第129話:「呪われた地」
ノアの指が、地図の上で止まっていた。
執務室の机に広げられた地図は、魔王領の全域を描いたものだった。ゼノリスはその向かい側に立ち、ノアが指し示す場所を見ている。
地図の中央に城の印がある。そこから街道の線が延び、農地を示す緑の塗りが周囲に広がっていた。集落の点がいくつも打たれている。再建が進んだ領地の現状を、一枚の紙が映し出していた。
だが、城の東側だけは違った。緑の塗りがそこで途切れている。城のすぐ東に広がる荒れ地――あの場所は、再建が始まった頃からずっと手つかずのまま残っていた。
ノアの指が止まっているのは、さらにその先だった。
荒れ地の向こう、領地の外縁部にあたる一帯。地図の上で白く残された空白が、帯のように領地を囲んでいる。
「ゼノ様」
ノアが口を開いた。
「領内の農地と街道の再建は順調に進んでいます。食糧自給率は安定し、物流も回復しました。ただ――」
ノアの指が、白い空白をなぞった。
「城の東側の荒れ地は以前から認識していましたが、問題はその先です。領地の外縁部に、東の荒れ地よりもはるかに深刻な未開拓地が広がっています」
ゼノリスは地図に目を落とした。白い部分は、想像していたより広かった。東の荒れ地を呑み込むように、さらに外側へ続いている。
「手つかず、というのは?」
「人が入れない状態です」
ノアが短く答えた。
「具体的な状況は、シルヴァさんから報告してもらいます」
ノアが視線を隣に送った。シルヴァが地図の横に立っていた。腕を体の前で軽く組み、地図の白い部分に目を向けている。
「ゼノ様」
シルヴァが静かに口を開いた。
「この地域は、かつて勇者たちが魔王領を侵略した際に、『供犠の簒奪』を繰り返し行った場所です」
ゼノリスの指が、地図の縁で止まった。
供犠の簒奪。生贄の数に比例して力を簒奪する禁忌の術式。勇者たちは魔王領の領民を生贄にし、神々の力を使った。ゼノリスはその事実を知っていた。だが、術式が使われた場所の詳細は、まだ把握しきれていなかった。
「術式の残滓が、いまだにこの地に残っています。特に外縁部に集中しています」
シルヴァの声は淡々としていた。だが、言葉を選んでいるのがゼノリスには分かった。
「残滓は土壌に浸透し、生命力を持続的に吸い上げています。そのため作物が育ちません。水脈にも影響が出ており、この一帯の水は飲用に適さない状態です」
ゼノリスは地図から顔を上げた。シルヴァの目が、静かにゼノリスを見ていた。
「簡潔に申し上げますと、この地は死んでいます。術式が止まった後も、残滓が生命を奪い続けている。土も水も、回復する余地を与えられていません」
執務室が沈黙した。
カイロが壁際から声を出した。
「付け加えます」
それだけで、次の言葉に入った。
「残滓は魔物を引き寄せています。通常、魔物は魔力の濃い場所に集まる習性がありますが、供犠の簒奪の残滓は、それとは別の引力を持っています。結果として、この一帯には危険な魔物が複数棲みついています。領民は近づけません」
カイロの視線は地図に向いていなかった。壁に背をつけたまま、ゼノリスを見ている。
「偵察は済ませてあります。棲みついている魔物の規模と種類は把握済みです」
ゼノリスは頷いた。
地図に手を置いた。指先が白い空白の端に触れた。紙の上に描かれた空白。だがそこには、かつて誰かが暮らしていた。
指先が、わずかに力を込めた。
「……この地を放置すれば、いずれ領内にも影響が出ます」
声は静かだった。
「残滓が広がれば、今再建している農地にも届く。水脈がつながっていれば、飲み水にも影響が出る。魔物が増えれば、領民の安全が脅かされる」
ゼノリスは顔を上げた。ノア、シルヴァ、カイロの三人を見た。
