第141話:「音が語る真実」
――あの日のことを、覚えている。
音が、遠ざかっていた。
城門の方角から届いていた音が、ひとつ、またひとつと減っていく。領民たちの列が解けたのだろう。足音が散らばり、話し声が風に紛れ、やがて石壁の向こうに吸い込まれるように消えていった。
セレナは石柱から手を離した。
冷たさが指に残っていた。石の温度が、指先の体温と入れ替わるまでに少しかかった。手を下ろし、体の横に添えた。
回廊に残っている音は、風だけだった。石壁の隙間を抜ける低い唸りが、一定の間隔で続いている。城門前の賑わいが嘘のように、回廊は元の静けさに沈んでいた。
だが、耳の奥には残っていた。
あの声が。
低く、一人ひとりに同じ温度で向けられていた声。急かさない。怒鳴らない。才能を告げるたびに、その声は相手を見上げるような響きを持っていた。――上から与えるのではなく、下から掬い上げるような。
セレナは歩き始めた。
右手を壁に沿わせた。指の腹が石の継ぎ目を拾うたびに、段差の位置を覚えていく。この城に来てからの日は浅いが、回廊から居室までの壁の凹凸は、もう体が覚えていた。
足を進めるほど、城門からの距離が開く。あの声はもう聞こえない。それなのに、耳の中では消えなかった。【超記憶】が、勝手に保持している。音の質、抑揚、間の取り方。それらが正確に、セレナの中に刻まれていた。
消したいわけではなかった。ただ、消えてほしいと思うべきだと感じていた。
あの方は――魔王だ。
勇者様がそう言っていた。『魔王は残虐な魔族』だと。父を殺した仇だと。
その言葉も、正確に覚えている。勇者様の声の震え方まで、記憶にある。あの日、庭園の隅で跪いたセレナの前に立ち、勇者様が告げた言葉。低く、重く、悲しみを含んだ声。『お前の父を殺したのは、魔王だ。私が家族になろう』。
あの声には、嘘の音がなかった。
――いや。
セレナの足が、一瞬だけ止まった。
嘘の音がなかった。そう思っていた。ずっと。
だが今日、城門の方角から聴いた声にも、嘘の音がなかった。そして、あの声のまわりにいた領民たちの声にも。驚き。信じられないという震え。それから、何かが解けていくような……。
セレナは首を振った。小さく、一度だけ。
歩みを再開した。壁の凹凸が指を導いていく。回廊を抜け、角を曲がると、城の内側に入った。
◇◇◇
空気が変わった。
回廊の乾いた風が途切れ、石壁の奥に染みた湿り気が肌に触れた。天井が近くなった気配がある。音の反響が変わっていた。壁と壁の間隔が狭くなり、自分の足音がわずかに跳ね返ってくる。
城の内部だった。
厨房の方角から、音が届いた。鍋の底を木の杓子が擦る音。水が沸く低い振動。それから、包丁が板を叩く小刻みなリズム。夕食の支度が始まっている。
煮炊きの匂いが、廊下まで流れてきていた。穀物を炊いた甘い蒸気と、肉が焦げ付く前の香ばしさ。勇者様のもとでは、食事は完成した形で運ばれてきた。支度の音を聴いたことはなかった。匂いで時刻を知ることもなかった。
ここでは、夕食の時間が匂いで分かる。
角を曲がった先で、声が弾んでいた。
「――だからね、全員の配置が決まったんだって! ゼノ様がずっと立ちっぱなしで、一人ずつ見て、声をかけて……」
セラさんだった。誰かに報告しているらしい。声が速く、息が上がっている。靴底が石を小刻みに踏んでいる。じっとしていられない人だった。
返事の声は聞こえなかった。相手は低く頷いたのかもしれない。あるいは、黙って聴いていたのか。
セレナは足を止めかけた。
セラさんの声には、嘘がなかった。喜びが、声の質そのものを変えていた。あの声を、もう少し聴いていたい気持ちがあった。
だが、立ち止まらなかった。壁に沿って歩を進め、声から離れた。角を二つ曲がり、廊下の奥へ。
足音が自分のものだけになった時、セレナは自室の前に立っていた。
扉に手をかけた。木の表面がざらつく。押し開けると、部屋の中の空気が頬に触れた。閉じ込められていた冷たさと、窓の隙間から入り込んだ外の風が混じった、ぬるい空気だった。
扉を閉めた。
音が、止まった。
厨房の音も、兵士の足音も、セラさんの声も。すべてが扉一枚で遮られ、部屋の中には自分の呼吸だけが残った。
セレナは寝台の端に腰を下ろした。布の表面が、冷たかった。掌で触れると、織り目の細かさが指に伝わった。勇者様のもとの寝台は絹だった。ここの寝台は麻に近い。粗いが、清潔な布だった。
窓の外から、風がかすかに入ってきた。城下の方角から、遠い音が届いている。人の声ではない。荷車か何かが、石畳の上を転がっている音だった。
静かだった。
だが、セレナの耳の中は静かではなかった。
【超記憶】が、動き始めた。
意志とは関係なく、保持された音が蘇る。選ぶことも、止めることもできない。一度聴いた音は、すべて残っている。
最初に再生されたのは、勇者様の声だった。
あの声を疑ったことは、一度もなかった。
勇者様は、家族を失った自分を引き取ってくれた。庭園を与え、食事を与え、歌う場所を与えてくれた。あの方の言葉は世界のすべてだった。外の音は届かなかった。届かないようにされていたのだと、今なら分かる。
庭園は美しかった。花が咲き、鳥が歌い、風が木々を揺らしていた。だが、それだけだった。人の声は聞こえなかった。足音も、笑い声も、誰かが誰かを呼ぶ声も。セレナが聴いていたのは、自分の歌声と、勇者様の言葉だけだった。
――いや。分かっているのか? 本当に?
