第121話:「暗雲」
光が、斜めに差し込んでいた。
執務室の窓は南向きだった。午前の光が窓枠の形のまま床に落ち、明と影の境界が室内を横切っている。
ゼノリスはペンを走らせた。紙の上を滑る音が、静かな室内に低く響く。インクが乾く前に次の行へ移り、また乾く前に次へ。手は止まらなかった。
今朝だけで三通になる。水路の点検記録、市場の売上報告、守護隊の週次報告。どれも滞りがなかった。領地は昨日も、その前の日も、止まらずに動き続けていた。
書き終えた紙を脇に置き、次の一枚を手に取った。ペンの軸が指の腹に馴染む。この重みにも、ようやく慣れてきた。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
カイロだった。紙を一枚、手に持っている。扉を静かに閉め、迷いのない歩幅で机の前まで進んだ。立ち止まる位置が、いつも同じだった。
「ゼノリス様」
声は低く、平らだった。
「教会連合圏に、偵察報告が届いたようです。各地で動きが出ています」
ゼノリスの指が止まった。ペンの先が、紙の上で一瞬だけ沈んだ。インクが滲む前に、静かに持ち上げた。
――来たか。
ペンを置いた。カイロを見た。カイロは書類に目を落としたまま、表情を動かさない。切れ長の目元が、光の中で静かに伏せられていた。
「詳細を聞かせてください」
「それは、ノアから」
カイロが一歩退いた。それを待っていたかのように、扉が再び開いた。
ノアが地図を脇に抱えて入ってきた。
帳面と数枚の紙も一緒に持っている。机の端に地図を広げ、指先でいくつかの地名を押さえた。指の動きに無駄がなかった。地図の全体を見ているのではなく、すでに結論が先にある動き方だった。
「まず風評妨害です」
声に感情はなかった。事実を並べる、静かな語り口だった。
「『魔王領は民から搾取している』『魔王は力で支配している』という噂が、周辺国の複数の交易路に流れています。出所は一か所ではありません。複数の地点から、ほぼ同時に広がっています」
指が地図の上を動いた。北の街道沿いの都市を押さえ、東の商業港へ移り、南西の宿場町で止まった。魔王領を遠巻きに囲むように、点が散らばっていた。
「意図的に組まれた風評です。どこか一か所から広がったものではない。情報の散らし方に、規則性があります」
ゼノリスは地図を見た。ノアが示した地点の間隔が、頭の中で繋がっていく。
「どのくらいの速度で広がっていますか?」
「すでに三国の商人層に届いています。一週間で現在の状況です」
ノアが帳面を開いた。視線が一行を捉え、指先がそこで止まった。
「放置すれば、物流に影響が出始めます。商人は噂に敏感です。『あそこへ行くと損をする』という話が広まれば、来る理由より来ない理由の方が強くなります。足が遠のく前に、手を打つ必要があります」
「分かりました。続けてください」
「次が、物流妨害です」
ノアが紙をめくった。
「聖教会が、通行証の発行を停止しました。一週間の猶予期間を経て、魔王領への物資流入を完全に阻止しようとしています」
声は変わらず静かだった。
「対象は全品目です。魔王領への物資流入が、全て止まります」
「その影響は?」
ノアは一拍置いた。
「長期的に効いてきます。食料の自給は達成していますが、薬草や加工品は外から入れている部分もあります。時間をかけてじわじわと圧を高めていく、そういう設計だと思います。あえて猶予を設けることで、混乱を招こうとしている思惑も見えます」
◇◇◇
扉が、また開いた。
入ってきたのは、ガルムだった。重い足音が床を踏み、セラとシルヴァがその後ろに続いた。ガルムは机の前まで進まず、部屋の中ほどで足を止めた。両手を背後に組み、顎を引いて前を向く。その立ち方に、長年の戦場の染みついた重さがあった。
セラとシルヴァはガルムの少し後方に立った。口を閉じていた。腕は脇に下ろしているが、指先が微かに動いていた。