「この地を、再生しましょう」
◇◇◇
セラが執務室に入ってきたのは、それから間もなくだった。
「ゼノ様、何でしょうか?」
ゼノリスが地図を示しながら、荒廃地の状況と再生の方針を手短に伝えた。セラの目が地図の白い部分を追っている。説明が終わる前に、セラが一歩前に出た。
「魔物がいるなら、私が倒します!」
拳を握っていた。声が執務室の壁に跳ね返るほど大きかった。
「騎士団で荒廃地に入って、片っ端から掃討します。ゼノ様、任せてください!」
ゼノリスが口を開く前に、ノアが手帳を開いた。
「セラさん、気持ちは分かりますが、順番があります」
「順番?」
セラが眉を寄せた。ノアは手帳に目を落としたまま続ける。
「魔物を倒しても、残滓が残っていれば、また別の魔物が寄ってくる。先に残滓を除去しないと、掃討は繰り返しになります」
「じゃあ、先にそっちをやればいいの?」
「そうです。順序としては、まず残滓の除去。次に魔物の掃討。それから土壌の回復。この三段階で進める必要があります」
ノアの指が手帳の上を走った。書きながら話している。言葉と筆記が同時に動いていた。
「残滓の除去が最も時間がかかる。掃討と土壌回復は、並行して進められると思います」
シルヴァが口を開いた。
「残滓の除去は、私が担当します」
当然のことを口にする調子だった。
「『供犠の簒奪』は術式です。術式である以上、構造がある。構造があるものは、分解できる。私の目であれば、残滓の構造を読み解き、無害化することが可能です」
ゼノリスはシルヴァを見た。シルヴァの表情は変わらなかった。だが、『可能です』と言い切った声に、迷いがなかった。
「ただし、範囲が広い。一度にすべてを処理することはできません。場所を分けて、順に除去していくことになります」
「期間はどのくらいかかりますか?」
ゼノリスが尋ねた。
「現地の残滓の密度を見てみなければ、正確には申し上げられません。ですが、数日で終わるものではないでしょう」
シルヴァの答えは慎重だった。推測を断定にしない。それがシルヴァの話し方だった。
ノアが顔を上げた。
「全体の工程管理と物資の手配は、僕が担当します」
「カイロさんには、引き続き外縁部の偵察と情報の更新をお願いします」
ノアが壁際のカイロに目を向けた。カイロは壁から背を離さず、短く答えた。
「……わかった」
ノアが続けた。
「シルヴァさんが現地に入る際は、護衛が必要です。セラさん、騎士団から先遣の護衛を出せますか?」
「もちろん! 任せて」
セラが腕を組み、息を吐いた。
「つまり、私の出番はシルヴァの後ってことだね」
「そうなります」
ノアが淡々と返した。
「でも、掃討の準備は先に始められます。カイロさんの偵察情報をもとに、魔物の配置と種類を把握しておけば、除去が終わった場所からすぐに入れる」
セラの口元が上がった。
「分かった。じゃあ、先に騎士団の編成を見直しておく。荒廃地での戦闘に合わせて、軽装の突入隊と重装の封鎖隊を分けておくよ」
ノアが頷いた。手帳に何かを書き足している。セラの言葉を、そのまま工程に組み込んでいる。
ゼノリスは四人を見渡した。
「皆さん」
四人がゼノリスを見た。
「この地は、勇者たちが残した傷痕です。放置された土地には、かつてここで暮らしていた方たちの記憶が残っています」
ゼノリスの声は低く、静かだった。
「あの場所を再生するということは、奪われたものを取り戻すということです。時間はかかるかもしれません。ですが、必ずやり遂げましょう」
四人は答えなかった。だが、誰も動かなかった。視線が、地図の白い空白に留まっている。
紙の上では、ただの空白だ。だがその下には、死んだ土がある。
ゼノリスは地図から手を離した。




