第130話:「残滓の除去」
土を踏んだ瞬間、靴底から伝わる感触が変わった。
柔らかくも硬くもない。押し返す力がない。まるで何も詰まっていない器の上に立っているような、奇妙な空虚さだった。
シルヴァは足元に目を落とした。
黒い。街道を離れてからずっと、土の色が少しずつ暗くなっていた。それが今、はっきりと変わっている。踏みしめた地面は墨を流したように黒く、乾ききって細かなひび割れが走っていた。水気の痕跡すらない。
顔を上げると、枯れた木の幹が並んでいた。灰色に変色した樹皮は剥がれ落ち、露出した木肌が風化して粉を吹いている。枝には葉の一枚もなかった。枯死してなお立ち続けているだけの残骸が、等間隔に並んでいる。まるで墓標のようだった。
風が吹いた。だが、匂いがない。草の香りも、土の湿り気も、腐敗の臭いすらも。生きているものが腐る匂いではなく、最初から何もないという無臭が、鼻腔を満たしていた。
そして、音がない。
風は吹いている。枝も揺れている。だが、軋みも、葉擦れも、虫の羽音も聞こえない。耳に届くのは自分たちの足音だけだった。シルヴァは歩みを止めた。
「――団長」
背後から副団長のエルネスの声がした。シルヴァと同じエルフ族の長耳が、わずかに伏せられている。
「この先、魔力の流れが……不自然です」
「ええ」
シルヴァは短く返した。不自然、という言葉では足りない。魔力の流れが歪んでいるのではなく、吸い込まれている。地面に向かって、緩やかに、しかし絶え間なく。
後方で、護衛としてきている騎士団が隊列を整えていた。セラが選んだ軽装の兵たちだ。荒廃地の地形に対応できるよう、重い鎧は外している。彼らの視線が周囲を警戒しながら動いている。
シルヴァは前方に目を向けた。荒廃地はまだ続いている。カイロの偵察報告では、外縁部の最も深刻な場所はここからさらに奥だった。今立っている場所は、まだ入口にすぎない。
シルヴァは目を閉じ、そして開いた。
世界の見え方が変わる。【真理の眼】を発動すると、通常の視覚の上に術式の構造が重なって映る。空気中の魔力の流れが線となり、地面に刻まれた痕跡が文字のように浮かび上がる。
シルヴァの瞳が、地面を透かした。
――ある。
地表から数十センチの深さに、術式の残骸が埋まっていた。断片的な回路が、根のように地中に広がっている。一つ一つは小さい。だが、それらが網目のように繋がり合い、広範囲に渡って機能し続けている。
生命力を吸い上げる回路。種が芽を出そうとすれば、その力を奪う。水が流れようとすれば、その流れから活力を抜き取る。術式の本体はとうに消えている。だが、残骸だけが自律的に動き続けていた。主を失った術式が、命令だけを繰り返している。
「構造は把握できました」
シルヴァは目を開いたまま、エルネスに告げた。視線は地面に向けたままだった。
エルネスが一歩前に出た。
「分解は可能なんですか?」
「可能です」
シルヴァは即答した。
「構造がある以上、分解できます。ただし、回路が地中に広がっているため、地表からの術式展開では届かない箇所が出る。区画を細かく分け、一つずつ掘り下げるように処理していきます」
周囲を見渡す。黒い土、灰色の枯れ木、音のない風。ここでかつて人が暮らしていた。畑を耕し、水を汲み、日々を営んでいた。その生命の痕跡すら、術式が吸い尽くしている。
シルヴァは外套の裾を払い、地面に片膝をついた。掌を黒い土の上に置く。冷たい。温度ではなく、もっと根本的なところで冷たい。生命が通っていない土の感触だった。
「始めます」
シルヴァは細身の杖を抜いた。杖先を黒い土の上に下ろし、円を描き始める。ゆっくりと、正確に。杖が通った跡に青白い光の線が残り、地面の上に回路が刻まれていく。円の内側に直線を引き、交点から枝を伸ばし、幾何学的な構造を組み上げていく。