「ゼノリス様」
ガルムが口を開いた。低く、据わった声だった。
「国境付近で、我らの商隊が勇者軍の兵士どもより妨害を受けておると、報告が入っておりますぞ」
「具体的には?」
「街道で商隊を止め、荷を改めると称して長時間足止めをしておるようですな。荷は傷み、馬は疲弊する。検問の体を借りた嫌がらせですからな」
ガルムは続けた。
「怪我人は出ておりませぬ。されど、繰り返せば商人は足を引く。物が動かなくなる。じわじわと締めてくる腹づもりでしょう」
「報告は何件ですか?」
「この三日で五件。いずれも同じ街道筋ですからな」
ノアが帳面に何かを書き込んだ。視線を上げずに、指先だけが動いた。
三つが揃った。
風評、物流、街道での妨害。それぞれが別の手口だった。しかし向いている方向は一つだった。魔王領を孤立させること。外からじわじわと締め、内側から崩れるのを待つ。
ゼノリスは机の上の地図を見た。ノアの指が押さえた地点が、まだそこにあった。
室内が静かになった。
窓の外で、何かが揺れた。光の中で白く、穂の先が風に傾いていた。農地はまだそこにある。街道もある。市場も城壁も、昨日と同じ場所にあった。妨害が始まっても、今日の朝は変わらずそこにあった。
それでも、この静けさは長くは続かない。
「ゼノ様! あっちがやるなら、こっちもやり返すだけです!」
セラの声が、室内に響いた。
ガルムがわずかに振り返った。ノアが帳面から目を上げた。カイロは表情を動かさなかったが、視線だけがセラに向いた。
セラは一歩前に出ていた。いつの間にか拳を握っている。膝が前に出て、踵がわずかに浮いていた。前のめりの姿勢のまま、ゼノリスを見ていた。
「みんなのことを思って国を作っているのに、向こうは嘘を撒いて、物を止めて、嫌がらせをする。それのどこが正義なんですか! やるなら受けて立てばいい。やり返せばいい。それだけじゃないですか!」
言葉が止まらなかった。
「ゼノ様が積み上げてきたものを、外から潰しにくるなんて。そんなの、絶対に許せない」
最後の一文は、声が低かった。怒りの底が、そこにあった。
ゼノリスはセラを見た。
拳の甲に、力が入っている。爪が掌に食い込んでいるだろう。目元が赤くなっていた。怒りなのか、それとも別の何かなのか、セラ自身も分かっていないかもしれなかった。
「セラ」
ゼノリスは静かに言った。
セラの肩が、わずかに止まった。
「やり返すのではなく、真実を示すのです」
セラの眉が動いた。言葉の意味を追いかけようとしている顔だった。
「向こうが嘘を撒くなら、私たちは事実を並べます。向こうが物を止めるなら、私たちは別の道を探します。向こうが商隊を妨害するなら、私たちは商隊を守る仕組みを作ります。やり返すことと、返り討ちにすることは違います」
カイロが小さく息を吐いた。音ではなかった。肩の位置がわずかに変わった。
ノアが帳面を閉じた。
「……予想通りですね。では、一つずつ対応していきましょう」
セラはまだ拳を握っていた。しかし前のめりだった姿勢が、少しだけ戻っていた。
「……ゼノ様は、怒らないんですか?」
ゼノリスは少し間を置いた。
「怒っていますよ」
セラが目を見開いた。
「ただ、怒りを使う場所が違うだけです。怒りを相手にぶつけることと、怒りを力に変えることは別のことです。私は後者を選びます」
セラの拳が、ゆっくりと開いた。
ゼノリスは室内を見渡した。カイロ、ノア、ガルム、セラ、シルヴァ。それぞれが前を向き、誰も何も付け足さなかった。
「まず、風評妨害への対応から始めます」
ゼノリスはノアを見た。
「ノア。嘘を打ち消すのに、最も効くものは何ですか」
ノアが帳面を開きかけた手を止めた。一瞬だけ、目が動いた。答えを探しているのではない。すでにある答えを、選んでいる目だった。
「……見せることです」
ゼノリスは頷いた。
窓の外で、城下の音が低く届いていた。領地は、今日も動いていた。




