第126話:「鉄の試練」
書類の束が、机の上で三つに分かれていた。
税収報告、作付け計画、街道の補修進捗。どれも急を要するものではなかった。ゼノリスはペンを走らせ、署名を入れていく。インクが紙に沁みる音だけが、静かな執務室に響いていた。
街道の補修報告に手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。
「ゼノ様」
ノアの声だった。
ゼノリスはペンを置いた。ノアが扉を叩く時、必ず二回で止める。今日は一回だった。
「入ってください」
扉が開き、ノアが入ってきた。手に地図を抱えている。いつもの筆記具入れは腰に下がっているが、蓋が閉まっていない。書きかけのまま走ってきたのだろう。
ノアの顔は平静だった。だが、歩く速度がいつもより速い。執務机の前まで来ると、地図を広げた。
「勇者軍が国境を越えました」
ゼノリスの手が止まった。
「規模は数百。正規兵です。偵察や威力偵察の編成ではなく、制圧を目的とした部隊構成になっています」
ノアの指が地図の上を滑り、国境線の一点を押さえた。
「カイロさんが国境付近の動きを捕捉しました。進軍速度から見て、国境を越えたのは今朝の明け方です。現在の位置はここ」
指が止まった先は、魔王領の北の国境から三里ほど内側だった。
「進軍経路は北街道沿い。補給線は伸びきっていますが、速度を優先している様子です。おそらく、こちらが態勢を整える前に国境の拠点を押さえるつもりです」
ゼノリスは地図を見つめた。北街道は、補修を完了させたばかりの道だった。自分たちが整えた道を、踏み荒らしに来る。
「……予想通りですね」
声は静かだった。
「ノア。あなたの読みは正確でした。風評、物流、内部対立、破壊工作。すべて失敗した以上、軍事行動に出る。そう言っていましたね」
「はい。ただ、予想より早い。妨害工作の報告が本国に届いてから、通常なら部隊の編成に最低でも十日はかかります。この速度は、破壊工作の段階で並行して編成を始めていたことを意味します」
ノアの目が地図から離れず、ゼノリスを見ていた。
「つまり、工作の成否にかかわらず、軍事行動は既定路線だった可能性が高い」
ゼノリスは椅子から立ち上がった。
書類は三つの束のまま、机に残っている。税収報告も、作付け計画も、街道の補修も。どれも、この国を守らなければ意味を持たないものだった。
「ノア」
「はい」
「カイロたちを集めてください」
ノアが頷き、地図を抱えて執務室を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。
ゼノリスは窓に目を向けた。空は晴れている。風が城壁の旗を揺らしているのが見えた。領地の向こうに、まだ何も見えない。だが、近づいている。
ゼノリスは机の上の書類に視線を戻した。ペンを取り、作付け計画の承認欄に署名を入れた。インクが乾くのを待ってから、書類の束を揃え、机の端に寄せた。
それから、執務室を出た。
◇◇◇
広間に五人が揃っていた。
ノアが地図を広間の大机に広げた。カイロが壁際に立ち、腕を組んでいる。セラは大机の正面に立ち、ガルムがその隣にいた。シルヴァは地図の横に立ち、すでに目を落としていた。
ゼノリスが広間に入ると、五人の視線が集まった。
「皆さんに、集まっていただいたのは一つだけです」
ゼノリスは大机の前に立った。
「勇者軍が、国境を越えました」
広間の空気が変わった。
セラの背筋が伸びた。ガルムの腕が組み直された。カイロは壁から背を離し、半歩前に出た。シルヴァの目が地図から上がり、ゼノリスを見た。
「ノア、説明をお願いします」
「はい」
ノアが地図の前に立った。指が国境の一点を押さえ、そこから南へ滑った。
「迎撃地点は、ここ。国境から二里の丘陵地帯です。敵は北街道を南下中、補給線が薄く短期決戦を狙っています。地形の優位を取れば、数の差は消えます」
ノアが顔を上げた。
「僕の計算では、勝てます」
静かな言葉だった。ゼノリスは五人を見た。
「では、迎え撃ちましょう。皆さん、出撃してください」
セラが拳を打ち鳴らした。
「やっと来ましたね!」
声に力があった。待ちかねていた、という顔だった。口元が引き締まっているのに、目だけが笑っている。
「ゼノ様、私たち騎士団が先陣を切ります! 国境まで最速で――」
「セラさん」
ノアが地図の上に指を置いたまま、静かに遮った。
「最速で突っ込んでも意味がありません。陣形を組んでから当たります」
「分かってる! 分かってるけど……」
セラが両手を握ったまま、体を揺らした。足が床を踏んでいる。
「ガルムさん」
ノアが視線を移した。
「守護隊は中央前衛に配置します。ガルムさんの壁が、全体の軸になります」
ガルムが太い腕を解き、片手で顎を撫でた。
