第140話:「真の楽園」
紙の束が、机の上に置かれた。
執務室に、朝の静けさが満ちている。窓は開け放たれ、城下から湿った風が流れ込んでいた。石壁に染みた夜気がまだ残っていて、室内の空気はひんやりとしている。
カイロが、紙の束の端を指で揃えた。
「最終報告です」
短い声だった。机の上に並べられた紙は五枚。各部署の集計が、数字と短い文で記されている。カイロの字ではなかった。それぞれの担当者が記し、カイロが束ねたものだった。
ゼノリスは椅子に座ったまま、一枚目に目を落とした。農地の収穫量。物流の処理速度。市場の取引規模。治安の推移。多種族間の摩擦件数。どの項目にも、上向きの数字が並んでいる。
「ノアの集計と照合しました。すべての指標が、目標を上回っています」
カイロの声には抑揚がなかった。事実だけを置くように、言葉を区切っている。
ゼノリスは紙を一枚ずつめくった。指先に、紙の繊維の粗さが触れる。安価な紙だった。以前はこの紙すら手に入らなかった。報告書の内容よりも、報告書そのものが存在していることが、この領地の変化を示している。
最後の一枚を読み終え、紙を揃えて机に戻した。
「カイロ」
「はい」
「みなさんを呼んでいただけますか」
カイロが一瞬だけ動きを止めた。それから、小さく頷いた。
「……承知しました」
足音が廊下に消えていく。
◇◇◇
最初に扉を開けたのは、セラだった。
一歩踏み込んで、室内をぐるりと見渡した。それから、ゼノリスの表情を見た。
「ゼノ様、どうかしましたか?」
「いえ。座ってください」
セラが椅子を引いた。腰を下ろす前に、もう一度ゼノリスの顔を確かめている。何かあったのかと訝しんでいるのが、その落ち着かない視線に表れていた。
シルヴァが続いた。扉を閉め、机の上の紙束に一度だけ目を向けた。報告書であることを認識して、それ以上は見なかった。静かに腰を下ろした。
ガルムが入ってきた。低い戸口を避けるように身をかがめ、壁際に立った。椅子には座らなかった。腕を組み、背を石壁に預けている。
最後にノアが来た。帳面を胸に抱えている。目の下の影は、少しだけ薄くなっていた。帳面を膝の上に載せ、そのまま動かなくなった。
カイロは扉の横に立っていた。腕を下ろしたまま、動かない。
五人が揃った。
ゼノリスは、机の上の報告書に掌を添えた。
「今朝、カイロから最終報告を受けました」
全員の視線が集まった。ゼノリスは報告書を持ち上げず、ただ掌を紙の上に置いたまま続けた。
「すべての指標が、目標を上回っています」
間を置いた。
「この数字は、私が出したものではありません。みなさんが、それぞれの持ち場で積み上げたものです」
セラの背筋が伸びた。シルヴァの指先が、膝の上で止まった。ガルムは壁に背を預けたまま、わずかに顎を引いた。ノアは帳面に手を添えたまま、目を伏せている。カイロは微動だにしない。
「ありがとうございます」
ゼノリスは頭を下げた。
静寂が落ちた。
最初に動いたのは、セラだった。椅子から腰を浮かせかけて、それからまた座り直した。何か言いたそうに口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。
「……ゼノ様」
「はい」
「私、もっと頑張れます」
声が少し震えていた。拳が膝の上で握られている。言葉を選ぶのが下手な分だけ、声に力がこもっていた。
ガルムが壁から背を離した。腕を組んだまま、低く息を吐いた。
「……まだ、やれることはありますからな」
声に力みはなかった。ただ、そこにある事実を確かめるような口調だった。
ノアが顔を上げた。
「数字が証明しています。この領地の成長率は、周辺国の平均を大きく超えています。世界最高水準に達したと言って差し支えありません」
淡々とした声だった。だが、帳面を握る指が白くなっていた。
シルヴァは何も言わなかった。窓の方に視線を向けている。風が髪を揺らしていた。外套の袖口に、いつもの墨の汚れがある。その横顔は静かだったが、唇の端がわずかに持ち上がっていた。
カイロは扉の横に立ったまま、誰とも目を合わせなかった。ただ、背中の力が、ほんの少しだけ抜けていた。
ゼノリスは一人ひとりの顔を見た。言葉にならないものが、この部屋の空気に満ちている。
「では、引き続きよろしくお願いします」
全員が立ち上がった。セラが一礼し、扉に向かった。ガルムがその後に続く。ノアが帳面を脇に挟み、椅子を戻して出て行った。シルヴァが最後に立ち上がり、窓に一度だけ目を向けてから、静かに退出した。
カイロが最後に残った。扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。
「……他に、何か」
「いいえ。ありがとう、カイロ」
カイロは何も言わなかった。一拍の間があった。それから扉を引き、廊下へ出た。
扉が閉まった。
執務室に、ゼノリスだけが残った。
◇◇◇
椅子を立った。
窓辺へ歩き、枠に手をかけた。朝に開けた窓は、そのまま開いていた。だが、流れ込む風の質が変わっている。湿り気が消え、乾いた温もりを帯びていた。日が傾き始めている。
