第127話:「圧倒の証明」
丘の上から、すべてが見えた。
ノアは後方の高台に立ち、広げた地図と眼下の地形を交互に見ていた。丘陵の稜線が左右に延び、その手前に守護隊、両翼に騎士団、後方に魔術兵団。配置は完了している。
丘の向こうから、勇者軍が来る。
平地を埋めるように兵の列が進んでいた。旗が十数本。先頭に騎馬の指揮官が、その後ろに歩兵が縦列で続いている。数は三百から四百。補給の荷車は見当たらない。身軽に押し込んで、一気に叩くつもりだろう。
「ヴェルナーさん」
「はい」
隣に立つ参謀副部長が、ノアと同じ方向を見ていた。
「敵の先頭が丘の麓に到達するまで、あとどのくらいですか?」
「進軍速度から見て、四半刻ほどかと」
「十分です」
ノアは地図に目を落とした。盤面は揃っている。敵の数、進軍速度、補給の有無、地形の高低差、こちらの配置。すべてが頭の中で噛み合っていた。
勇者軍の先頭が、平地の中ほどまで来た。距離が縮まっている。騎馬の指揮官が剣を掲げた。遠く、声が聞こえた。
「魔王軍だと? たかが辺境の虫けらのゴミだ! 数で踏み潰せ!」
兵たちが声を上げた。突撃の号令だった。歩兵の列が崩れ、横に広がりながら丘の麓へ駆け上がってくる。足音が地面を叩き、鎧の金属音が重なって一つの音になった。
ノアは地図から顔を上げた。
「……予想通りの形です」
補給を切り、速度で押す短期決戦型。陣形を広げて数で圧倒する。教本通りの戦術だった。教本通りであるなら、崩し方も決まっている。
「ガルムさん」
ノアが声を張った。高台から前方へ、声が通る。
「お願いします!」
◇◇◇
ガルムは前衛の中央に立っていた。
大盾を地面に立てている。両手を柄にかけ、足を肩幅に開いて構えた。背後に守護隊が並んでいる。盾が十数枚、隙間なく横一列に連なっていた。
前方から、勇者軍が来る。
丘の斜面を駆け上がってくる兵たちの顔が見えた。若い。装備は揃っているが、目が泳いでいる者がいる。訓練は受けているが、実戦は多くない。
ガルムは足を踏み直した。
先頭の兵が、あと三十歩のところまで来た。剣を振りかぶっている。その後ろに、五人、十人と続いている。
「守護隊」
ガルムが声を出した。低く、太い声だった。
「盾を構えろ」
背後で、金属が鳴った。十数枚の盾が同時に地面から持ち上がり、前方に向けられる。副隊長のバルカが右翼の端で盾列を揃えていた。声は出さない。手で合図を送り、列の乱れを正している。
勇者軍の先頭が、十歩まで迫った。
ガルムは大盾を構え直した。
「ここから先は、通さん」
【不動の盾】が発動した。
ガルムの前方の空間が、固まった。目に見えるものは何もない。だが、先頭の兵が剣を振り下ろした瞬間、刃が空中で止まった。腕ごと弾き返され、兵が後方に吹き飛んだ。
続く兵たちが殺到した。剣が、槍が、体当たりが、次々にガルムの前に叩きつけられる。どれも届かなかった。何かがあった。目に見えない、だが確かにそこにある壁が、すべてを弾いている。
ガルムは動かなかった。
「バルカ」
「はい」
「左が薄い。詰めろ」
「了解」
バルカが盾列の左端に走った。守護隊の兵が一人、二人と位置を調整する。ガルムの【不動の盾】を軸に、守護隊の盾列が壁を厚くしていく。
勇者軍の兵が、壁に張りついたまま動けなくなっていた。押しても引いても、前に進めない。後方からさらに兵が押し寄せ、自軍同士で詰まり始めている。
「……なんだこれは。なぜ止まる……!」
兵の一人が叫んだ。
ガルムは答えなかった。大盾の向こう側で、何十人もの兵が体をぶつけ続けている。金属と金属がぶつかる音が絶え間なく響いていた。
