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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

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第128話:「揺るがぬ礎」

 窓の向こうに、煙が三筋上がっていた。


 魔王城の最上階。ゼノリスは窓枠に手を添え、眼下に広がる領地を見下ろしていた。煙は近くの集落から立ち昇っている。竈の煙だった。昼食の支度だろう。風に流されて、薄い灰色の筋が空に溶けていく。


 畑が見えた。領民たちが腰を屈めて土を掘り返している。その隣では、麦の青い芽が、列を描いて土の上に揃っていた。その向こうに、荷車が一台、街道をゆっくり進んでいた。幌に布が被せてあり、荷を満載しているのが遠目にも分かった。


 市場のある広場に、人影がちらついている。天幕の下で何かを並べている者がいた。声は届かないが、手の動きが忙しい。


 数日前まで、国境で三百五十の兵とぶつかっていた。


 ゼノリスはその事実を、目の前の風景に重ねた。竈の煙も、畑の領民も、荷車も、市場の天幕も――何も変わっていない。戦があったことを、この風景は知らないかのように動いている。


 それが、守るということなのだろう。


 ゼノリスは窓枠から手を離した。石造りの階段を降り、執務室へ戻った。椅子に腰を下ろし、机の上に残していた書類に手を伸ばしたところで、扉が二度叩かれた。


「ゼノリス様」


 カイロの声だった。


「入ってください」


 扉が開いた。最初にカイロが入り、続いてノア、セラ、シルヴァ、ガルムの順で執務室に入ってきた。五人が揃うのは、数日ぶりだった。


 カイロが執務机の前に立った。姿勢は真っ直ぐだったが、力みはない。報告の姿勢だった。


「総括の報告をします」


「お願いします」


 カイロが口を開いた。


「風評、物流、内部対立、破壊工作、軍事。五つの妨害がありました」


 一拍置いた。


「領地は、一切揺らぎませんでした」


 それだけだった。経緯も詳細もなかった。カイロの報告は、結論だけで終わった。


 執務室が静かになった。


 ゼノリスは五人の顔を見た。カイロは腕を下ろし、報告を終えた姿勢のままだった。その隣で、ノアが手帳を開いている。


「ゼノ様、補足します」


 ノアが手帳に目を落としたまま続けた。


「五つの妨害は、すべて異なる経路から同時期に仕掛けられていました。風評は民間経由、物流は制度経由、内部対立は潜入工作、破壊工作は物理的侵入、軍事は正面攻撃。一つでも突破されれば、そこから連鎖的に崩れる設計でした」


 ノアが手帳から顔を上げた。


「それをすべて跳ね返したということは、僕たちの防衛体制に穴がないことを意味します。制度、情報、戦力、民心。どこから攻められても、対応できています」


 ノアの声は淡々としていたが、結論だけは明確だった。


「これで、魔王領の防衛体制は確立されました」


 ガルムが腕を組み直した。


「ノアの言う通りじゃな。わしの前を通れた者は、結局一人もおらなんだ」


 太い声が、執務室の空気を低く揺らした。積み上げた年月がそのまま響くような、落ち着いた口調だった。


「盾を構えた甲斐があったというものですな」


 セラが拳を握った。


「私たちも負けてません! 騎士団は全員無傷で帰ってきましたから!」


 声が大きかった。セラの声はいつも、嬉しいときに跳ねる。ゼノリスはそれを知っていた。


 シルヴァが小さく息を吐いた。


「私からも一つ。敵の魔術兵の練度は低く、術式に見るべきものはありませんでした。ただ、今回の対応で魔術兵団の連携手順が整理できました。次はより早く動けます」


 静かな声だった。報告というよりも、確認に近い口調だった。


 ゼノリスは五人を見た。


 カイロが静かに立っている。ノアが手帳を閉じた。セラが胸を張っている。ガルムが腕を組んだまま、わずかに口元を緩めている。シルヴァが目を伏せ、軽く顎を引いた。


「ありがとうございます」


 ゼノリスは頭を下げた。


「皆さんがいてくれたおかげで、この国は守られました」


 顔を上げると、五人の視線がゼノリスに向いていた。


 誰も言葉を返さなかった。カイロが顎を引き、ガルムが深く頷いた。セラが拳を胸の前に当て、シルヴァの口元がわずかに和らいだ。ノアが手帳を懐にしまった。


◇◇◇


 扉が閉まった。


 五つの足音が、遠ざかっていった。


 執務室に、ゼノリスだけが残っている。


 机の上の書類に視線を落とした。だが、文字を追う気にはなれなかった。ペンに手を伸ばしかけて、やめた。


 椅子から腰を上げ、窓へ歩いた。


 午後の陽が傾き始めていた。さっきより影が長い。畑の領民たちは、そろそろ道具をまとめる頃だろう。街道の荷車は、もう広場に着いただろうか。


 ゼノリスの目に映っているのは、勝利の光景ではなかった。


 畑の脇に、子供が二人走っている。追いかけっこだろうか。一人が転んで、もう一人が引き起こしている。市場の天幕の向こうで、年配の女が布を畳んでいた。その横を、木箱を抱えた若い男が通り過ぎる。声をかけている。何を言っているかは分からないが、女が片手を振って応えた。