城下が見えた。
屋根が並んでいる。灰色と茶色の瓦がまだらに連なり、その上を西日が斜めに撫でていた。屋根の隙間から煙が立ち上っている。夕食の支度だろう。薄い煙が風に流されて、城壁の方向へ漂っていった。
風が変わった。城下から吹き上げてくる風に、土の匂いが混じっている。畑の土だった。湿った黒い土を日が温めた、あの匂い。
ゼノリスは窓枠から手を離した。
報告書の数字が頭に残っている。だが、目の前に広がっているものは、数字ではなかった。煙と、人影と、緑と、土の匂いだった。あの紙の上に並んだ数字の一つひとつに、ここで暮らす誰かの手が繋がっている。
窓の外から、子供の声が届いた。何を言っているのかは聞き取れない。高い声が二つ、もつれるように響いて、それから笑い声に変わった。
風が、執務室の中を通り抜けた。机の上の報告書の端が、わずかに持ち上がった。
その時、背後の空気が動いた。
足音だった。石の床を踏む、静かで正確な足取り。靴底が石を叩くたびに、等間隔の音が廊下から近づいてくる。
ゼノリスは振り返らなかった。足音だけで分かった。
扉は開いたままだった。足音が執務室の入口で止まった。
「失礼します」
穏やかな声だった。抑揚が均一で、空気の温度を変えないように置かれた言葉だった。
「セレナさん。どうぞ」
ゼノリスは窓辺に立ったまま、声の方に顔を向けた。
セレナが入口に立っていた。絹の帯が額と瞳を覆っている。小柄な体が、扉の枠の中で静かに佇んでいた。左手が壁に触れている。指先が石の表面をなぞっていた。
一歩、また一歩と、セレナが室内に入った。床の段差を正確に踏み、窓辺へ歩み寄った。ゼノリスの二歩手前で、足が止まった。
「音が聞こえたので」
セレナが言った。
「音、ですか?」
「はい。……城の外から。いつもより、賑やかで」
セレナの顔が、窓の方を向いた。目は見えない。だが、耳が外を向いている。風が帯の端を揺らした。
ゼノリスは、セレナの横に並んだ。二人の間に、腕一本分の距離がある。
城下から届く音を、ゼノリスも聴いた。子供の声。荷を下ろす音。呼びかけ合う声。遠くで犬が吠えている。それらが混じり合い、途切れることのないざわめきになって、風に乗って城まで届いている。
セレナの耳が、かすかに動いた。目で追えないものを、音で追っている。ゼノリスには一つの塊にしか聞こえないざわめきの中に、セレナは何を聴いているのだろう。
「セレナさん」
「はい」
「あなたにも、見ていただきたかった」
言ってから、言葉を選び直した。
「……聴いていただきたかった、ですね。これが、私が目指した領地です」
セレナは答えなかった。
窓の外の煙が流れた。城下の屋根に西日が落ち、瓦の隙間に影が入り込んでいる。
しばらくして、セレナの唇がわずかに動いた。
「ゼノリス様」
「はい」
「この領地の音は、どれも……同じ方を向いています」
静かな声だった。一つの音を確かめるように、言葉が丁寧に並べられていた。
「売る人も、買う人も、歩いている人も。子供の声も、荷車の音も。全部が、同じ場所に帰ろうとしている音です」
ゼノリスは黙って聴いた。
「勇者様のもとでは、聞こえなかった音です」
セレナの声が、ほんのわずかに揺れた。すぐに元に戻った。だが、その一瞬の震えが、ゼノリスの耳に残った。
セレナの指が、胸の前で組まれていた。きつく握られているのか、指の関節が白くなっている。だが、その手はすぐに解かれ、体の横に下ろされた。意識して力を抜いたように見えた。
ゼノリスは何も重ねなかった。言葉を足せば、今この人が自分の耳で聴き取ったものが、薄まる。それが分かっていた。
窓の外で、日が落ちかけていた。城下の屋根が暗くなり始めている。だが、煙はまだ上がっていた。家々の窓に、灯りが一つ、また一つと灯り始めている。
セレナが窓辺に手を伸ばした。細い指が窓枠の石に触れた。冷たさを確かめるように、指の腹でゆっくりとなぞった。
「……ありがとうございます、ゼノリス様」
小さな声だった。何に対する礼なのかは、言わなかった。
ゼノリスは窓枠に手を置いた。セレナの指と、石の幅一つ分の距離がある。
城下に、灯りが増えていく。遠くの農地はもう暗い。だが街道には、まだ人影が動いていた。一日を終えた人たちが、家へ帰ろうとしている。
風が、二人の間を通り過ぎた。セレナの髪が揺れた。城下から届くざわめきが、少しだけ静かになった。夜が近づいている。
ゼノリスは、隣に立つ人の横顔を見た。目隠しの下の頬に、窓から入る最後の光が触れている。その表情は読めない。だが、指先が窓枠の上で止まっていた。離そうとしない。ここに留まろうとする、小さな意志が指に表れていた。
まだ、この人の中には迷いがある。それは分かっている。だが今、この窓辺で、同じ音を聴いている。それだけで、十分だった。
城下から、最後の荷車が門をくぐる音が届いた。車輪が石畳を踏む重い音が、夕闇の空気に溶けていく。門番の声が短く上がり、返事があり、それきり静かになった。
城下の灯りが、夕闇の中に浮かび上がっていた。