直径三メートルほどの術式陣が、黒い土の上に浮かび上がった。光の文字がその中で明滅している。
シルヴァは術式陣の中央に掌を置いた。青白い光が掌から地中に向かって沈んでいく。
「第一区画、術式接触」
声は淡々としていた。視線は地面に固定されている。【真理の眼】が捉えた回路の構造を、一本ずつ読み解いていく。
回路の繋がり方には規則性があった。中心から放射状に伸び、末端で枝分かれする。樹木の根に似た構造だが、生命を育てるためではなく、奪うために最適化された形だった。
シルヴァの術式が、回路の一本に触れた。
「解体」
短い宣言と同時に、青白い光が回路を辿る。接触した箇所から、術式の構造が解けていく。絡まった糸を端から解すように、一本、また一本と、回路が機能を停止していく。
地面の色が、わずかに変わった。真っ黒だった土が、濃い茶色に戻り始めている。ほんの一区画分。だが、確かに変化していた。
「エルネス」
「はい」
「次の区画の準備を。今の手順を基本形として、以降は並行で進めます」
エルネスが頷いた。シルヴァは立ち上がり、隣接する区画へ歩いた。杖先を地面に当て、【真理の眼】で地中の回路を読み取る。回路の位置と走り方を把握すると、杖で土の上に印を刻んでいく。回路の起点、分岐、末端。目に見えない地中の構造を、地表の印に置き換えていく。
シルヴァが印をつけた区画に、エルネスと団員たちが続いた。印を基に術式陣を描き、シルヴァが第一区画で示した手順で解体を始めていく。
副団長のドルンが団員たちの間を歩き、一人ずつ魔力の消耗を確かめていた。
「ペースを落とさなくていいのか」
ドルンがシルヴァに問うた。シルヴァは膝をついたまま、次の回路に手を伸ばしている。
「落とせません」
答えは短かった。
「回路は自律稼働しています。分解した区画の隣で、まだ吸収が続いている。時間をかけるほど、周囲の土壌への被害が広がる」
ドルンは黙って頷き、団員たちのもとへ戻っていった。
シルヴァは杖先を再び土に下ろし、次の印を描き始めた。
◇◇◇
荒廃地の入口に、騎士団の兵が立っていた。
ゼノリスが近づくと、兵が一礼して脇に退いた。その向こうに、見覚えのない光景が広がっている。
地面に、幾何学的な紋様が刻まれていた。
青白い残光を帯びた線が、区画ごとに土の上を走っている。術式陣の痕跡だった。一つ、二つではない。数十の術式陣が、碁盤の目のように荒廃地の表面を覆っている。その一つ一つが、シルヴァたちが残滓を除去した区画の証だった。
ゼノリスは足を踏み入れた。
最初の数歩で踏んだ土は、報告で聞いた通りだった。乾いた土、枯れた木、色のない地面。だが、術式陣の紋様を越えた瞬間、足の裏に伝わるものが違った。
硬い。
押し返す力がある。踏みしめた時に、地面がわずかに抵抗している。生きている土が持つ、あの密度だった。
ゼノリスは立ち止まり、周囲を見た。除去が済んだ区画と、まだ済んでいない区画が隣り合っている。境目は明瞭だった。処理済みの土は、真っ黒ではなく、濃い焦げ茶に変わっている。未処理の区画は依然として墨のように暗い。
その境目の向こうに、人影が見えた。
シルヴァだった。片膝をつき、地面に杖を当てている。周囲では魔術兵団の団員たちが、それぞれの区画で同じ姿勢を取っていた。青白い光が、あちこちの地面から淡く滲んでいる。
ゼノリスが近づいても、シルヴァは顔を上げなかった。杖先が土の上をゆっくり動いている。新しい術式陣を描いているところだった。
ゼノリスは足を止めて待った。
やがて、シルヴァの杖が止まった。術式陣が完成し、掌が中央に置かれる。光が地中に沈んでいく。数秒の静寂の後、シルヴァが掌を持ち上げた。
