第143話:「決意の前夜」
――あの夜のことを、覚えている。
扉を閉めた瞬間、音が変わった。
城下のざわめきが一枚の壁で隔てられ、代わりに自分の足裏が床を擦る音だけが残った。窓は閉まっている。風は入ってこない。部屋の空気は動かず、夜の冷えがゆっくりと肌の上を這っていた。
セレナは扉に背を預けた。肩甲骨が木の板に当たる。硬い感触が、背中を通じて胸の奥に届いた。
あの窓辺のことを、まだ引きずっている。
ゼノリス様と並んで立った、あの廊下。城下の音を一緒に聴いた。灯りが増えていく気配。門をくぐる荷車の音。門番の声。それから、あの方の声。
『聴いていただきたかった。これが、私が目指した領地です』
あの言葉が、まだ耳の中にある。
セレナは扉から背を離し、部屋の奥へ歩いた。右手を壁に沿わせ、三歩で机の角に触れ、さらに二歩で寝台の縁に指が届いた。腰を下ろした。掛け布が膝の下で皺を寄せた。
目を閉じた。見えない目を、それでも閉じた。
静かだった。
だが、静かなのは部屋だけだった。
頭の中は、違う。
【超記憶】が覚えている音が、一つずつ浮かび上がってくる。止めようとしても止まらない。意志で消せるものではなかった。一度耳に入った音は、永遠にそこにある。
最初に蘇ったのは、勇者様の声だった。
『魔王がお前の父を殺した。私が家族になろう』
あの日の声。庭園の石畳に膝をついたセレナの頭上から降ってきた声。低く、重く、悲しみを含んでいた。目の前で父を失った少女に向けた声。あの声に嘘の震えはなかった。
【超記憶】が、同じ精度で次の音を蘇らせる。
『お前は何も心配しなくていい。すべて、私が守ってやる』
庭園の花が揺れる音。鳥の歌声。風に乗る甘い香り。その中で語られた言葉。勇者様の声は、いつも穏やかだった。怒鳴ることはなかった。急かすこともなかった。
だが。
セレナの指が、膝の上の掛け布を掴んだ。布が拳の中で歪む。
穏やかだった。そう、確かに穏やかだった。だが、あの庭園には、勇者様の声しかなかった。人は黙っていた。
今まで、それを不自然だと思わなかった。……この城に来るまでは。
ここでは、朝から晩まで音が途切れない。人の声で溢れている。苦しみの音ではない。自分の声で、自分の言葉で、息をしている音だった。
勇者様は言った。魔王は残虐な魔族だと。
だが、残虐な魔族が治める土地から、なぜあの音が聞こえるのか。
セレナの指が、掛け布をさらに強く握り込んだ。爪が布の繊維に食い込んでいる。
分かっている。もう、分かりかけている。ただ、認めたくないだけだ。
勇者様の声に、嘘はなかった。それは本当だ。あの声の震え方に、偽りの色はなかった。
だが、嘘のない声で嘘を語ることは、できる。
本人が嘘だと思っていなければ。
──いいえ。
セレナの思考が、止まった。
本人が嘘だと思っていなかった? 本当にそうだろうか。
【超記憶】が、別の音を引き上げてきた。
庭園の隅で、勇者様が誰かと話していた声。セレナに向けられた声ではなかった。兵士への指示だった。
『あの娘の部屋の窓を塞げ。外の音が入らないようにしろ』
低い声。命令の声。庭園でセレナに語りかける時とは、まったく別の質を持った声だった。あの時は聞き流していた。意味が分からなかったから。窓を塞ぐのは、冬の寒さを防ぐためだと思っていた。
だが、今なら分かる。
外の音を遮断していた。意図的に。セレナの耳に、外の世界が届かないように。
知られてはならない音があったのだ。
勇者様は知っていた。自分が語っている言葉と、外の世界の音が、重ならないことを。だから遮断した。セレナの耳を、庭園の中に閉じ込めた。
それは――嘘を嘘と知っている者の、行動だった。
セレナの呼吸が浅くなった。胸の奥が締まる。肋骨の内側から、何かが押し上げてくるような圧迫感。
認めたくない。
あの方は家族だ。父を失った自分を拾い上げてくれた、唯一の人だ。庭園を与え、食事を与え、歌う場所を与えてくれた。あの方の言葉だけが、世界だった。
