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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

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第140話:「真の楽園」

 紙の束が、机の上に置かれた。


 執務室に、朝の静けさが満ちている。窓は開け放たれ、城下から湿った風が流れ込んでいた。石壁に染みた夜気がまだ残っていて、室内の空気はひんやりとしている。


 カイロが、紙の束の端を指で揃えた。


「最終報告です」


 短い声だった。机の上に並べられた紙は五枚。各部署の集計が、数字と短い文で記されている。カイロの字ではなかった。それぞれの担当者が記し、カイロが束ねたものだった。


 ゼノリスは椅子に座ったまま、一枚目に目を落とした。農地の収穫量。物流の処理速度。市場の取引規模。治安の推移。多種族間の摩擦件数。どの項目にも、上向きの数字が並んでいる。


「ノアの集計と照合しました。すべての指標が、目標を上回っています」


 カイロの声には抑揚がなかった。事実だけを置くように、言葉を区切っている。


 ゼノリスは紙を一枚ずつめくった。指先に、紙の繊維の粗さが触れる。安価な紙だった。以前はこの紙すら手に入らなかった。報告書の内容よりも、報告書そのものが存在していることが、この領地の変化を示している。


 最後の一枚を読み終え、紙を揃えて机に戻した。


「カイロ」


「はい」


「みなさんを呼んでいただけますか」


 カイロが一瞬だけ動きを止めた。それから、小さく頷いた。


「……承知しました」


 足音が廊下に消えていく。


◇◇◇


 最初に扉を開けたのは、セラだった。


 一歩踏み込んで、室内をぐるりと見渡した。それから、ゼノリスの表情を見た。


「ゼノ様、どうかしましたか?」


「いえ。座ってください」


 セラが椅子を引いた。腰を下ろす前に、もう一度ゼノリスの顔を確かめている。何かあったのかと訝しんでいるのが、その落ち着かない視線に表れていた。


 シルヴァが続いた。扉を閉め、机の上の紙束に一度だけ目を向けた。報告書であることを認識して、それ以上は見なかった。静かに腰を下ろした。


 ガルムが入ってきた。低い戸口を避けるように身をかがめ、壁際に立った。椅子には座らなかった。腕を組み、背を石壁に預けている。


 最後にノアが来た。帳面を胸に抱えている。目の下の影は、少しだけ薄くなっていた。帳面を膝の上に載せ、そのまま動かなくなった。


 カイロは扉の横に立っていた。腕を下ろしたまま、動かない。


 五人が揃った。


 ゼノリスは、机の上の報告書に掌を添えた。


「今朝、カイロから最終報告を受けました」


 全員の視線が集まった。ゼノリスは報告書を持ち上げず、ただ掌を紙の上に置いたまま続けた。


「すべての指標が、目標を上回っています」


 間を置いた。


「この数字は、私が出したものではありません。みなさんが、それぞれの持ち場で積み上げたものです」


 セラの背筋が伸びた。シルヴァの指先が、膝の上で止まった。ガルムは壁に背を預けたまま、わずかに顎を引いた。ノアは帳面に手を添えたまま、目を伏せている。カイロは微動だにしない。


「ありがとうございます」


 ゼノリスは頭を下げた。


 静寂が落ちた。


 最初に動いたのは、セラだった。椅子から腰を浮かせかけて、それからまた座り直した。何か言いたそうに口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。


「……ゼノ様」


「はい」


「私、もっと頑張れます」


 声が少し震えていた。拳が膝の上で握られている。言葉を選ぶのが下手な分だけ、声に力がこもっていた。


 ガルムが壁から背を離した。腕を組んだまま、低く息を吐いた。


「……まだ、やれることはありますからな」


 声に力みはなかった。ただ、そこにある事実を確かめるような口調だった。


 ノアが顔を上げた。


「数字が証明しています。この領地の成長率は、周辺国の平均を大きく超えています。世界最高水準に達したと言って差し支えありません」


 淡々とした声だった。だが、帳面を握る指が白くなっていた。


 シルヴァは何も言わなかった。窓の方に視線を向けている。風が髪を揺らしていた。外套の袖口に、いつもの墨の汚れがある。その横顔は静かだったが、唇の端がわずかに持ち上がっていた。


 カイロは扉の横に立ったまま、誰とも目を合わせなかった。ただ、背中の力が、ほんの少しだけ抜けていた。


 ゼノリスは一人ひとりの顔を見た。言葉にならないものが、この部屋の空気に満ちている。


「では、引き続きよろしくお願いします」


 全員が立ち上がった。セラが一礼し、扉に向かった。ガルムがその後に続く。ノアが帳面を脇に挟み、椅子を戻して出て行った。シルヴァが最後に立ち上がり、窓に一度だけ目を向けてから、静かに退出した。


 カイロが最後に残った。扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。


「……他に、何か」


「いいえ。ありがとう、カイロ」


 カイロは何も言わなかった。一拍の間があった。それから扉を引き、廊下へ出た。


 扉が閉まった。


 執務室に、ゼノリスだけが残った。


◇◇◇


 椅子を立った。


 窓辺へ歩き、枠に手をかけた。朝に開けた窓は、そのまま開いていた。だが、流れ込む風の質が変わっている。湿り気が消え、乾いた温もりを帯びていた。日が傾き始めている。


 城下が見えた。


 屋根が並んでいる。灰色と茶色の瓦がまだらに連なり、その上を西日が斜めに撫でていた。屋根の隙間から煙が立ち上っている。夕食の支度だろう。薄い煙が風に流されて、城壁の方向へ漂っていった。