「ゼノ様」
シルヴァが立ち上がり、外套の膝についた土を払った。表情は変わらない。だが、杖を持つ手に疲労の色が見えた。指先にかすかな震えがある。
「状況を報告します」
シルヴァは背筋を伸ばしたまま、荒廃地を見渡した。
「全体の約三割の区画で、残滓の除去が完了しています。除去した区画では、生命力の吸収が停止していることを確認しました。土壌が自力で回復を始めるまでには、なお時間が必要ですが、少なくとも『奪われ続けている』状態は止まっています」
「残りの七割は、どうですか?」
「回路の密度が、奥に行くほど高くなっています。外縁部の入口付近は比較的薄かったのですが、中心に近づくにつれ、分解に要する工数が増えている状態です」
シルヴァの視線が、荒廃地の奥へ向いた。
「ただ、手順は確立できました。エルネスと団員たちが再現できる形に落とし込んであります。私が先行して回路を読み、印をつけ、団員たちが術式陣を展開して分解する。この体制で、残りの区画も処理を続けます」
ゼノリスは頷いた。
「シルヴァ」
「はい」
「少し、見せてもらえますか」
シルヴァが小さく頷いた。二人は、除去が完了した区画の中へ歩いた。
ゼノリスは足元を見ながら歩いた。焦げ茶の土が、靴底の下で軋む。乾いてはいるが、荒廃地の入口で踏んだ未処理の土とはまるで違う。あの空虚な感触がない。
ゼノリスは歩みを止め、膝を折った。
手袋を外し、素手を地面に置いた。
冷たかった。だが、それは冬の土が持つ冷たさに近い。凍えているのではなく、眠っている。指先に伝わるのは、乾いた粒子の感触と、その奥にあるわずかな湿り気だった。
ゼノリスは掌を土の上に広げた。
目を閉じた。見えるかどうかは分からない。だが、確かめたかった。この土の下に、まだ何かが残っているのか。
【至極の理】を発動した。
暗い。星はどこにもなかった。暗がりの奥に、ごく薄い色が滲んでいる。何色とも言えない。名前のつかない、微かな光の気配。
それは、可能性だった。
まだ芽吹いてはいない。だが、芽吹く余地が戻っている。吸い上げられ続けていた力が止まったことで、土が自分自身を取り戻し始めている。
ゼノリスは目を開いた。
掌の下の土を見た。黒でも茶でもない、鈍い色の地面。だが、ここにはもう呪いの回路はない。奪われる一方だった土地が、初めて静かに休んでいる。
「シルヴァ」
ゼノリスは立ち上がった。手についた土を払わずに、シルヴァを見た。
「この地は、蘇ります」
シルヴァはゼノリスを見ていた。何も言わなかった。だが、足元の土の上に、小さな花が一輪、咲いていた。枯れた荒廃地の、術式陣の痕跡の隣に。白い花弁が、風に揺れている。
シルヴァは足元に目を落とし、一瞬だけ唇を引き結んだ。
「……続けます」
それだけ言って、シルヴァは踵を返し、次の区画へ向かった。
ゼノリスはその背を見送った。花はまだ揺れている。荒廃地に咲いた、たった一輪。シルヴァの感情が生んだ花だった。
視線を荒廃地の奥へ向けた時だった。
空気が、変わった。
風の流れではない。温度でもない。もっと根の深い場所で、何かが動いている。地面を通じて伝わってくる、低く、鈍い振動。ゼノリスの足裏が、それを捉えた。
同時に、荒廃地の奥から、濁った気配が押し寄せてきた。残滓とは異なる。生きているものの気配だった。複数。こちらに向かって、動いている。
ゼノリスは目を細めた。
カイロの偵察報告が頭をよぎった。荒廃地に棲みついた魔物。残滓に引き寄せられ、この一帯を巣にしている存在。除去作業が進んだことで、領域を荒らされたと感じたのか。
「……魔物です」
ゼノリスの声は静かだった。
荒廃地の奥で、枯れ木の影が揺れた。