だが、壁は動かない。
◇◇◇
セラは両翼の左側で待っていた。
守護隊の壁に勇者軍がぶつかり、押し固められていくのが見えた。前に進めない兵たちが詰まっている。横に逃げようとする者もいるが、盾列が両端まで延びていて抜けられない。
「ノアの言った通りだ」
セラが呟いた。壁で止め、溜まったところを横から叩く。単純だが、ガルムの壁があるから成立する。
高台から、ノアの声が飛んだ。
「セラさん、今です!」
セラの口元が上がった。
「騎士団――」
セラが地面を蹴った。
「突撃!」
副団長のライカがセラの半歩後ろについた。獣人族の脚が地面を叩き、セラと並走する。
「行きましょう!」
「いいよ! 来い!」
二人が勇者軍の側面に突っ込んだ。
セラの拳が、最前列の兵の盾を叩いた。盾ごと吹き飛んだ。鎧が歪み、後ろの兵を巻き込んで三人がまとめて転がった。
セラの【神域の身体】は、この密集の中でこそ効いた。一人を倒せば、その衝撃が隣の兵に伝わる。密集しているから逃げ場がない。倒れた兵が隣の兵を巻き込み、そのまた隣が崩れる。
ライカが左側面から切り込み、セラが作った穴をさらに広げた。鋭い動きだった。突撃気質のライカは、セラが開けた間隙に迷いなく飛び込む。
左翼の後続がついてきた。騎士たちが二列で突入し、セラとライカが開いた穴を通路のように押し広げていく。
反対側から、声が聞こえた。
「隊列を崩すな! 右翼、そのまま押し込め!」
副団長のグラドだった。右翼に展開している騎士団が、こちらと同じ形で勇者軍の側面に突っ込んでいる。セラの目には、敵陣の向こう側で兵が崩れていくのが見えた。
左右から挟まれている。
勇者軍の陣形が、両翼から裂けた。
◇◇◇
術式が、空気を書き換えた。
シルヴァは後方の魔術兵団の中央に立っていた。目を開いている。前方で起きていること――ガルムの壁が正面を止め、セラの騎士団が両翼から陣形を裂いている――そのすべてが視界に入っていた。
勇者軍の後方で、魔術兵が動いた。五人。陣形の崩壊を食い止めようと、術式を組み始めている。光の筋が空気に走り、火球の輪郭が浮かんだ。
シルヴァの【真理の眼】が、それを捉えた。
術式の構造が見える。組み方、起点、魔力の流れ。どこに力を注ぎ、どこを省略しているか。すべてが透けていた。
「……雑ですね」
シルヴァが呟いた。火球の術式は三層構造だが、二層目と三層目の接続が甘い。ほどくのに一瞬もかからない。
シルヴァが右手を前に出した。指先が空気をなぞると、敵の術式に亀裂が走った。火球が膨らみかけたところで崩壊し、光の粒になって散った。敵の魔術兵が目を見開いている。自分の術式が壊されたことに、まだ気づいていない者もいた。
「エルネス」
「はい」
隣の副団長エルネスが、すでに両手を前に出していた。シルヴァが敵の術式を無効化した隙に、エルネスが結界の術式を展開する。光の線が地面を走り、勇者軍の後方へ弧を描くように囲んだ。
退路を封じる面制圧。エルネスがシルヴァの設計をそのまま現場に落とし、正確に展開していく。
シルヴァが再び右手を振った。今度は攻撃だった。分解した敵の術式の構造を最適化し、数倍の密度に組み直して撃ち返す。火の柱が勇者軍の後方に落ちた。地面が抉れ、兵たちが吹き飛んだ。
「あなた方の魔術は、穴だらけです」
シルヴァの声は静かだった。だが、その一言が戦場に響いた瞬間、勇者軍の魔術兵たちが術式の展開を止めた。構える手が震えている。自分たちの術が通じないと分かったのだ。
正面はガルムが止めている。両翼はセラが裂いている。後方はシルヴァが封じた。
