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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

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第122話:「真実の声」

 羊皮紙が、指の腹に引っかかった。


 角が少し折れていた。ゼノリスはその箇所を親指で伸ばし、書類の束に戻した。執務机の上には、積み上がった書類が三つに分けられている。対応済み、確認中、保留。保留の束が、今日は一番薄かった。


 街道を荷車が行き、市場の声が窓の下から届いていた。


 しかし、外から締められている。


 ゼノリスはペンを置き、窓の外に目を向けた。空は曇っていた。光の差し込みが均一で、影のない白い昼だった。


「ゼノ様」


 ノアが執務机の前に立っていた。帳面を脇に抱え、もう一方の手に紙を持っている。いつからそこにいたのか、足音は聞こえなかった。


「風評妨害への対応ですが」


「どうぞ」


「周辺国の商人たちを、魔王領に招待します」


 ノアは紙を広げた。すでに三国の名が書き込まれていた。北のヴァルガン鉱山公国、西のグランフェル王国、東のアルディア工都連邦。


「招待状の文面も、もう用意してあります」


「商人たちは来ますか?」


「来ます」


 断言だった。


「商人は損得で動きます。噂が本当かどうか、確かめに来るだけの価値がある。そう思わせる文面にしてあります」


 ノアが紙を折り、机の端に置いた。


 ゼノリスはノアを見た。ノアは視線を紙に落としたまま、次のページを開こうとしていた。


「分かりました。進めてください」


 ノアが頷いた。指先が帳面のページをめくる音が、静かな執務室に短く響いた。


◇◇◇


 商人たちがすでに集まっていた。三国から数名ずつ、招待状を受け取った商人だった。


 グレイは馬の上から魔王領の入り口を見た。長年三国の街道を渡り歩いてきた交易商だった。


 噂は聞いていた。魔王が民から搾取している。力で支配している。近寄るべきではない、と。


 それでもアルディアに招待状が届いた時、足が動いた。


 商人は損得で動く。噂が本当なら引き返せばいい。本当でないなら、可能性がある。それだけの判断だった。


 馬の蹄が石畳を踏んだ。


 乾いた、硬い音だった。均一に、端から端まで同じ音が返ってくる。グレイは手綱を緩めた。石畳の精度が高い。道の両脇に木が並び、葉が空の白い光を受けて青く見えている。


 城門の前で馬を預け、一行は徒歩で進んだ。


 隣の商人が小声で言った。


「……思っていたのと違うな」


 グレイは答えなかった。まだ判断するには早かった。


 先導しているのは若い男だった。線の細い体格で、少し猫背ぎみに歩いている。帳面を脇に抱え、時折紙に目を落としながら道を進む。急かさない。しかし迷いもなかった。


「農地をご覧ください」


 男が足を止めた。街道の脇、石垣の向こうに農地が広がっていた。


 穂の列が、端から端まで揃っていた。土の色が濃く、湿り気を含んでいる。


 畝と畝の間に細い水路が通り、光が水面に反射していた。畝の間に人影があった。年配の農夫と若い農夫が並んで、土に手を入れている。言葉を交わしながら、作業が続いていた。


「この農地は、数か月前まで白く乾いていました」


 先導の男が言った。感情を混ぜない、事実だけの語り口だった。


「今は、この農地だけで領民全員が一年を越せます」


 グレイは土の色をもう一度見た。噂の中にあった『搾取』という言葉が、頭の中で浮いた。浮いたまま、どこにも着地しなかった。


 別の商人が馬を寄せてきた。


「水路はどこから引いているんだ?」


「城の西側の湧き水を水源に、自然流下で農地まで引いています」


 商人たちの間に、短い沈黙があった。


 先導の男は振り返らなかった。ただ、次の方向に歩き始めた。


「続けましょう。次は街道の先です」


 グレイは一歩踏み出した。石畳の感触が、来た時と変わらず足の裏に返ってきた。


 来る前に想像していた光景と、今見ているものが、どこかで食い違い始めていた。


◇◇◇


 声が、前から届いた。


 市場に入ると、音の密度が変わった。呼び込みの声、交渉の声、子どもの声、支払いの音。それぞれが別の方向から来て、重なっている。グレイは立ち止まった。


 台が並んでいた。布、野菜、加工品、陶器。種類がばらばらだった。売り手の顔も、年齢も、体格も揃っていない。それぞれが自分の台の前に立ち、客と向き合っている。


 一人の女が、布の端を光に透かしていた。隣で商人が値段を告げる。女は布を返し、別の一枚を手に取った。交渉が始まった。声が弾んでいた。……怯えていない。


 グレイは台の間を歩いた。


 足元に水路があった。石組みの細い水路が、市場の端を流れている。水が澄んでいた。流れの底まで見えた。臭いがなかった。市場の中心を水が通っているのに、腐った匂いが一切ない。