セレナは寝台の上で、自分の手を握った。右手が左手を包んだ。指先が震えかけて、それを押さえるように力を入れた。
【超記憶】が、次の音を蘇らせる。
今日の音だった。
城門の方角から届いた、ゼノリス様の声。
『あなたには、作物の声を聴く才能があります』
一人の女に向けられた言葉だった。声の温度は低く、静かで、それでいて確かな重みがあった。上から降ってくる声ではなかった。同じ高さから、相手の顔に向けて放たれた声だった。
女が答えた音も蘇る。長い沈黙。それから、深く頭を下げる衣擦れ。言葉はなかった。だが、沈黙の中に震えがあった。何年も押し込められていたものが解ける、あの震え。
別の声が続いた。
『かあさん! 俺、才能があるって!』
若い男の声だった。叫びに近い。喜びが声の形を壊していた。それに応える女の息を呑む音。嗚咽にも似た、短い呼吸。
どの音にも、嘘がなかった。
セレナは手を握ったまま、動かなかった。寝台の布が、掌の下でかすかに皺を寄せている。
二つの声が、並んでいる。
勇者様の声。ゼノリス様の声。
どちらにも、嘘の音はなかった。【超記憶】がそう告げている。勇者様があの言葉を語ったとき、声に嘘の震えはなかった。ゼノリス様が領民に才能を告げたとき、そこにも嘘はなかった。
だが、二つの声が語る内容は、まったく違う。
一方は言う。魔王は残虐な魔族だと。もう一方は、領民の前に立ち、一人ずつの才能を見出し、言葉をかけている。怒鳴らない。急かさない。領民が泣いても、叫んでも、同じ温度で次の言葉を返している。
残虐な魔族が、そんなことをするだろうか。
セレナの呼吸が浅くなった。胸の奥が詰まるような感覚がある。考えてはいけないことを考えている。勇者様の言葉を疑うことは、あの方の恩義を裏切ることだ。庭園を、食事を、歌う場所を与えてくれた恩義を。
だが、【超記憶】は止められない。
記憶は蘇る。ゼノリス様の声が、一人目、二人目、三人目と繰り返される。同じ温度。同じ丁寧さ。疲れが声に滲み始めても、言葉の質は変わらなかった。日が傾いても、列に並ぶ者がいなくなるまで、あの方は立ち続けていた。
勇者様は、そういうことをしなかった。
領民の前に立つことはなかった。声をかけることもなかった。勇者様が語る言葉は、いつも庭園の中で、セレナだけに向けられていた。外の世界の話は、勇者様の口からしか聞けなかった。
セレナは手の力を緩めた。
握りしめていた指を開くと、爪の跡が掌に残っていた。線みたいな凹みが、じわりと痛みに変わっていく。
勇者様を疑いたいわけではない。あの方は家族だ。唯一の。
だが。
音は嘘をつかない。
【超記憶】が保持している音は、歪まない。時間が経っても、感情に左右されても、音そのものは変わらない。勇者様の声も、ゼノリス様の声も、そのまま残っている。
二つの音を並べたとき、矛盾がある。それだけは、どうしても否定できなかった。
◇◇◇
窓の外から、風が入ってきた。
日が沈んだのだろう。風の温度が下がっていた。頬に触れる空気が、昼間の乾いた温もりを失い、夜の湿り気を帯び始めている。
城下の音が変わっていた。昼間のざわめきが引き、代わりに虫の声がかすかに混じっている。遠くで扉が閉まる音がした。人が家に帰っていく音だった。
セレナは寝台の上で姿勢を正した。背筋を伸ばし、手を膝の上に置いた。
答えは、出なかった。
勇者様を信じるべきだ。あの方は家族だ。それだけは変わらない。
だが、あの声を忘れることもできなかった。ゼノリス様の声。同じ温度で、一人ずつに向けられた言葉。領民が泣く音。叫ぶ音。あの声のまわりにあった空気の震え。
怖い、と思った。
あの声に惹かれている自分が怖かった。あの声をもう一度聴きたいと思っている自分が怖かった。それは勇者様を裏切ることだ。父を殺した仇を、温かいと感じることだ。
だが、指先がまだ覚えていた。回廊の石柱の冷たさ。あの冷たさの向こう側に、温かい声が流れていた。
もう一度、聴きたい。
その思いを、セレナは押し込めようとした。押し込めたはずだった。だが、押し込めるたびに、あの声が耳の底から浮き上がってくる。一人ずつに向けられた、あの温度が。
セレナは瞼を閉じた。見えない目を、それでも意識して閉じた。暗闇が、少しだけ深くなった気がした。




