が、耳の底から浮かんできた。
『魔王は残虐な魔族だ』
冷たかった。
今までは気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。勇者様が『正義』を語るたびに魂が拒み、耳鳴りに襲われていたのは、あの声の中にある冷たさを、体が先に感じ取っていたからではなかったか。
あの声は、セレナを守るための声ではなかった。セレナを繋ぎ止めるための声だった。
風が止まった。木の葉の音が消え、城下のざわめきだけが残った。
セレナは幹から手を離した。
掌に、樹皮の凹凸が肌に押しつけられて、跡がついている。指の腹がじんじんと痺れていた。どれほど長く、押し当てていたのだろう。
帯に手を当てた。
絹の布が、額と瞳を覆っている。勇者様の呪毒が封じた視力。この帯の下にある闇は、勇者様が作ったものだった。だが、その闇の中で、セレナは音を聴いてきた。【心眼】が空気の震えを拾い、【超記憶】が音を一つ残らず記憶した。
目が見えないから、耳が聴いた。
勇者様の声の温度も。ゼノリス様の声の温度も。領民たちの笑い声も。庭園の不自然な静けさも。すべて、この耳が拾ってきた。
音は、嘘をつかない。
セレナの唇が動いた。
──もう、迷わない。
声にはならなかった。だが、唇は確かに動いた。胸の奥で、一つの言葉が形を取った。
ゼノリス様の音を信じる。この目が見えなくても、音が教えてくれる真実を信じる。
勇者様の言葉が、遠くなった。消えたのではない。【超記憶】は消せない。あの声は永遠にセレナの中にある。だが、もうあの声に従わない。あの声の冷たさを、今は正しく聴き分けられるから。
セレナは背筋を伸ばした。幹のそばで、朝の風を受けて立っていた。
足元の草が、風に押されて一方向になびいている。その草の先に、城下がある。音が聞こえている。槌の音。声。笑い。荷車。途切れることのない、暮らしの音。
ゼノリス様が作った音だった。
◇◇◇
足が、動いた。
草の上を踏み、土を踏み、石畳に戻った。足裏の感触が、屋外から屋内への境界を告げた。廊下の空気が体を包んだ。石壁の匂いが鼻に触れ、頭上の天井が近くなった気配がある。
だが、狭さを感じなかった。
歩いていた。廊下の奥へ。足音が石の床に響いている。自分の足音を、セレナは聴いていた。行きとは違う音がしていた。歩幅が広い。足が床を踏む音が、一つずつ明瞭になっている。
角を曲がった。
執務室の方角だった。朝のこの時間、ゼノリス様はあの部屋にいるはずだった。机の前に立ち、報告書に目を通しているか、カイロと言葉を交わしているか。あの等間隔の足音の主が、あの部屋にいる。
廊下の先から、紙の匂いがかすかに届いた。
足が止まらなかった。迷いが消えたわけではない。勇者様の言葉を完全に捨てたわけでもない。あの声はまだ耳の中にある。だが、足は止まらなかった。
伝えなければならないことがある。
この耳が聴いた真実を。この音が教えてくれたことを。ゼノリス様に。
廊下の奥に、扉の気配があった。木の匂い。その向こうに、人の気配。
セレナは足を止めた。
扉の手前で、一度だけ深く息を吸った。朝の空気が、肺の奥まで入ってきた。吐いた。胸が軽くなった。
──ゼノリス様に、お伝えしなければ。
指が、扉に伸びた。




