第139話:「豊かさの証」
市場に色が、溢れていた。
市場の通りに朝日が差し込み、並べられた品々の上を金色に染めている。青い葉物、黄色く熟した柑橘、赤みの強い薫製肉。台の端には魔石を磨いた装飾品が積まれ、朝の光を受けて鈍く輝いていた。
ゼノリスは通りの入り口に立った。
棚が、埋まっている。
ついこの間まで、この台の端には売れ残りが寄せられていた。荷の遅れが常態化し、生鮮品が傷んでいた。それが今は、台の奥まで品が詰まっている。積み上げた籠から溢れた柑橘が一つ、台の縁から転がり落ちそうになっていた。
「そこの旦那、柑橘はどうだい。今朝、再生地から届いたばかりだよ」
獣人族の女が声をかけてきた。尻尾が左右に揺れている。
「いい色ですね。甘いですか?」
「甘いどころじゃないよ。再生地の土が良くなってるんだ。作るたびに味が濃くなってるよ」
女が柑橘を一つ取り、ゼノリスの手に押し付けた。皮の表面に細かい粒が浮いている。指で軽く押すと、果汁の甘い香りが立ち上った。
「ありがとうございます。いただきます」
銀貨を渡し、柑橘を受け取った。女が耳をピンと立てて笑った。
通りを進む。
道の両側に、店が隙間なく並んでいた。ドワーフ族の男が鉄鍋を重ねて売っている。鍋の底が均一に磨かれていて、どれも同じ仕上がりだった。隣の台では、エルフ族の女が薬草の束を秤にかけていた。買い手の人族の老婆が、その手元をじっと見つめている。
「その薬草、煎じるとどれくらいで効くんだい?」
「一晩です。翌朝には楽になりますよ」
「そうかい。じゃあもう三束もらおうか。孫が咳をしているんだよ」
「それなら、少し値引きします。毎日煎じてあげてください」
老婆の皺だらけの手が、薬草の束を受け取った。エルフの女が布で包み、丁寧に手渡した。種族の違いに、どちらも頓着していない。ただ、売り手と買い手がいるだけだった。
市場の中ほどに、大きな天幕が張られていた。天幕の下に長い台が三列並び、その上に品物がびっしりと積まれている。再生地で採れた穀物の袋、魔石を利用した灯火器具、獣人族の革職人が仕立てた鞄。一つの台の上に、異なる種族の品が隣り合って載っている。
天幕の柱に、木の板が吊り下げられていた。板には品物の産地と値段が墨で書かれている。ノアが提案した表示の仕組みだった。買い手が値段を尋ねる手間が省け、売り手も声を張る回数が減る。小さな工夫だが、取引の流れが滑らかになっていた。
天幕の裏手で、新型の荷車が荷を下ろしていた。荷台が広く、車輪の軸が太い。ヴァイスが設計し、グロームが量産した規格統一型。荷車の周りで、人族と獣人族の男たちが肩を並べて荷を運んでいる。一人が籠を持ち上げ、もう一人が台の上に受ける。声を掛け合い、手を合わせ、次の籠へ移る。
ゼノリスはその一連を見ながら、通りの端へ出た。
市場の外れに、小さな広場があった。石段の上に腰を下ろした老人が、木の器で何かを飲んでいる。その横に、人族の少女が座っていた。少女の膝の上に、紙の包みが載っている。中から燻製肉の切れ端を取り出し、老人に差し出した。
「おじいちゃん、これ美味しいよ」
「ああ、ありがとうよ」
老人が受け取り、ゆっくりと口に運んだ。少女は満足そうに自分の分も頬張った。
ゼノリスは足を止めなかった。通り過ぎながら、手の中の柑橘を見た。皮の黄色が、朝日の中で鮮やかだった。
市場の角に、焼きたてのパンを売る店があった。蜜を練り込んだ丸いパンが、湯気を立てている。甘い匂いが漂ってきた。ゼノリスは足を止め、パンを頼んだ。
「五ついただけますか?」
「ありがとうございます!」
人族の男が、布に包んだパンを手渡した。温かさが掌に伝わってくる。
◇◇◇
城に戻ると、廊下の角にカイロが立っていた。
ゼノリスはパンの包みを差し出した。
「今日ですよね? これをみんなで食べてください」
カイロが包みを見た。それから、ゼノリスの顔を見た。
「……承知しました」
カイロが包みを受け取った。布越しに、パンの温かさが手に移ったはずだった。カイロはそれ以上何も言わず、踵を返した。
◇◇◇
城内の一室に、カイロは先に着いていた。
小さな机の上に、包みを広げる。そこには蜜を練り込んだ丸いパンが五つ。甘い匂いが部屋に広がった。まだ温かい。ゼノリス様が市場で買ってきたものだ。
窓から午後の光が差し込んでいる。椅子は五脚。机の周りに並べ終えた時、廊下から足音が聞こえた。
最初に来たのはセラだった。
扉を開けるなり、鼻を動かした。
「甘い匂い! パンだ!」
椅子を引くより先に、その細い手が伸びた。カイロは無言でセラの細い手首を掴み、机へ押し戻す。
「全員揃ってからだ」
「……はい」
セラはしぶしぶ腰を落としたが、その目は皿の上のパンに釘付けだ。獲物を狙う小動物のような執着心に、カイロは小さく息を吐いた。
次にシルヴァが来た。扉を静かに開け、室内を見渡した。パンを見て、セラを見て、それからカイロを見た。
「……セラが食べる前に来られてよかった」
「食べないよ! ……カイロに止められたけど」
「……そうですか」
シルヴァが窓際の椅子を引いて座った。
