第142話:「積み重なる疑念」
――ある朝、聞いたことのない音が届いた。
城の東側。
これまで乾いた風しか運ばなかった方角から、硬いものが土を叩く音が聞こえてきた。規則正しく、一定の間隔で、繰り返されている。鍬だった。誰かが、あの荒れた土地を耕し始めている。
セレナは窓辺で足を止めた。
風に乗る音を、耳が拾っていく。鍬が土に入る音。土が裏返される音。それから、人の息遣い。一人ではない。二人、三人と、重なっている。作業の合間に短い声が飛ぶ。指示ではなく、互いの間合いを確かめるような掛け声だった。
あの土地は、何も育たないと聞いていた。呪われた地だと。だが今、鍬の音が聞こえている。誰かがそこに手を入れている。
翌日も、その音は続いていた。翌々日も。鍬の数が増えていた。土を打つリズムが厚くなり、やがて鍬だけでなく、水を流す音が混じり始めた。細い水が溝を伝う、さらさらとした振動。灌漑だろう。誰かが水の道を引いている。
日を追うごとに、東の音は変わっていった。
土の音に、草の音が加わった。風が何かの葉を揺らしている。それまで枯れた埃しか運ばなかった風に、青い匂いが混じり始めた。若い芽が土を割ったときの、あのかすかな草の匂い。
セレナは毎朝、窓辺に立った。音を聴くために。
荒れた地が生き返っていく。その過程が、音だけで分かった。
◇◇◇
東の音が変わった頃から、別の方角の音も変わり始めた。
南の城下から届くざわめきが、日に日に太くなっていた。
以前の城下は静かだった。足音と、風と、時折聞こえる話し声。それだけだった。だが今は、朝から晩まで途切れない音が城まで届いている。
荷が台に並ぶ音。木箱の蓋が開く乾いた音。布が広げられるときの衣擦れ。品物を見定める客と、値を告げる売り手の声。その合間に、銀貨が掌の上で鳴る小さな金属音。
市場だった。
城下に市場が立ち、人が集まっている。声の数は日ごとに増えていた。一つの声が消えても、別の声がすぐにその隙間を埋めた。活気という名の音が、絶え間なく城の壁を揺らしていた。
ある日の昼過ぎ、廊下を歩いていた時だった。
聞き慣れない抑揚の言葉が、城下の方角から風に乗って届いた。人族の言葉ではなかった。低く、母音の響きが太い。ドワーフ族の言葉だった。
数日後には、別の音が加わった。エルフ族の言葉だった。母音が長く、子音が柔らかい。旋律に近い抑揚が、人族の声とは明らかに異なっていた。
さらに日が経つと、獣人族の声が混じった。声の出し方そのものが違う。喉の深い位置から響く、人族にはない振動。
城下が、多種族の声で満ちていく。
セレナは廊下の窓辺に立ち、風が運ぶ声に耳を傾けていた。種族が違えば、声の周波数が違う。言葉の抑揚が違う。呼吸の深さが違う。だが、そのどれもが同じ場所に向かって流れていた。市場へ。街道へ。城下の通りへ。互いの声が混じり合い、一つのざわめきになっている。
排斥の音がなかった。
勇者様のもとで聴いた群衆の音には、いつも下敷きのような圧がかかっていた。声をひそめる音。笑い声の裏にある緊張。強制された平和の、薄い膜のような静けさ。だが、ここの音にはそれがない。声が自分の大きさのまま響いている。誰にも押し潰されていなかった。
三つの変化が、セレナの中に積み重なっていった。荒廃地に鍬が入った音。市場が生まれた音。多種族の声が混じり合った音。
◇◇◇
ある夕方だった。
セレナは城の窓辺に立っていた。廊下の突き当たり、執務室に近い場所だった。壁に背を預けず、窓枠の横に肩を寄せて立っている。
風が頬に触れていた。日が傾いた空気は、朝よりも重い。湿り気を帯びた風が、城下の音をまとめて運んでくる。人の声、車輪の軋み、鍛冶場から響く金属音、子供が走る足音。すべてが混じり合い、低いうねりになって城の壁に当たっていた。
勇者様の言葉が、耳の底に浮かんだ。
『魔王は領民を苦しめる魔族だ』
何度も聴いた言葉だった。勇者様がセレナに向けて語るとき、その声には決まって哀れみが込められていた。『お前を騙した魔族を、私が倒してやる』そういう響きだった。
だが、今、窓の外から届いている音は何だろう。
苦しみの音が、どこにもない。
毎日、同じ結論が出る。朝、窓辺に立つたびに。廊下を歩くたびに。音を聴くたびに。勇者様の言葉と、この領地の音が、重ならない。
たまたまではない。この地に来てから続いている。
セレナの指が、自分の袖を掴んでいた。布を捻るように握り込んでいる。手が震えていた。小さく、だが止まらない震えだった。
何を信じればいい。
勇者様の言葉か。自分の耳か。
あの方は家族だ。唯一の恩人だ。だが、耳は嘘をつけない。【心眼】が拾う音は、歪まない。この領地に満ちている音は、喜びと、安堵と、日常の音だった。苦しみでも、恐怖でも、支配でもなかった。
風が強くなった。窓から入り込んだ空気が、セレナの髪を後ろへ流した。城下の音が、一瞬だけ近くなった。笑い声が、はっきりと聞こえた。誰かが、心の底から笑っていた。
セレナは袖を掴んだまま、動けなかった。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
一人分。軽くはないが、重くもない。靴底が石を踏む間隔が、短すぎず長すぎず、均等に刻まれている。歩幅の安定した者の歩み方だった。
セレナはその足音を知っていた。
何度も聴いてきた。城門前で領民に向き合っていた時も、廊下を執務室へ向かう時も、この足音はいつも同じだった。急がない。だが、止まらない。