勇者軍は、箱の中に閉じ込められていた。
◇◇◇
騎馬の指揮官が、馬上で叫んでいた。
「退け! 退却だ! 陣形を――」
声が途切れた。
指揮官の背後に、影があった。一瞬前にはなかったものが、そこにいた。
カイロだった。
短剣が一閃した。指揮官の喉を裂き、馬から崩れ落とす。地面に転がった体は、もう動かなかった。
「終わりだ」
カイロの声は低く、短かった。
周囲の兵が反応した。三人が同時に剣を抜き、カイロに向かって踏み込んだ。
一人目の剣が振り下ろされる前に、カイロの短剣が喉を走っていた。二人目は腕を掴まれて引き寄せられ、胸に刃が沈んだ。三人目が後退しようとした瞬間、背後に回ったカイロの刃が首筋を断った。三人が倒れるまで、息をつく間もなかった。
周囲の兵が凍りついた。指揮官が殺され、助けに入った三人が、一瞬で斬り伏せられている。どこから現れたのかも分からない影に、何もできなかった。
指揮系統が、断たれた。
それが合図だった。勇者軍の兵たちが、走り始めた。来た方向へ。丘を下り、平地へ。武器を捨てる者がいた。盾を投げ捨てる者がいた。
「ば、化け物だ……!」
誰かが叫んだ。その声が伝染するように、兵たちの足が速くなった。もう陣形も指揮もない。数百の兵が、ただ逃げていた。
◇◇◇
ノアは高台から、すべてを見ていた。
勇者軍が平地を南へ潰走している。追撃の必要はなかった。指揮官を失い、魔術を封じられ、陣形を粉砕された軍に、再編する力は残っていない。
「リゼットさん」
「はい。残敵なし。逃げた兵は全員南へ向かっています。伏兵や別動隊の気配もありません」
リゼットが隣で報告した。諜報副部長の目が、まだ戦場を走査している。
「ありがとうございます」
ノアは地図を畳んだ。筆記具を取り出し、手帳に数字を書き込んだ。敵の数、戦闘時間、各隊の魔力消耗の概算。
ヴェルナーが横から覗き込んだ。
「損耗は?」
「ゼロです」
ノアが書き込みを止めずに答えた。
「敵軍、撤退。我が軍の被害、ゼロ。負傷者もなし」
ヴェルナーが息を吐いた。ノアは手帳を閉じ、筆記具を腰の筆記具入れに戻した。蓋を閉める音が、静かな丘の上に響いた。
ノアの目が、丘の斜面に動いた。倒れたまま動かない兵の数を、目だけで数えた。三十一。指揮官を含めて、敵側の死者の数だった。負傷して動けない者は、それとは別に、数えきれないほどいた。
「ヴェルナーさん。負傷した敵兵の収容、お願いできますか。動ける者は武装を解いて捕虜とし、丘の麓に幕を張ります。動けない者は治療してから帰します。遺体は中腹に並べて、解放する者たちに持ち帰らせます」
「了解しました」
戦場に、風が吹いていた。さっきまで足音と怒号で満ちていた丘が、静まり返っている。セラの騎士団が隊列を整え直し、ガルムの守護隊が盾を下ろしていた。シルヴァの魔術兵団は、すでに術式を解除している。
カイロが、いつの間にか高台の傍に立っていた。ノアが振り返ると、短く頷いた。それだけだった。
◇◇◇
城に戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。
執務室の扉を開けると、ゼノ様が机に向かっていた。書類を手にしたまま顔を上げた。
ノアは執務机の前に立った。手帳を開いた。
「ゼノ様。勇者軍との戦闘の報告です」
「聞きます」
ノアは手帳を閉じた。開いたのは一瞬だった。確認するまでもない数字を、それでも確認した――そういう動作だった。
「我が軍の損耗、ゼロ。負傷者なし。報告は以上です」
ゼノ様は、しばらく黙っていた。
それから、微笑んだ。
「ありがとう」