廊下の奥から、重い足音が近づいてきた。ガルムだった。扉を開けると、低い戸口に頭をぶつけそうになった。身をかがめて入り、空いている椅子に腰を下ろした。パンに一度だけ目を向けて、それから腕を組んだ。待っている顔だった。
四人が揃った。残りは一人。
しばらく、誰も何も言わなかった。セラがパンを見つめている。カイロは壁の時計を見た。
ふらつくような、危うい足音が聞こえてきた。
ノアが扉を開けた。帳面を脇に挟んでいる。目の下に影がある。空いた席を見つけると、座るというよりは、糸の切れた人形のように沈み込んだ。
「全員揃ったな」
カイロが短く告げた。
「ゼノリス様からだ。冷める前にどうぞ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、セラの手が飛んだ。パンを掴み、一口かじる。頬が膨らんだ。目が大きくなった。
「美味しい……! 何これ、蜜が中まで入ってる!」
「ゼノ様が買ってきたの?」
セラがカイロを見た。
「……そうだ」
ノアがパンを一つ手に取った。口に運ぶ。咀嚼が遅い。目が半分閉じかけている。だが、二口目の後、目の焦点が戻った。
「……甘い」
「それはパンに蜜が入っているからです。感想としては当然の帰結ですね」
シルヴァが自分のパンをちぎりながら言った。
「そういう意味じゃなくて。……美味しいです」
「そう言えばいい」
シルヴァが小さく口元を動かした。……笑ったのかもしれなかった。
ガルムがパンを一口で半分食べた。顎の動きが止まった。強面の眉間の皺が、わずかに緩んだ。
「……うまいな」
低い声だった。残りの半分を口に入れ、ゆっくりと噛んだ。目を細めて味わうその顔を見て、ノアが小さく身を震わせた。
「……やっぱりこわい」
「何がこわいんだ?」
「顔……笑顔です……」
「笑っておるだけだろう」
「それがこわいんです……」
セラが堪えきれずに吹き出した。パンの欠片が宙を舞う。シルヴァが無言で自分の外套の裾を払った。
「セラ、汚いです」
「ごめん……! でもノアが……!」
「ノアは事実を述べただけです」
矛先を向けられたガルムが、困惑したようにシルヴァを見た。
「……嬢ちゃん、わしの味方ではなかったのか」
「事実と味方は別の話です」
ガルムは何も言わなかった。
ふと見ると、ノアがまた帳面を開こうとしていた。カイロは黙って手を伸ばし、表紙を上から押さえた。
ノアがカイロを見上げた。
「……休憩中なのは、分かっています」
「分かっているなら閉じろ」
ノアが力なく帳面を閉じた。
「ねえ、前はおやつって干し果実しかなかったよね」
セラが指についた蜜を舐めながら言った。
「干し果実も貴重だったがな。わしの若い頃は、甘味など年に一度あるかないかだったぞ」
ガルムが昔を懐かしむように腕を組んだ。
「嗜好品が市場に並ぶということは、生活必需品が満たされた上で余剰が出ているということです。経済が回っている証拠ですね」
ノアが言った。帳面がないので、指で机を叩く癖が出ていた。
「ノア」
シルヴァが静かに釘を刺した。
「……分析じゃなくて感想です」
「どう聞いても分析です」
セラの笑い声が部屋に響く。ノアは黙ってパンの最後の一切れを口に入れた。
「……でも、変わったよね。この領地」
セラがぽつりと言った。声が、さっきまでの弾けた調子とは違っていた。
「前は、干し果実を食べるだけだったのに。焼き菓子が食べれるようなって……今は、市場に行けば焼きたてのパンが買えて、蜜まで入ってる。しかも、温かい」
誰も、すぐには答えなかった。
ガルムが窓の外に目を向けた。城下の屋根が並んでいる。
「……守るものが増えたな」
低い声だった。それ以上は言わなかった。
シルヴァが窓辺に視線を向けたまま、静かに頷いた。
カイロは壁に背を預けたまま、部屋を見渡した。セラがパンの蜜を指から舐め取っている。ノアが目を閉じている。眠りかけていた。ガルムが窓の外を見ている。シルヴァが足元の花に気づかないふりをしている。
悪くない、と思った。
◇◇◇
ゼノリスは廊下を歩いていた。
一室の前を通りかかった時、扉の向こうから声が聞こえた。セラの笑い声だった。それに続いて、ガルムの低い声が何か言っている。ノアの声が短く返した。
ゼノリスは歩調を変えなかった。
扉の前を通り過ぎた。声は遠ざかった。廊下の角を曲がり、執務室へ向かった。
廊下の窓から城下を見た。
城下に、夕暮れの光が落ちていた。屋根の上を、橙色の帯が横に流れている。市場の天幕が畳まれ、通りに人影がまばらに動いている。街道の先に、荷車が一台、城下を離れていくところだった。荷台の上に積まれた品が、夕日を受けて影を伸ばしている。
今朝、あの市場を歩いた。物があふれ、領民も豊かになった。
ゼノリスは窓枠に手を置いた。石の冷たさが指に伝わった。
まだ、道は続いている。外には、この領地の豊かさを知らない国がある。知った時、どう動くかは分からない。
だが今日、この場所は確かに変わった。
廊下の遠くから、かすかに笑い声が届いた。誰の声かは、もう聞き取れなかった。
夕日が、城下の屋根を一枚ずつ照らしていった。