足音が近づいてくる。窓辺に立っているセレナの方へ。
逃げるべきだと思った。この姿を見られたくなかった。袖を掴んで震えている自分を、誰にも知られたくなかった。だが、足が動かなかった。足音が近すぎた。今から動けば、かえって不自然になる。
袖を掴んでいた手を、慌てて離した。布が皺になっている。伸ばす余裕はなかった。両手を体の横に下ろし、背筋を正した。表情を整えた。目が見えないことが、こういう時だけは助けになった。目の奥の動揺を、絹の帯が隠してくれる。
足音が、セレナの手前で止まった。
「セレナさん」
ゼノリス様の声だった。低く、静かで、押しつけがましさのない響き。執務室から出てきたところなのだろう。紙の匂いがかすかに混じっていた。
「どうかされましたか?」
声がまっすぐにこちらへ向けられていた。上からでも、横からでもない。セレナが立っている高さへ、丁寧に合わせられた声だった。
心臓が、一拍だけ跳ねた。この声だった。毎朝、窓辺で聴こえてくる城下の音の、その源にある声。領民に才能を告げ、荒廃地に人を送り、市場を立たせた。この領地のすべての音が、この声から始まっている。
「いえ……」
セレナは答えた。唇が乾いていた。声が裏返らないように、息を整えてから続けた。
「何でもありません。……少し、風に当たっていただけです」
「そうですか」
ゼノリス様は、それ以上問わなかった。
沈黙が落ちた。だが、重い沈黙ではなかった。ゼノリス様は立ち去らず、かといって近づきもしなかった。同じ廊下の空気の中に、ただ一緒に立っていた。
ゼノリス様の呼吸が聞こえた。深く、ゆっくりとした呼吸。セレナの呼吸より間隔が長い。落ち着いた者の、落ち着いた息遣いだった。その呼吸の音に、威圧がない。勇者様のそばに立った時にいつも感じていた、あの張り詰めた空気がない。
不思議だった。
この人のそばに立っていると、自分の呼吸が楽になる。肩の力が抜けていく。それに気づくたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。楽になってはいけない。この人は、勇者様が『魔族』と呼んだ人だ。
窓の外から、城下の音が二人の間を通り過ぎた。荷車が街道を行く振動。遠くの鍛冶場から届く金属の反響。子供の声が、一つだけ高く弾けて、すぐに笑い声に変わった。
ゼノリス様も、聴いているのだろうか。この音を。
セレナには分からなかった。ゼノリス様の耳に、この城下の音がどう届いているのか。自分のように、一つひとつの声を聴き分けているのか。それとも、一つのざわめきとして受け取っているのか。
だが、一つだけ分かっていることがあった。
この音を作ったのは、隣に立っているこの人だ。荒れた土地に鍬を入れさせ、市場を立たせ、種族の違う者たちが同じ通りを歩けるようにした。勇者様が『残虐な魔族』と呼んだこの人が、この音を作った。
胸が軋んだ。肋骨の内側を何かが押しているような圧迫感だった。
「セレナさん」
ゼノリス様が、もう一度呼んだ。声の調子は変わらなかった。穏やかで、けれど確かな芯がある声だった。
「もし、何か困ったことがあれば、いつでも話してください」
言葉が終わった後に、短い間があった。付け加えるでもなく、繰り返すでもなく、ただその言葉を置いて、静かに待っている間だった。
セレナの唇が震えた。一瞬だけ。噛みしめて、止めた。
「……ありがとうございます」
声は、震えなかった。が、ぎりぎりだった。
ゼノリス様は頷いたのだろう。衣擦れの気配が、わずかに動いた。それから足音が一歩離れ、廊下の先へ向かっていった。
足音が遠ざかっていく。等間隔の、あの歩み。来た時と同じ速さで、同じ幅で。セレナに声をかけた前と後で、何も変わっていない足取りだった。
勇者様は違った。勇者様がセレナに声をかけた後は、必ず足音が変わった。ほんの少し、歩幅が広くなった。満足した者の足音。与えた者の足音。セレナには、それが分かっていた。分かっていて、見ないふりをしていた。
だが、ゼノリス様の足音は変わらなかった。声をかける前も、かけた後も、同じだった。何かを与えたという足音ではなかった。
残されたものがあった。
あの声が、まだ耳に残っている。『何か困ったことがあれば、いつでも話してください』。
【超記憶】が、勇者様の声を並べた。
『私が守ってやろう』
『私がお前の家族だ』
どちらも温かかった。だが、温かさの形が違う。勇者様の声は、上から降ってくる温かさだった。ゼノリス様の声は、隣に置かれる温かさだった。
セレナは、その違いに気づいてしまった。
気づきたくなかった。気づけば、勇者様の言葉がもう一段、遠くなる。あの方の恩義が、別の形に見え始めてしまう。
だが、気づいた。
廊下に、セレナだけが立っていた。足音はもう聞こえない。窓の外から城下の音が届いている。笑い声と、荷車の軋みと、誰かが名前を呼ぶ声。
セレナは窓枠に手を伸ばした。石に触れた。冷たくはなかった。夕方の空気に温められた石が、指の腹にじんわりと伝わってくる。その温もりを確かめるように、指を石の上に留めた。
ゼノリス様の声が、まだ耳に残っていた。あの声の温度と、この石の温度が、同じだった。押しつけず、ただそこにある温もり。
震えていた手が、いつの間にか止まっていた。
それがなぜなのか、セレナにはまだ分からなかった。
――あれから、何日が経っただろう。
セレナは寝台の上で瞼を閉じた。今夜もまた、あの声が耳の底で鳴っている。消えない。消す気も、もうなかった。