だが、その世界は、窓を塞いで作られたものだった。
セレナの両手が顔に上がった。絹の帯の上から、自分の目を押さえた。見えない目を、さらに覆い隠すように。
指先が震えていた。帯の布越しに、自分の瞼の熱が伝わってくる。目の奥が熱い。泣いているのではなかった。泣く前の、もっと手前の場所にいた。今まで信じてきたものが足元から崩れていく感覚。めまいに似た揺れが、体の芯を通り抜けていく。
勇者様を疑うことは、自分の人生を否定することだった。
あの庭園で過ごした日々。歌い続けた歌。勇者様の言葉を信じて、祈り続けた時間。そのすべてが嘘の上に建っていたのだとしたら、自分は何のために歌っていたのか。何のために祈っていたのか。
答えが出ない。
出したくない。
部屋の空気が重かった。壁と天井が近づいてくるような錯覚がある。呼吸が浅い。吸っても吸っても、胸の奥まで空気が届かない。
セレナは掛け布を握っていた手を離した。掌が汗で湿っていた。
息が詰まる。
ここにいたら、壊れる。
セレナは寝台から立ち上がった。足が床に触れた。冷たい床板が素足に伝わり、背筋に細い線を引いた。壁に手を沿わせ、扉に向かった。三歩で机の角、二歩で扉の取っ手。木の感触を掴み、引いた。
廊下の空気が、頬に触れた。部屋の中とは違う。流れている空気だった。どこかの窓が開いているのだろう。かすかに、城下の匂いが混じっている。煙突から立つ煙の名残。夜の土の湿り気。
セレナは廊下に出た。
右手を壁に沿わせた。指の腹が石の継ぎ目を一つ、また一つと拾っていく。足音を殺す必要はなかったが、自然と歩みが静かになった。
夜の城は昼とは別の場所だった。昼間は廊下のどこかしらから声や足音が聞こえていたが、今は自分の呼吸と、壁を這う指の微かな擦過音だけが耳に届いている。
角を曲がった。空気の流れが変わった。
左の頬に、冷たい風が当たる。窓が開いているのだろう。風の中に、夜の城下の気配が混じっていた。
窓辺に着いた。
枠に手をかけず、壁に肩を寄せて立った。風が髪を揺らし、首筋を撫でていく。城下からは、もう人の声は聞こえなかった。代わりに、虫の声が低く連なっている。遠くで犬が一つ吠え、すぐに止んだ。家々の煙突から立つ煙の匂いが、まだかすかに残っていた。夕食の名残ではない。もっと細い、炭が燃え尽きた後の匂い、人が眠りについた家の匂いだった。
この匂いを、庭園で嗅いだことはなかった。
庭園には花の香りしかなかった。人の暮らしの匂いは、どこにもなかった。
廊下の奥から、音が聞こえた。
靴底が石の床を踏む音。一定の間隔。速くもなく、遅くもない。
この足音を知っていた。
逃げようとは、思わなかった。前は逃げたかった。あの人の前で、揺れている自分を見られたくなかった。だが今は、足が動かないのではなく、動かそうとしなかった。
足音が近づき、止まった。
「セレナさん」
ゼノリス様の声だった。夜の廊下に、その声はよく通った。低く、押しつけがましさがない。昼間と同じ声だった。時刻が変わっても、この人の声の質は変わらない。
「こんな時間に、どうしましたか?」
驚いた声ではなかった。心配はしている。だが、踏み込んではこない。その距離の取り方が、いつものこの人だった。
「……眠れなくて」
セレナは答えた。取り繕う言葉を探す余裕がなかった。だから、そのまま口にした。
「そうですか」
ゼノリス様は、それ以上問わなかった。
衣擦れの音がした。ゼノリス様が、窓辺に歩み寄った。セレナの隣に立つ気配。近すぎず、遠すぎない。腕を伸ばせば届くが、触れてはいない距離。
沈黙が流れた。
窓の外から、虫の声が二人の間を通り過ぎていった。風が一度だけ強くなり、廊下の奥へ抜けていった。
ゼノリス様の呼吸が聞こえた。深く、ゆっくりと吸い、吐いている。執務室から出てきたのだろう。紙ではなく、蝋燭の蝋が燃えた後の匂いがわずかに混じっていた。夜遅くまで書き物をしていた人の匂いだった。
「ゼノリス様は」
セレナは、自分でも予期しない言葉を口にした。