 日常だった。


 ゼノリスがこの窓から見たかったものは、戦果でも防衛の成功でもない。この領地で暮らす人たちが、明日も同じように働き、笑い、声をかけ合っている――その繰り返しだった。


 窓の外、領地の端へ目を向けた。建物も畑も途切れ、灰色の地面が広がっている場所がある。草も生えていない。乾いた土がむき出しになり、風に煽られて土埃が舞っていた。


◇◇◇


 回廊の石畳を、セレナの足が踏んでいた。


 靴底が石を叩く音が、等間隔で響く。左手が壁に触れている。指先が石の継ぎ目をなぞるたびに、冷たい凹凸が伝わってきた。


 絹の帯が瞳を覆っている。その奥に光はない。だが、音はあった。


 回廊の向こうから、足音が聞こえた。五つ。重さも間隔もばらばらだった。


 一番前を歩いているのは、速くて軽い歩み。セラさんだ。いつも少し前のめりに歩く。靴底が石を蹴るように鳴る。


 その後ろに、ほとんど音のない足取りがある。カイロさん。気配ごと消してしまう人なのに、今は隠していなかった。仲間の間を歩くとき、カイロさんの足音はわずかに聞こえる。


 三番目は、規則正しい歩幅。ノアさん。考えごとをしているときは歩幅が狭くなるが、今は広い。頭の中が整理されているのだろう。


 四番目は、重い。一歩ごとに石畳が低く鳴る。ガルムさんだ。大きな体を揺らさずに歩く。鎧の金属が擦れる音が、かすかに混じっていた。


 最後は静かで、でも確かな足音。シルヴァさん。外套の裾が石畳を撫でる衣擦れが、足音に重なっている。


 五人の足音が近づいてきた。セレナの前で、一つだけ止まった。


 セラさんが声を上げた。


「あ、セレナさん!」


「セラさん」


 セレナは足を止めて、声の方に顔を向けた。


「セレナさん、聞いてください! 全部うまくいったんです!」


 セラさんの声は弾んでいた。足踏みをしているのが、石畳の振動で伝わってくる。


「そうなんですね。……よかった」


「すごいのはゼノ様ですよ! まぁノアが全部考えてたけど……ゼノ様が決めて――あ、ノア、待ってよ!」


 ノアさんの足音が、返事もせず先へ歩いていた。


 あとを追い、セラさんの足音が駆けていった。その後ろから、ガルムさんの低い笑い声が聞こえた。


 五つの足音が、回廊の角を曲がって消えていく。


 セレナは、立ち止まったまま耳を澄ませていた。


 足音が消えた後に、残っている音があった。


 城の外から届く音。遠く、低く、途切れることなく。金槌が木を打つ音。荷を運ぶ車輪の軋み。呼びかけ合う声。笑い声。子供の甲高い叫び。


 領民たちの音だった。


 セレナは左手を壁から離し、回廊の柱に背を預けた。石の冷たさが肩甲骨に触れた。


 勇者様のもとでは、こんな音は聞こえなかった。


 あの庭園は静かだった。鳥の声と、風と、自分の歌声だけ。外の音は届かなかった。届かないように、されていた。勇者様の語る言葉だけが、世界のすべてだった。


 でも、ここは違う。


 城の中を歩けば、足音が聞こえる。廊下で声を交わす兵たちの息遣い。厨房から漂う煮炊きの匂い。窓を抜ける風に混じる、土と草の香り。


 そして、今の五人の足音。


 あの足音には、疲れがあった。だが、重さはなかった。報告を終えた安堵が、一歩一歩に滲んでいた。


 ゼノリス様の声も、壁越しに微かに聞こえていた。言葉の一つひとつは聞き取れなかったが、声の響きは分かった。低く、静かで、温かい。あの声で『ありがとう』と言ったのだろう。音の震えが、そう伝えていた。


 五人の足音。領民たちの声。金槌の音。荷車の軋み。子供の笑い声。


 どの音にも、怯えがなかった。


 かつて勇者様のそばで聴いていた音とは違った。


 回廊の窓から、夕陽が差し込んでいた。セレナの肌に、温かさが触れた。頬に、腕に、指先に。陽の温度が、絹の帯の上からでも感じられた。


 ゼノリス様の声が、まだ耳に残っていた。壁越しに届いた、あの低く静かな響き。あの声のまわりに、今聞こえているすべての音が集まっている。領民の声も、五人の足音も、この城の空気も。


 この音は、守ることに満ちている。


 勇者様が言っていた『恐怖で支配する魔王』とは、まったく違う。


 セレナは柱に背を預けたまま、口元を緩めた。夕陽の温かさが、頬の上で広がっていく。目は見えない。だが、この音が、この温かさが、嘘ではないことだけは分かった。


 回廊に、領民たちの声が響いていた。



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