 別の商人が小声でグレイに言った。


「水が、きれいだな」


 グレイは頷いた。返事はしなかった。


 先導の男が市場の端で足を止め、振り返った。


「城壁へどうぞ」


◇◇◇


 城壁の上から、領地が見渡せた。


 先導の男が石段を先に上がった。


 グレイは胸壁に手を置いた。石が冷たかった。表面が均一に削られ、継ぎ目が細かった。積み直した箇所と元からある箇所の境界が、近くで見なければ分からない。


 眼下に、農地が広がっていた。穂の列が、端まで続いている。街道が南北に延び、荷車が一台、城下へ向かっていた。市場のあたりから声が届く。遠くて言葉は取れないが、声の重なりが途切れない。


 グレイは城壁の石をもう一度見た。


 この壁は、最近積まれている。急いで積んだのではない。一つひとつが、丁寧に据えてある。


 後ろで、一人の男が声を上げた。


「あんた、どこから来た?」


 振り向くと、守護隊の隊員が一人、壁の際に立っていた。グレイに話しかけているのではなかった。隣に立つ別の商人に向けていた。


「グランフェルから来た」


 その商人が答えた。


「グランフェルか。遠いな」


 隊員が言った。警戒していない声だった。


「噂を聞いて来たのか?」


「……ああ」


「どんな噂だ?」


 商人が少し間を置いた。


「魔王が民を搾取しているという噂だ」


 隊員は笑った。声に嫌みがなかった。


「それで、どう見える?」


 商人は答えなかった。城壁の上から領地を見た。農地、街道、市場。それからもう一度、足元の石を見た。


◇◇◇


 農地に戻ると、老農夫が若い農夫に何かを告げているところだった。先導の男は少し離れた場所に立ち、帳面に何かを書き込んでいた。


 畝の先を指しながら話している。若い農夫が頷き、溝の方へ歩いていった。老農夫はその背中を見送ってから、グレイに気づいた。


「商人さんか」


 老農夫が言った。


「見たか、この畑」


「見ました」


 グレイが答えた。


「数か月前まで、白く乾いていたそうですね」


 老農夫は頷いた。それから畝の先を見た。


「ここはずっと乾いていた。根は息できなくてな。水が来てから、ようやく土が変わった。そして根も息ができるようになった」


 グレイは老農夫の手を見た。節くれだった指に、爪の間まで土が入り込んでいる。洗っても落ちない染みのような色だった。


「ゼノリス様がいなければ、こうはならなかった」


 老農夫が続けた。声は静かだった。自慢でも、感謝の演技でもなかった。


「わしたちの才能を、あの方は見てくれた。土の声が聴けると言ってくれた。だからわしたちは動けた」


 若い農夫が戻ってきた。溝の確認を終えたのか、手に泥がついていた。老農夫の言葉を聞いていたのだろう、続けるように口を開いた。


「俺もそうです。最初は半信半疑だった。でも、最近自分でも分かるようになってきた。土が何を求めているかを」


 グレイは二人を見た。


 噂の中にあった言葉が、頭の中で浮いていた。搾取。支配。力による統治。今、目の前にいる二人の顔のどこにも、そのどれもなかった。土のついた手が、誇りを持っていた。


「これが、魔王の統治か」


 グレイは声に出していた。独り言だった。


 老農夫は答えなかった。畝の先へ目を戻した。それだけだった。


◇◇◇


 城門の前に立った時、グレイは一度だけ振り返った。


 城壁が、青空を背に立っていた。修復された白い石が、光を受けていた。農地の端で、農夫が畝に手を入れていた。市場の声が、かすかに届いていた。


 隣の商人が馬の手綱を取りながら言った。


「帰ったら、話すことがある」


「ああ」


 グレイは馬に乗った。蹄が石畳を踏む音が、来た時と同じ均一な音を返した。


 街道を進みながら、グレイは老農夫の言葉を思い返していた。


――わしたちの才能を、あの方は見てくれた。


 それだけの言葉だった。しかしその重さが、胸の中に残っていた。


◇◇◇


 数日後、ノアが執務室に入ってきた。


 帳面を開いたまま、机の前に立った。


「ゼノ様、報告です」


「どうぞ」


「グランフェル、ヴァルガン、アルディア。三国の商人たちが、帰国後に話を広めています。内容は――魔王領は豊かで、民は自分の意志で働いている。噂とは別物だ、というものです」


 ノアが帳面に目を落とした。


「風評妨害の効果は、すでに薄れ始めています。新しく噂を流しても、実際に来た者の言葉の方が重い。覆すのは難しくなりました」


 ゼノリスは窓の外を見た。街道を荷車が行き、市場の声がかすかに届いていた。昨日と変わらない昼だった。


「真実は、自分で歩きますね」


 ゼノリスは言った。誰に向けた言葉でもなかった。


 ノアが帳面を閉じた。一拍置いて、口を開いた。


「次は、物流妨害ですか?」


「そうなりますね」


 ゼノリスは執務机に向き直った。書類の束が、今日も積まれていた。



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