「この領地を……なぜ、こうしようと思われたのですか?」
風が止んだ。虫の声だけが残った。
ゼノリス様は、すぐには答えなかった。間があった。言葉を選んでいるのか、思い出しているのか。
「……ここで暮らす人たちが、……正しい者たちが、正しく評価される場所を作りたかった」
静かな声だった。
「才能があるのに踏みつけられている人が、たくさんいました。その人たちが、自分の力で立てる場所を」
セレナの耳が、その言葉を一語ずつ拾った。
自分で立てる場所。
勇者様のもとに、それはなかった。庭園は美しかった。食事は与えられた。歌う場所もあった。だが、どれもセレナが選んだものではなかった。与えられたものだった。与えられ、それ以外を知らないように、窓を塞がれた。
「セレナさん」
ゼノリス様が呼んだ。
「あなたも、自分で選んでいいんです」
声の調子が変わっていなかった。穏やかで、静かで、芯のある声。同じ温度のまま、続けた。
「歌うことも、歌わないことも。ここにいることも、いないことも。すべて、あなたが決めていい」
セレナの唇が開いた。言葉が出なかった。
喉の奥が、熱くなっていた。胸の中心から、何かが持ち上がってくる。押し返そうとした。押し返せなかった。
涙が溢れた。
絹の帯を伝い、頬の曲面に沿って流れ落ちた。顎の先で一つ、布に落ちる音がした。小さな音だった。だが、セレナの耳には、その一滴の音がはっきりと聞こえていた。
止まらなかった。
次の涙が帯を濡らし、頬を伝い、顎から落ちた。声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ、涙だけが流れていた。体が震えているのか、自分では分からなかった。
ゼノリス様は何も言わなかった。
手を差し伸べることも、背中に触れることもしなかった。ただ、窓辺に立っていた。同じ距離で、同じ姿勢のまま。風が二人の間を通り過ぎ、セレナの濡れた頬を冷やしていった。
どれほどの間、そうしていたのか。
涙が止まった時、セレナの呼吸は深くなっていた。さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、涙と一緒に流れ出た。空っぽではなかった。だが、重さが変わっていた。
「……ゼノリス様」
声が出た。震えていた。だが、途切れなかった。
「私は……ずっと、嘘を信じていたのかもしれません」
風が止まっていた。虫の声も、遠くなっていた。廊下に、二人の息遣いだけが残った。
「それは、あなたが決めることです」
ゼノリス様が返した。声は静かだった。答えを押し付けない。正しさを渡さない。ただ、決める権利がセレナにあると、そう言っている。
セレナは、小さく頷いた。
答えは、まだ出なかった。勇者様の言葉を捨てることは、まだできなかった。だが、この人の前で泣いた。取り繕うことも、押し込めることもせず、涙を流した。
それだけが、今夜の確かなことだった。
「……戻ります」
セレナは壁に手を沿わせた。指先が石の継ぎ目を拾い、来た道を辿る。
「おやすみなさい、セレナさん」
背後から届いた声は、穏やかだった。足音は追ってこなかった。
◇◇◇
自室の扉を閉めた。
寝台に横になった。掛け布を胸元まで引き上げた。布の重みが体に載る。冷えた足先が、少しずつ掛け布の中で温まっていく。
頬に、涙が乾いた跡が残っていた。絹の帯も湿っている。拭おうとは思わなかった。
目を閉じた。
耳の中に、まだゼノリス様の声が残っている。
『すべて、あなたが決めていい』
勇者様は、そう言ってくれたことは一度もなかった。
考えるのを止めた。今夜は、もう十分だった。
胸の奥で、何かが溶け始めていた。凍っていたものが、ほんのわずかに。まだ形は残っている。まだ冷たい。だが、端のほうが、ほんの少しだけ丸くなった。
夜が、明けようとしていた。
――あの朝から、何かが変わった。まだ、何が変わったのかは分からない。だが、耳の奥で鳴り続けている音が、一つ増えた。それだけは確かだった。