「なるほどな。わしが前に立ち、後ろが動く。いつもの形じゃな」
「はい。ただし今回は、正規兵が相手です。これまでの工作員とは練度が違います」
「それがどうした」
ガルムの声に力みはなかった。
「わしの前を通れた者は、おらん。正規だろうが何だろうが、変わらんよ」
カイロが壁際から声を出した。
「俺は遊撃に回る。指揮官を潰す」
短かった。それだけで十分だった。ノアが頷いた。
「カイロさんには敵の指揮系統を断ってもらいます。指揮官が落ちれば、数百の兵は烏合の衆です」
シルヴァが地図に目を落としたまま口を開いた。
「魔術兵団の配置は、中央後方でよろしいですか」
「はい。守護隊の後方から面で制圧してもらいます。敵に魔術兵がいた場合の無効化もお願いします」
「承知しました。術式の準備は、移動中に済ませます」
シルヴァの声は淡々としていた。だが、地図の上を滑る視線が止まらない。すでに術式の配置を頭の中で組んでいるのだろう。
「配置をまとめます」
ノアが地図を指で叩いた。
「前衛中央にガルムさんの守護隊。左右翼にセラさんの騎士団。後方からシルヴァさんの魔術兵団が面で押さえる。カイロさんには単独で浸透してもらい、指揮官を狙ってもらいます。僕は後方で全体の指揮を取ります」
ノアが顔を上げた。
「質問は?」
誰も口を開かなかった。ガルムが顎を引き、カイロが壁から背を離した。シルヴァの視線がもう地図に戻っている。
「ない! 早く行きましょう!」
セラだった。
ゼノリスは五人を見た。それぞれが、もう動き出す顔をしていた。
「皆さん。無事に帰ってきてください」
五人が一斉にゼノリスを見た。
セラが笑った。歯を見せる笑い方だった。
「当たり前です! 全員で帰ってきますから!」
◇◇◇
城門が開いた。
最初に出たのは、ガルムの守護隊だった。重装の兵が縦列を組み、盾を背に負って歩いている。地面を踏む足が揃っていた。鎧が擦れる金属音が、門を抜けるたびに響く。
ガルムが隊列の先頭にいた。背中に大盾を負い、前を向いたまま歩いている。振り返らなかった。
続いて、セラの騎士団が出た。軽鎧の兵が二列縦隊で走り出す。守護隊とは違い、足音が速い。風を切る音がした。
セラが隊列の横を駆け抜けた。先頭に立ち、振り返って声を上げた。
「遅れるな! ついてこい!」
騎士たちが声を返した。叫びが列を伝っていく。
シルヴァの魔術兵団は静かだった。外套を纏った兵たちが、杖を手に歩いている。隊列は整然としていたが、足音はほとんど聞こえない。シルヴァが隊の中央にいた。目を閉じている。唇が微かに動いていた。移動しながら、もう術式の準備を始めている。
カイロの姿は、見えなかった。城門を出た気配もない。だが、いないわけではなかった。
ゼノリスは城門の前に立って、出ていく隊列を見ていた。ノアが横に立っている。地図筒を肩にかけ、最後に出る準備ができていた。
「ノア」
「はい」
「全員を、帰してください」
ノアは少しの間黙っていた。それから、口元だけでわずかに笑った。
「僕の仕事は、損耗をゼロにすることです。ゼノ様がそう言わなくても、そうします」
ノアが歩き出した。城門をくぐり、隊列の最後尾へ向かう。背中が遠くなっていく。
ゼノリスは城門の前に立ったまま、動かなかった。風が吹いた。旗が揺れ、隊列の先頭はもう街道の先に消えかけている。砂埃がわずかに舞い上がった。
守るべきものは、背中の向こうにある。農地があり、市場があり、水路があり、街道がある。それを壊しに来る者がいるなら、この国は迎え撃つ。
ゼノリスは城門を見上げた。石の門柱に、朝の光が当たっていた。
◇◇◇
丘陵地帯の手前で、隊列が止まった。
北の国境から二里。ノアが選んだ迎撃地点だった。丘の稜線が左右に広がり、その向こうに平地が続いている。勇者軍は、あの平地を越えてくる。
セラが丘の上に立った。風が髪を押し上げた。
北の空は晴れていた。雲がない。地平線の際に、砂煙がわずかに見えた。
「見えた」
セラが呟いた。
砂煙の下に、動くものがある。旗が揺れている。何本も。その下に、人の列が見えた。陽光を受けて鎧が光っている。数は――多い。街道を埋め尽くすように、途切れることなく続いていた。
ガルムが隣に並んだ。盾を地面に立て、片手を添えている。
「来たな」
「来ましたね」
セラの指が、掌の中で締まった。
背後で、守護隊が前衛に展開している。盾が並ぶ音が聞こえた。騎士団が両翼に散開し、魔術兵団が後方で杖を構えている。ノアが後方の高台に立ち、地図を広げていた。
陣形が、完成していた。
カイロは視界のどこにもいない。だが、それでいい。
砂煙が近づいてくる。勇者軍の先頭が、丘の向こうの平地に出た。旗が風にはためいている。
セラは振り返った。後方に並ぶ騎士たちの顔が見えた。緊張はあった。だが、怯えはなかった。
前を向いた。
「さあ、始まるぞ!」