 風が変わった。城下から吹き上げてくる風に、土の匂いが混じっている。畑の土だった。湿った黒い土を日が温めた、あの匂い。


 ゼノリスは窓枠から手を離した。


 報告書の数字が頭に残っている。だが、目の前に広がっているものは、数字ではなかった。煙と、人影と、緑と、土の匂いだった。あの紙の上に並んだ数字の一つひとつに、ここで暮らす誰かの手が繋がっている。


 窓の外から、子供の声が届いた。何を言っているのかは聞き取れない。高い声が二つ、もつれるように響いて、それから笑い声に変わった。


 風が、執務室の中を通り抜けた。机の上の報告書の端が、わずかに持ち上がった。


 その時、背後の空気が動いた。


 足音だった。石の床を踏む、静かで正確な足取り。靴底が石を叩くたびに、等間隔の音が廊下から近づいてくる。


 ゼノリスは振り返らなかった。足音だけで分かった。


 扉は開いたままだった。足音が執務室の入口で止まった。


「失礼します」


 穏やかな声だった。抑揚が均一で、空気の温度を変えないように置かれた言葉だった。


「セレナさん。どうぞ」


 ゼノリスは窓辺に立ったまま、声の方に顔を向けた。


 セレナが入口に立っていた。絹の帯が額と瞳を覆っている。小柄な体が、扉の枠の中で静かに佇んでいた。左手が壁に触れている。指先が石の表面をなぞっていた。


 一歩、また一歩と、セレナが室内に入った。床の段差を正確に踏み、窓辺へ歩み寄った。ゼノリスの二歩手前で、足が止まった。


「音が聞こえたので」


 セレナが言った。


「音、ですか?」


「はい。……城の外から。いつもより、賑やかで」


 セレナの顔が、窓の方を向いた。目は見えない。だが、耳が外を向いている。風が帯の端を揺らした。


 ゼノリスは、セレナの横に並んだ。二人の間に、腕一本分の距離がある。


 城下から届く音を、ゼノリスも聴いた。子供の声。荷を下ろす音。呼びかけ合う声。遠くで犬が吠えている。それらが混じり合い、途切れることのないざわめきになって、風に乗って城まで届いている。


 セレナの耳が、かすかに動いた。目で追えないものを、音で追っている。ゼノリスには一つの塊にしか聞こえないざわめきの中に、セレナは何を聴いているのだろう。


「セレナさん」


「はい」


「あなたにも、見ていただきたかった」


 言ってから、言葉を選び直した。


「……聴いていただきたかった、ですね。これが、私が目指した領地です」


 セレナは答えなかった。


 窓の外の煙が流れた。城下の屋根に西日が落ち、瓦の隙間に影が入り込んでいる。


 しばらくして、セレナの唇がわずかに動いた。


「ゼノリス様」


「はい」


「この領地の音は、どれも……同じ方を向いています」


 静かな声だった。一つの音を確かめるように、言葉が丁寧に並べられていた。


「売る人も、買う人も、歩いている人も。子供の声も、荷車の音も。全部が、同じ場所に帰ろうとしている音です」


 ゼノリスは黙って聴いた。


「勇者様のもとでは、聞こえなかった音です」


 セレナの声が、ほんのわずかに揺れた。すぐに元に戻った。だが、その一瞬の震えが、ゼノリスの耳に残った。


 セレナの指が、胸の前で組まれていた。きつく握られているのか、指の関節が白くなっている。だが、その手はすぐに解かれ、体の横に下ろされた。意識して力を抜いたように見えた。


 ゼノリスは何も重ねなかった。言葉を足せば、今この人が自分の耳で聴き取ったものが、薄まる。それが分かっていた。


 窓の外で、日が落ちかけていた。城下の屋根が暗くなり始めている。だが、煙はまだ上がっていた。家々の窓に、灯りが一つ、また一つと灯り始めている。


 セレナが窓辺に手を伸ばした。細い指が窓枠の石に触れた。冷たさを確かめるように、指の腹でゆっくりとなぞった。


「……ありがとうございます、ゼノリス様」


 小さな声だった。何に対する礼なのかは、言わなかった。


 ゼノリスは窓枠に手を置いた。セレナの指と、石の幅一つ分の距離がある。


 城下に、灯りが増えていく。遠くの農地はもう暗い。だが街道には、まだ人影が動いていた。一日を終えた人たちが、家へ帰ろうとしている。


 風が、二人の間を通り過ぎた。セレナの髪が揺れた。城下から届くざわめきが、少しだけ静かになった。夜が近づいている。


 ゼノリスは、隣に立つ人の横顔を見た。目隠しの下の頬に、窓から入る最後の光が触れている。その表情は読めない。だが、指先が窓枠の上で止まっていた。離そうとしない。ここに留まろうとする、小さな意志が指に表れていた。


 まだ、この人の中には迷いがある。それは分かっている。だが今、この窓辺で、同じ音を聴いている。それだけで、十分だった。


 城下から、最後の荷車が門をくぐる音が届いた。車輪が石畳を踏む重い音が、夕闇の空気に溶けていく。門番の声が短く上がり、返事があり、それきり静かになった。


 城下の灯りが、夕闇の中に浮かび上がっていた。



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